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【泥棒猫は地獄で牙を研ぐ】

【泥棒猫は地獄で牙を研ぐ】


夜の東京を抜け、花園美羽が単身で向かったのは、TIA(高田馬場囲碁愛好会)の地下要塞であった。

冷たい蛍光灯が照らす無機質な訓練室。そこに、漆黒の特務制服に身を包んだ風間楓が、静かに木刀を振っていた。


『シュッ……! ピタリ』


寸分違わぬ完璧な型で素振りを止めた楓が、振り返ることなく口を開く。


「……ようやく、その気になりましたか。花園美羽」


「はい。遅くなって申し訳ありません、楓さん」


美羽は訓練室の入り口で、深く頭を下げた。いつものあざといアイドルスマイルは消え失せ、その瞳には暗殺者としての冷徹な覚悟が宿っている。


「合気武道部の子たちの異常な適応力を見て、焦ったのですね。魔力総量の少ないあなたが、持子先輩の隣という『特等席』を死守するために」


「……お見通しですか。悔しいですが、このままでは私は役に立たなくなります。どうか、私を『風魔裏隠衆』へ行かせてください。人間としてのサバイバル能力と、殺しの技術を極めるために」


楓は振り返り、氷点下の瞳で美羽の覚悟を真っ直ぐに見定めた。


数秒の沈黙の後。


「……了承しました。死ぬ気でやってきなさい」


楓がパチン、と指を鳴らす。


『スゥッ……!』


「なっ……!?」


美羽の背後の影から、音もなくヌルリと一人の男が湧き出した。

漆黒の忍び装束に身を包んだ、初老の男。TIAの下部組織であり、日本の裏社会で最も恐れられる暗殺・工作集団『風魔裏隠衆』の代表、風魔三平である。


「お迎えに上がりましたぞ、お嬢さん。……楓様、この小娘、壊しても構いませんな?」


三平のしゃがれた声が、美羽の鼓膜を不気味に震わせる。


「ええ。生きて帰れば戦力、死ねばそれまでです。連れて行きなさい」


「承知。では……舌を噛まんように気をつけなされ」


『ドンッ!!』


三平が美羽の襟首を掴んだ瞬間、周囲の景色が爆発的に弾け飛んだ。


「きゃあっ!?」


風魔の秘術である超高速の空間跳躍(あるいは神速の歩法)。美羽の意識が白濁し、次に目を開けた時には――。


『ザァァァァァ……』


周囲は、鬱蒼と生い茂る木々と、満天の星空に囲まれた、深い深い山奥の『隠れ里』へと変貌していた。


「……ここは……」


「奥多摩よりさらに奥、我ら風魔の修練場だ」


声がした方向を振り向くと、そこには現代的なタクティカルベストを着込み、腰にアサルトライフルとククリナイフを提げた、鋭い目つきの青年が立っていた。


「俺が今日からお前の師匠となる、風魔新太郎ふうま しんたろうだ。年齢は27。元は自衛隊の特殊作戦群にもいたが、裏の仕事こっちの方が性に合っててな」


新太郎は、無造作にタバコに火を点けながら美羽を見下ろした。


「……アイドル崩れの嬢ちゃん。楓様からの紹介とはいえ、お前みたいなひ弱なガキが生き残れるほど、ここは甘くねえぞ」


「ひ弱かどうか、試してみますか?」


『チャキッ……!』


新太郎の挑発に対し、美羽は愛用の七牙の短刀を逆手に構え、一瞬にして『無足の歩法』を発動させた。


『バンッ!!』


殺気を完全に断ち切った美羽の身体がブレる。

次の瞬間、新太郎の背後に回り込み、その首筋に冷たい刃をピタリと当てていた。


「……ほう」


新太郎はタバコの煙をゆっくりと吐き出し、ニヤリと笑った。いつの間にか、彼のククリナイフも美羽の腹部に突き立てられる寸前で止まっている。


「気配の遮断と、近接戦闘(CQC)のセンスは本物だな。……合格だ。だが、ダンジョンや裏社会じゃ、ナイフ一本で勝てるほど敵は優しくないぜ」


新太郎はナイフを収めると、背中に背負っていた重いアサルトライフル(自動小銃)と、無数の手裏剣やクナイが詰まったポーチを美羽の足元に放り投げた。


「近接は良い。今日からお前には『投擲』と『現代銃火器』の扱い、そして何より……どんな地獄でも生き延びる『サバイバル能力』を骨の髄まで叩き込んでやる。忍びってのはな、敵を殺せるなら魔法でもナイフでも、ミサイルでも使うんだよ」


「……はいっ! よろしくお願いします、新太郎師匠!」


かくして、美羽の地獄の特訓が幕を開けた。


『タァァァンッ!! タタタタンッ!!』


「甘い! フルオートで撃つな、反動を殺してタップ撃ちで急所を狙え!」

「くっ……! はいっ!」


昼間は、徹底的な銃器の取り扱いと、クナイの投擲訓練。魔力が少ない美羽にとって、物理的な弾丸や暗器は、手数を補う最高の武器となる。


そして夜。


「じゃあな。明日の朝までに、この山を一つ越えて里まで戻ってこい。武器はナイフ一本。水も食料も現地調達だ」

「えっ……ちょ、ちょっと待って……」


新太郎は非情にも、美羽を深い山林の奥底に蹴り落とし、姿を消してしまった。


『ガサガサッ……!』

「ヒュルルルルッ……」


闇に包まれた山の中。それは、ただの自然ではない。東京ダンジョンの魔気が漏れ出した影響で、凶暴化した野生動物や、低級の妖怪たちが蠢く『死地』であった。


「はぁっ、はぁっ……!」


泥にまみれ、急斜面を這い上がる美羽。

その足元から、毒を持った巨大な蛇の妖が音もなく忍び寄る。


『シャアァッ!!』


「……っ! 無足っ!」


間一髪で回避し、ナイフで蛇の頭を切り落とす。しかし、休む間もなく今度は魔気を帯びた巨大な熊が咆哮を上げて突進してくる。


「っ……ああっ!」


強烈な前足の一撃を掠められ、美羽の小さな身体が斜面を転げ落ちた。

全身が木の枝や岩で削られ、血が滲む。体力は限界に近く、強烈な飢えと渇きが脳を麻痺させていく。


(……痛い。苦しい……。もう、嫌だ……)


意識が遠のきそうになった、その時。


『わしの可愛い泥棒猫よ』


脳裏に、あの極黒の魔王の、太陽のような黄金の瞳と、不遜な笑い声が蘇った。

学園祭で一緒に歌ったこと。

あの温かい掌。

そして、合気武道部のひよっこ達に見せた、持子の嬉しそうな顔。


(……ダメ。ここで死んだら、持子様の隣に……別の泥棒猫が座っちゃう……っ!!)


『カッ……!!』


美羽の瞳に、ヤンデレ特有の強烈な執念の炎が点った。


「私は、持子様の、最高のアサシンになるのよぉぉっ!!」


美羽は泥水の中から立ち上がり、自らの傷口に泥を塗って止血すると、熊の死体から肉を切り裂き、血の滴る生肉をそのまま口に放り込んだ。


(生きる。何を喰らってでも、絶対に生きて帰る……っ!)


そんな美羽の凄まじい執念と狂気を、高い木の枝の上から静かに見下ろしている影があった。

エティエンヌが放った、漆黒の『影の騎士』である。


(……我がエティエンヌより、死の直前には救出せよとの命を受けていたが……その必要は、全くないようだな)


影の騎士は、血まみれになりながらも瞳に暗殺者の光を滾らせ、夜の山を駆けていく美羽の姿に感嘆の息を漏らした。



***



三日後。

風魔の隠れ里の入り口。


「……チッ。本当に帰ってきやがったか」


新太郎が、咥えていたタバコをポロリと落とした。

朝靄の中から姿を現したのは、ボロボロの衣服に身を包み、全身泥と血にまみれた花園美羽だった。

しかし、その足取りは恐ろしいほどに静かで、気配が全くない。


手には、山を支配していたはずの巨大な妖狼の首がぶら下がっていた。


「……ただいま戻りました、新太郎師匠」


美羽が顔を上げる。

あざといアイドルの面影は、そこにはない。どんな過酷な環境でも生き抜き、獲物を確実に仕留める『本物の暗殺者』の目が、そこにあった。


「……はっ。大した執念だ、嬢ちゃん」


新太郎はニヤリと笑い、美羽に水筒を放り投げた。


「合格だ。だが、サバイバル訓練は今日からが本番だぜ。お前がそのイカれた執念を保てる限り、俺の持てるすべての技術(殺し方)を叩き込んでやる」


「はいっ……! ありがとうございます……っ!」


極黒の魔王の隣に立つため。

花園美羽は、何度も死にかけ、地べたを這いずり回りながらも、恐るべきスピードで風魔の暗殺術とサバイバル能力を吸収していくのだった。


***


奥多摩のさらに奥、外界から隔絶された風魔の隠れ里。

そこは、花園美羽にとって正真正銘の『地獄』彼女は苦情をした送ってくれてありがとう。楽しかったよ。であった。


『ダダダダダダッ!!』


「甘いっ! 動きが単調だ、死ね美羽!!」

「くぅっ……!」


頭上を文字通り本物のアサルトライフルの弾丸が掠めていく。

師匠である風魔新太郎は、一切の妥協も手加減もせず、本気で美羽を『殺す』つもりで訓練を行っていた。

少しでも気を抜けば、仕掛けられたワイヤートラップで足首が切断され、あるいは新太郎の容赦ないククリナイフが心臓を貫く。


(……痛い。息が、できない……っ)


肺が焼け焦げるように熱い。全身の筋肉が悲鳴を上げ、睡眠時間すらまともに与えられない極限の疲労が、美羽の思考を削り取っていく。

それでも。


(ここで死んだら……持子様の隣で微笑むのは、私じゃなくなる……っ!!)


その異常なまでの執念ヤンデレだけが、美羽の身体を強制的に動かし、死の淵から幾度となく這い上がらせていた。


そして、過酷なサバイバル訓練が数週間続いたある夜。


「……チッ。本当に死なねえな、お前」


月明かりに照らされた岩場で、新太郎は血まみれで肩で息をする美羽を見下ろし、呆れたようにタバコに火を点けた。


「……ぜぇっ、はぁっ……! 殺す気で、来いって……言ったのは、師匠じゃないですか……っ!」


美羽が、ギラギラとした暗殺者の瞳で新太郎を睨み返す。


「はっ。いい目だ。……よし、基礎的な生存本能は合格だ。今日からお前に、本物の『忍術』を教えてやる」


新太郎は岩に腰掛け、手元のクナイを弄びながら言った。


「忍術といっても、アニメや漫画みたいに印を結んで火を吹く魔法じゃねえ。……忍術の正体は、『種』と『仕掛け』、そして異常なまでの『用意周到さ』だ」

「種と、仕掛け……」

「そうだ。お前は魔力総量が極端に少ない。なら、使えるものは全て使え。事前に地形を把握し、罠を張り、敵の心理を誘導しろ。敵が右に避けると分かっているなら、あらかじめそこに地雷(C4)を仕掛けておけばいい。……圧倒的な準備こそが、弱者が強者を殺す唯一の魔法ニンジュツだ」


その日から、訓練の内容はさらに陰惨かつ実践的なものへとシフトした。

爆発物の調合、ワイヤーによるトラップの構築、そして――『毒物』と『薬物』の知識である。


「ぐっ、あぁぁぁぁっ……!!」


地下の薄暗い調薬室で、美羽は床をのたうち回っていた。

全身の血管が沸騰するような激痛。視界が明滅し、内臓を素手で掻き回されているような吐き気が襲う。


「吐くな。全部飲み込め」


新太郎が、冷徹な声で美羽の口に無理やり解毒剤を流し込む。


「毒を扱うなら、まず自分の身体に教え込め。微量の毒を毎日摂取して抗体を作り、極限状態でも動けるように痛みに慣れろ。……お前をある意味『薬漬け』にする。恨むなら、お前のその魔力の少なさを恨め」

「がはっ、げほっ……! うらみ、ません……っ!」


美羽は血を吐きながらも、新太郎の腕を強く掴み返した。


「私が、最強のアサシンになれるなら……こんな毒、水とおなじ、です……っ!」

「……イカレた小娘だぜ、本当に」


美羽の瞳から消えない極黒の魔王への狂信。その美しさと凄絶さに、新太郎は僅かに目を細めた。



***



風魔の里にも冷たい秋風が吹き始めた頃。

すべてのカリキュラムを終えた最後の夜。


「……これでお前に教えることは、もう何もねえよ」


月を望む切り立った崖の上。

新太郎は、風に揺れる木々を見下ろしながら、ポツリと呟いた。

その隣には、傷だらけでありながらも、以前とは見違えるほどに洗練され、研ぎ澄まされた刃のような静かなオーラを纏う美羽が立っていた。


「ありがとうございました、新太郎師匠。……あなたのおかげで、私はもう一度、あの人の隣に立つことができます」


美羽が深く、心からの敬意を込めて頭を下げる。

どんなに理不尽で暴力的な訓練であっても、新太郎が自分を本気で『最強の暗殺者』に育て上げようとしてくれたことは、肌で理解していたからだ。


新太郎はタバコの煙をゆっくりと夜空に吐き出し、美羽の方へと振り返った。

その顔には、いつもの冷徹な教官としての顔ではなく、一人の男としての、真剣な眼差しがあった。


「……なあ、美羽」

「はい」

「お前、俺の嫁にならないか」


『ドクンッ』


不意を突かれたプロポーズに、美羽の心臓が小さく跳ねた。


「俺はお前みたいに、地獄の底から這い上がってくるような強い女が好きだ。お前となら、裏の世界でも背中を預け合って、最高の忍びの夫婦になれると思う」


新太郎の言葉は、嘘偽りのない本心だった。

過酷な日々の中で、自分を殺そうとしながらも、確実に生き延びる術を与えてくれた、実力者。無骨だが、裏社会を生き抜く強さと優しさを持った男。


美羽の心は、決して「全く動かなかった」と言えば嘘になる。彼の腕の中にいれば、これ以上、魔力の少なさに絶望することも、化け物たちの中で焦燥感に駆られることもなく、人間としての幸せと安らぎを得られたかもしれない。


(……でも)


美羽の脳裏に、あざとく微笑む自分を「わしの泥棒猫」と呼んで笑う、黄金の瞳が鮮明に浮かび上がった。


「……光栄です、師匠」


美羽は、フッと柔らかく、アイドルとしての作り笑いではない、一人の女性としての美しい微笑みを浮かべた。


「師匠は、強くて、かっこよくて……少しだけ、心が揺れました。でも、ごめんなさい」


美羽は胸に手を当て、ハッキリと告げた。


「私の心も、身体も、魂のすべてまで……もうとっくに、あの愚かで美しい『魔王様』に捧げてしまっているんです。私には、持子様しかいないんです」


その言葉には、一切の迷いも、付け入る隙もなかった。

静寂が降りた崖の上で、新太郎はしばらく黙って美羽の瞳を見つめ返していたが――やがて、短く息を吐き出し、頭をガシガシと掻いた。


「……はっ。フラれちまったか。そりゃそうだな、魔王が相手じゃあ、ただの忍びじゃ勝てねえわ」


新太郎の顔から未練はすっぱりと消え失せ、清々しいほどの潔さで笑っていた。


「仕方ねえ。良い女だったが、諦める」

「師匠……」

「行け、美羽。お前の修行はこれで終わりだ。とっとと、その大好きな主人の元へ帰りな」


新太郎が、背を向けてヒラヒラと手を振る。


「……はいっ!!」


美羽は、最後にもう一度深く一礼すると、風魔の里へと続く山道を、一切の気配を立てることなく疾風のように駆け下りていった。

それは、人間としての弱さを克服し、知識と技術と狂気で最強の暗殺者へと昇華した、新たな『泥棒猫』の誕生の瞬間であった。


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