【鮎の主演映画と魔王のバグ】
【鮎の主演映画と魔王のバグ】
そして、本多鮎が主演を務め、全国プロモーションを駆け回っていた映画が、ついに全国の劇場で公開された。
公開されるや否や、映画は日本中で社会現象を巻き起こすほどの大ヒットを記録した。
SNSは連日その映画の話題で持ちきりとなり、興行収入は瞬く間に数十億を突破。「日本中が泣いた」「今年最高の感動作」という見出しがメディアを埋め尽くした。
物語は、切なくも残酷な『転生もの』の純愛悲劇である。
妻に先立たれ、孤独と後悔の中を生きる初老の男。そして、その死んだ妻が生まれ変わった姿が、鮎演じる若きヒロインだった。
奇跡の再会を果たした時――初老の夫は不治の病に侵されており、最後に二人は固く抱き合い、永遠の別れに満ちた熱いキスを交わす。
ある意味でヒーローとヒロインの両方を殺すような、容赦のない、反則級に泣かせる映画だった。
その圧倒的な脚本に加え、何よりも日本中の話題を掻っ攫ったのは、その初老の男(夫)を演じた大物俳優――【大泉洋】の存在と、鮎との魂を削るような名演技(そして衝撃のキスシーン)だった。
だが。
スノーの事務所内で、この映画の大ヒットが最も深刻な「問題」を引き起こしたのは、全く別のベクトルにおいてであった。
「……う、う……うわあああああああああああんっ!! なぜだ、なぜだぁぁぁぁっ!!」
社長室に、頭を抱えた恋問持子の絶叫が、まるで断末魔のように響き渡った。
持子の手には、大ヒット上映中の映画の豪華版パンフレットが握りしめられ、その指先はワナワナと激しく震えている。
「……持子先輩、少し落ち着いてください。汗と涙で完璧な美しさが崩れてしまいます。そんなの美しくありません」
打ち合わせのために同席していた高橋玲央が、呆れたように溜め息をついた。
「全くです。なぜ魔王が映画のパンフレットを握りしめて号泣しているのか、論理的に説明がつきません」
南原紗良も、極寒のシベリアのように冷たい声で的確な猛毒を吐き捨てた。
「ああっ、持子先輩! 悲しいなら私が慰めて差し上げます! さあ、私の胸に飛び込んで、存分におっぱいを揉んでください!」
持子への狂信的な愛に目覚めている阿部凛花だけが、目をキラキラさせながら両手を広げて迫っていた。
「持子、ここは社長室よ。少し静かにしてちょうだい」
デスクで分厚い書類に目を通していた社長の立花雪が、極上の微笑みを浮かべたまま、冷ややかなプレッシャーを放った。
「全くだぜ! ただの映画のパンフでギャーギャーうるせえんだよ。少しは社長の――ひっ! い、いえ! 持子さんの深い映画愛、副マネージャーとして大変感銘を受けます!!」
俺様全開で文句を言おうとした土御門朔夜だったが、雪の「絶対零度の視線」を浴びた瞬間、秒速で従順な『僕』モードへと切り替わり、直立不動の姿勢をとった。
「モチコサマ、オナカ、イタイデスカ? オチャ、ハイリマシタワ……」
イギリスのトップモデルにして元大悪魔の雑用係、シャーロットが、カタコトの日本語でオドオドとお茶を運んでくる。
「おっぱいもお茶も後回しだ! あ、鮎!! 貴様、相手役が……っ! あ、あの『大泉洋』様だというのか!? 嘘だと言え!!」
持子は興奮のあまり鼻息を荒くして、ソファーで優雅に紅茶を飲んでいた鮎に詰め寄った。
「ええ。そうですわよ? ポスターにもデカデカと載っているじゃありませんか」
鮎はティーカップを置き、ふふっと微笑んだ。
「わ、わしが……わしがこの世でただ一人『神』と崇め、一生どうでしょうすると誓ったあのTEAM NACSの至宝、大泉様と……貴様が、共演しただとぉ!?」
持子の脳内は、処理落ち寸前のパニック状態だった。
「ええ、もう。最高の現場でしたわ♡」
鮎は、持子の限界オタクとしての発作を面白がるように、わざとらしく、そして極めて親しげなイントネーションで語り始めた。
「……あのですね、持子様。『洋さん』は、本当に素晴らしい方でしたの」
「よ、よ、よ、洋さ……っ!?」
持子の喉から、カエルのような変な声が漏れた。
「貴様、神を『洋さん』とファーストネームに『さん』付けで呼んだのか!? わしでさえ心の中では『洋様』と呼んで敬っているというのに!!」
持子が床を転げ回りながら絶叫する。
「オォゥ……ヨウサン。ホッカイドウノ、モジャモジャノ、オモシロイ、オジサマデスネ? ワタクシモ、テレビデミマシタワ!」
「おいおい……あの国民的大御所を下の名前で呼ぶとか、鮎さん、どんな距離の詰め方したんだよ……」
朔夜が素のトーンで引いていると、雪が満足げに頷いた。
「ええ。大御所の懐にそこまで入り込めるなんて、スノーの看板女優として満点の営業努力ね。鮎、次のボーナスは弾んであげるわ」
「ありがとうございますわ、雪社長♡」
「だって、洋さんが『鮎ちゃん、僕のことは洋さんって呼んでよ』って仰ってくれたんですもの」
鮎は頬に手を当ててうっとりと目を細めた。
「洋さんはね、本当にテレビで見ている通りの方でしたわ。カメラが回っていない時でも、いつもあの調子で冗談を言って、現場のみんなを笑わせてくださるんです」
「ぐはぁぁぁぁっ……!!」
持子は胸を押さえて床に突っ伏した。
(知っておる! わしは知っておるぞ! あの人はそういう人なのだ! ああっ、生で、生の洋様のボヤキを聞きたかった! なぜわしがその現場にいなかったのだ!!)
「演技のアドバイスも、たくさんしていただきましたのよ」
鮎は嬉しそうに語り続ける。
「『鮎ちゃん、ここの間はね、もう少しだけ溜めた方がいいよ』って、わたくしの目を見て、直接優しく教えてくださったんです」
「目を見て!? 洋様が貴様の目を!? わしの黄金の瞳を見ろぉぉぉっ! わしにも演技の間を教えてくれぇぇっ! わしはセリフを喋るとただのオッサンになってしまう大根役者なのだぞ!!」
持子は自身の長い髪を掻き毟りながら、嫉妬の炎で全身から極黒の魔力をボワァァッと噴出させた。
「さらに極めつけは……美味しいお店ですね」
鮎がトドメとばかりに、ニヤリと極悪な笑みを浮かべた。
「撮影の帰りに、洋さんが『美味しいご飯、食べに行こうか』って、わたくしを連れて行ってくださったんです」
「ご、ご飯……だと……?」
持子の顔から血の気が引いた。
「ええ。持子様がいつも行っているような、床が油で滑る、ニンニクとアブラとヤサイが山盛りの『ラーメン二郎』……なんかじゃありませんわよ?」
「ぐはっ!」
「洋さんが連れて行ってくださったのは……会員制の、本当に美味しい『大人の店』。隠れ家のような極上のフレンチや、板前さんが目の前で握ってくれる最高級のシースー(寿司)ですわ。……洋さんが『鮎ちゃん、これ美味しいよ』って、わたくしのお皿に……♡」
「ぎゃあああああああああっ!!」
持子はついに頭を抱えてのたうち回った。
「じ、二郎は神の食べ物だ!! だが! 洋様の選ぶ店もまた絶対の真理!! ああっ、わしも洋様と一緒にフレンチを食いたかった! 寿司を食いたかった! 洋様が握った寿司ならシャリが泥でも食うのにぃぃぃっ!!」
「……ひどい有様ですね。オタク特有の異常な執着心と食い意地が、絶世の美貌を完全に台無しにしています」
南原が論理的に持子の奇行を切り捨てる。
「ラーメン二郎と高級フレンチを同列に語るんじゃねえよ……」
朔夜もやれやれと肩をすくめた。
「……というわけで」
鮎は最後に、心からの笑顔で締めくくった。
「わたくし、今回の撮影を通して……完全に洋さんの『ファン』になってしまいましたわ。持子様が崇める理由が、よく分かりました」
「……うっ、うぅっ……!」
持子の目から、滝のような涙が溢れ出した。
第一下僕が自分の推しの素晴らしさを理解してくれたという『オタクとしての歓喜』と、自分を差し置いて神とイチャイチャしていたという『凄まじい嫉妬』。二つの感情が完全にバグを引き起こし、持子はパンフレットを抱きしめたままプルプルと震えていた。
だが、持子の試練はこれで終わりではなかった。
持子が涙目でパンフレットのページをめくった、その時である。
『今世紀最大の号泣必至。大泉洋と本多鮎が魅せる、美しくも哀しい【最後のキスシーン】――』
「…………」
持子の動きが、彫像のように完全にピタリと止まった。
「あ……あゆ。き、きす、だと……?」
持子は、地鳴りのような低い声で尋ねた。
「ええ。女優ですから」
鮎は涼しい顔でティーカップを傾ける。
「き……貴様、わしの第一下僕のくせに……わしがこの世でただ一人神と崇める男と、唇を重ねたというのかぁぁぁぁっ!?」
持子の限界が突破した。
「キスシーン!? 鮎先輩が……っ!」
阿部がハッと息を呑む。
「オォゥ……ロマンチック、デスワ!」
シャーロットが両手を合わせてうっとりとする。
「おのれぇぇっ……! 許せん! 許せんぞ!!」
持子はワナワナと立ち上がった。
「……だが! わしの中身は三国志を生き抜き、天下を恐怖で支配した暴君・董卓! 心は男! オスなのだ! これ以上、女々しい事は言わんのだ!」
持子はビシッと天を指さし、強引に魔王としての威厳と男らしさをアピールした。
しかし、次の瞬間。
『ズサァァァァァァッ!!』
持子は、鮎の足元に向かって、床が摩擦で焦げるほどの猛烈なスピードでスライディング土下座をキメた。
「だから頼む鮎!! 洋様のサインをもらってきてくれぇぇぇっ!!」
「……」
「宛名は『持子さんへ』で頼む! いや待て! いっそ『子猫ちゃんへ』と書いてくれとねだってくれ! 洋様は女性ファンのことを『子猫ちゃん』と呼ぶのだ! わしも、わしも洋様の子猫ちゃんになりたいのだぁぁぁっ!!」
床に額を擦りつけ、なりふり構わず土下座で哀願する絶世の美少女。
「……社長室の最高級ペルシャ絨毯を焦がさないでちょうだい、持子」
雪が冷ややかな声で釘を刺す。
「天下の魔王が、大泉洋のサイン欲しさにスライディング土下座って……マジで情けねえ……」
朔夜も完全にドン引きしていた。
「……言っていることとやっていることが、最高に女々しいですわよ、持子様」
鮎から、絶対零度の冷酷かつ的確なツッコミが入る。
「心はオスだと言い張りながら『子猫ちゃん』と呼ばれたがる……完全に論理が破綻しています。不気味です」
南原も容赦のない猛毒を吐き捨てる。
「もう撮影もプロモーションもとっくに終わってますから、今からサインは無理ですわ」
「ぐはぁっ……!!」
絶望に打ちひしがれる持子。
「それに、あのキスシーンですが」
鮎は、崩れ落ちる持子を見下ろしながら、小悪魔のような……いや、本物の悪魔のような笑みを浮かべた。
「あれはあくまで『お仕事』ですの。それに……わたくし、あのラストのキスシーンの撮影中、目を閉じて、洋さんを『持子様』だと思ってキスしましたのよ?」
「なっ……!?」
持子が、ビクッ! と顔を上げた。
鮎は自分の柔らかく艶やかな唇を、人差し指でツゥー……と色っぽくなぞる。
「わたくしの持子様への愛と妄想が限界突破した、最高のキスシーンに仕上がっておりますわ。ですから持子様、絶対に劇場で、スクリーンに映るわたくしの唇を……隅々まで見て、想像してくださいね? ふふっ♡」
わざとらしく、最高に煽ってくる鮎。
「……ぬぅぅぅぅぅっ! 言葉巧みにわしを挑発しおって……っ!!」
大泉洋への限界オタクとしての感情と、自分の下僕が他の男とキスをしたという嫉妬。そして、鮎からのとんでもなくエロティックな挑発。
それがマーブル状にドロドロに混ざり合い、ついに持子の理性のヒューズが完全に吹き飛んだ。
『ガシッ!!』
「きゃっ!?」
次の瞬間、持子は床からバネのように跳ね起きると、鮎の細い腰を力強く引き寄せ、そのままソファーへと押し倒した。
「も、持子様……!?」
「スクリーン越しに眺めて想像しろだぁ? ふざけるな! 貴様のその生意気な唇の記憶など、今ここで、わしが直接『上書き』してやるわ!!」
有無を言わさぬ魔王の覇気。
そして、持子は自身の絶世の美貌を鮎の顔へと近づけ――。
『チュッ……』
重く、そして深く、鮎の唇を塞いだ。
「んんっ……!? ぁ……んっ……♡」
持子の強引で熱いキスに、鮎の瞳孔が限界まで開き、全身の細胞が歓喜で爆発した。
「き、きゃーっ! なんですかそれ、少女漫画ですか!!」
恋バナ好きな女子高生の一面を持つ高橋が、顔を真っ赤にして身悶えする。
「ずるいです! ずるいです鮎先輩っ! 持子先輩、私の唇も空いてます! いつでも上書き保存可能ですぅぅっ!!」
持子への狂信的な百合の波動に目覚めている阿部が、発情した獣のように叫び声を上げた。
「ワォ! モチコサマ、アグレッシブデスワ! ワタクシモ、キスのレンシュウ、オアイテシマスワヨ!」
シャーロットが何故か自分も唇を突き出して参戦しようとする。
「お前はしなくていい! 頼むからこれ以上カオスにしないでくれ!」
朔夜が慌ててシャーロットの頭をポンポンと撫でて宥め、深い溜め息をついた。
しばらくして唇を離した持子は、顔を耳まで真っ赤にして天を仰ぎ、頭を抱えた。
「あああああっ!! わしにももう分からん!! なんなのだこの感情はぁぁぁぁっ!! わしは洋様にキスされたいのか、鮎にキスしたいのか、それとも洋様になって鮎にキスしたいのかぁぁぁっ!?」
嫉妬とオタク心と己の男のプライドの間で完全にバグってしまった極黒の魔王の絶叫が響き渡る中。
「……ふふっ、若いっていいわね」
雪は極上の微笑みを浮かべながら、優雅に紅茶のカップを置いた。
「でも、そろそろ次の仕事の時間よ。朔夜くん、シャーロット、車を回しなさい。持子、あなたも頭を冷やして午後からの撮影に行きなさい。……スノーのタレントとして、遅刻は許さないわよ?」
「「「はいっ! 社長!!」」」
雪の静かだが絶対的な命令に、カオス空間は一瞬にしてピシャリと引き締まり、スノーの面々は慌ただしく午後の業務へと駆け出していくのであった。




