【東京ダンジョン7】
【東京ダンジョン7】
(……次は絶対に、立花雪か風間楓か葉室桐子お姉様を連れてきたい……っ!)
赤黒い瘴気が渦巻く『指定地下ダンジョン』の深淵を歩きながら、三百年の時を生きる吸血鬼の元女王ルージュは、心底からの悲痛な叫びを胸の内で上げていた。
狂信的な愛と欲望だけで動く『極黒の魔王』恋問持子と、そのヤバすぎる下僕たち。彼女たちの圧倒的な戦闘力は頼もしいが、常識というブレーキが完全に欠落している。ルージュは自身が優雅な吸血鬼であり、決して「ツッコミ役」などに向いていないことを骨の髄まで痛感していた。
ズズズズズズズ……ッ!!
不意に、ダンジョンの空気が凍りついた。
今まで漂っていた腐臭や穢れのレベルではない。純粋な「殺意」と「不和」を凝縮したような、息を吸うだけで肺が焼けるような重圧が、前方から押し寄せてきたのである。
「……何やら、今までとは格の違う気配がするな」
先頭を歩いていた持子が、黄金の瞳を細めて足を止めた。
広大な地下空洞の奥、赤黒い霧が晴れた先に「それ」はいた。
異形の化け物たちがひれ伏す中心。漆黒の毛並みを持つ巨大な狼に跨り、その手にはギラリと冷たい光を放つ鋭い剣が握られている。肉体は純白の翼を持つ神々しい天使の姿でありながら、その首から上は、首を不気味に傾げる「梟」であった。
「キリキリキリ……愚カナる人間ドモヨ……」
梟の嘴が開き、耳障りな声が空洞に響き渡る。
「ひぃぃぃっ!?」
その姿を見た瞬間、イギリスのトップモデルの容姿を持つシャーロットが、悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「あ、あれは……破壊の騎士、アンドラス……ッ!」
アスタルテもまた、サファイアブルーの瞳を見開いて息を呑んだ。
ソロモン72柱の悪魔、序列63番の「侯爵」アンドラス。
不和を撒き散らし、争いを引き起こすことのみを目的とする凶暴な悪魔であり、「召喚者すら殺そうとする」という通り、純粋な殺傷能力や危険度においては地獄でも恐れられる存在である。
「……おかしいですわ!」
アスタルテが、震える声で叫んだ。
「わたくしはかつて序列29番のアスタロト、シャーロットは序列56番のグレモリー……! 地獄にいた頃は、あのような序列63番の荒くれ者など、わたくしたちの方が遥かに格上でしたのに……! 今のアンドラスからは、かつてとは比べ物にならないほどの絶大な魔力を感じますわ!」
「……このダンジョンの空間が、悪魔たちを異常に強くしているのですわ」
シャーロットが、ガチガチと歯を鳴らしながら『タイムサイト』の目で空間を読み取る。
「このダンジョンの空間は、この世の理とは違いますの……! この世に物理的な肉体を持ってしまった悪魔たちは、その肉体を維持するためだけに莫大な魔力を消費し、基本的には弱体化してしまいますわ。わたくし(グレモリー)は人間の器と完全融合しているため魔力の消費こそありませんが、物理的な力はただの人間と同じ……! アスタルテ様も悪魔から解放され女神に戻られましたが、ご主人様(持子)からの魔力供給がなければこの世に存在できない状態……」
シャーロットは、絶望的な瞳でアンドラスを見上げた。
「ですが、あの純粋な悪魔の霊体であるアンドラスにとって、このあの世とこの世が曖昧になったダンジョンは、まさに『第二の地獄』! 息をするだけで力が底上げされる、圧倒的なホームグラウンドなのですわ!」
アンドラスの周囲には、何百、何千という数の悪魔や魔物の群れが陣形を組み、持子たちを完全に包囲していた。
しかし、絶望的な戦力差を前にしても、極黒の魔王は不敵に笑った。
「おい、フクロウ頭!」
持子が堂々と前に進み出て、アンドラスを指差す。
「貴様がここのボスか! 雑魚をぞろぞろと引き連れて鬱陶しいわ! どうだ、わしと一騎打ちをしろ!」
「キリキリキリ……狂ッテルノカ、人間……」
アンドラスは、梟の首を180度回転させながら嘲笑した。
「我ガ軍勢ハ圧倒的ダ……。コノ状況デ一騎打チノ誘イニ乗ルホド、我ハ愚カデハナイ。不和ト殺戮ヲバラ撒クノガ我ノ快楽……。全軍デ、貴様ラヲ嬲リ殺シニシテクレヨウ」
そして、アンドラスの黄色い瞳が、持子の後ろで震えるアスタルテとシャーロットを捉えた。
「ホウ……。ソコニイルノハ、アスタロトト、グレモリーデハナイカ。キリキリキリッ……!」
アンドラスの嘲笑が、空洞に響き渡る。
「ソロモン王ノ大悪魔タルトモガラガ、序列下位ノ我ヨリモ弱体化シ、アロウコトカ卑小ナ人間ノ下僕トナルトハ……! 嘆カワシイ、実ニ嘆カワシイゾ!」
「くっ……!」
アスタルテが唇を噛む。
「ひぐっ……!」
シャーロットが身をすくめる。
「同胞ヨ、哀レナ貴様ラヲ、ソノ肉ノ呪縛カラ解放シテヤロウデハナイカ……!」
アンドラスが、漆黒の狼の上で鋭い剣を天高く掲げた。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォッ!!
空間が歪み、アンドラスの頭上に何百本もの「禍々しい黒剣」が無数に召喚される。
「死ネ!!」
アンドラスの号令と共に、百の刃がアスタルテとシャーロットを串刺しにすべく、豪雨のように降り注いだ!
ズドドドドドドドッ!!
だが、その凶刃が二人に届くことはなかった。
ガキンッ!! ズバァァァァァァンッ!!
「ふふっ、ご主人様の大切な所有物に、傷一つつけさせませんわ!」
ピンク色の髪をなびかせた鮎が、デュラハンの大剣で数十本の剣をまとめて弾き飛ばす。
キィンッ! カァンッ!
「持子様が愛する者たちを、私が護らない理由がありませんわ」
エティエンヌが、吸血鬼の爪による神速の連撃で、降り注ぐ剣を塵へと変える。
シュババババッ!
「持子さんの泥棒猫の前に、立ち塞がらないでくださいぃっ!」
美羽が、七牙の短刀による二刀流で、死角からの刃を完全に叩き落とす。
バチィィィィンッ!
「まったく、世話の焼ける人たちですわ!」
ルージュが、影から広範囲魔法『血の茨』の盾を展開し、残りの剣をすべて絡め取る。
そして持子は、腕を組んだまま一歩も動かず、己の周囲に展開した『極黒の魔力』のオーラだけで、迫る剣をドロドロに溶かして無効化していた。
「キリキリキリッ! 邪魔ヲスルナ、人間ドモ!」
アンドラスが苛立たしげに叫ぶ。
「ソノ肉体ガ死ネバ、彼奴ラハ純粋ナ悪魔トシテ地獄ニ戻レルノダ! ソノ呪縛カラ解放サレルノダゾ!」
その言葉に、アスタルテは毅然と顔を上げた。
「お断りですわ! わたくしは持子様に救い出され、この美しい女神の身体を取り戻したのです! 愛する持子様のお傍にいられるこの身体を、わたくしは心から愛しております! もう二度と、あんな男の悪魔の姿などに戻りたくありませんわ!」
サファイアブルーの瞳に狂信的な愛を宿し、アスタルテはアンドラスを睨みつけた。
しかし――。
その後方で、シャーロットの瞳には、全く別の感情が渦巻いていた。
(……ここで死ねば、地獄に戻れる……?)
シャーロットの視線の先には、先程アンドラスが放ち、地面に突き刺さった黒剣の破片があった。
(わたくしは、誇り高き大公爵グレモリー……。それが今は、人間の小娘たちの奴隷として、毎日理不尽な扱いを受け、怯えるだけの日々……。痛いのは嫌、怖いのも嫌……。でも……)
シャーロットの心が、黒く甘い誘惑に染まっていく。
(ここは、あの世とこの世の境界線が曖昧なダンジョン……地獄に極めて近い空間。今、この剣で自らの首を掻き切って自害すれば、時間のロスや霊的な障害のリスクも少なく、魂だけが安全に地獄へと帰還できる……! この屈辱的な奴隷の立場から、完全に解放されるのですわ……!)
ゆっくりと、シャーロットの細い指先が、地面に落ちた剣の柄へと伸びていく。
「……ご主人様、鮎様……申し訳、ありません……わたくしは……」
ガシィッ!
その剣にシャーロットの指が触れる直前。
小柄な影が、シャーロットの前に立ちはだかり、その剣を踏みつけた。
「……ダメですよぉ、シャーロット」
振り返ったのは、花園美羽だった。普段の甘ったるい表情は消え失せ、その大きな瞳には、冷徹な暗殺者のような暗い光が宿っている。
「持子さんに命じられたんです。……私が必ず、シャーロット(グレモリー)を護ります。絶対に、死なせたりなんてしませんから」
美羽は、七牙の短刀を逆手に構え、シャーロットを守るように低い姿勢をとった。
同時に。
ドゴォォォォンッ!
アスタルテが豊穣の魔法を放ち、シャーロットの手の届く範囲にあったすべての剣の破片を、跡形もなく吹き飛ばした。
「……甘い考えは捨てることですわ、シャーロット」
アスタルテが、背中越しに冷酷に言い放つ。彼女には、シャーロットの自害の思考が完全に読めていたのだ。
「我が神(持子様)の所有物である貴女が、勝手に己の命を手放すことなど許されませんわ。私たちにできるのは、ただひたすらに、あの御方に身も心も捧げ尽くすことだけですのよ」
「ひぐっ……あ、ああぁぁっ……!」
逃げ道を完全に絶たれたシャーロットは、両手で顔を覆い、絶望と恐怖で泣き崩れた。
その一部始終を背中で感じ取っていた持子は、静かに、しかし地響きのような低い声で笑った。
「ふははは……。わしの奴隷に勝手な真似をさせようとは、万死に値するぞ、フクロウ頭」
持子の全身から、ドス黒い『極黒の魔力』が爆発的に吹き上がる。空間の瘴気すらも喰らい尽くすほどの、圧倒的な覇王の威圧感。
「鮎! エティエンヌ!」
持子が短く、鋭く命じる。
「あの雑魚どもが鬱陶しい。……薙ぎ払ってこい。わしの道を作れ」
「「はいっ!! 持子様(ご主人様)!!」」
持子の命令が下った瞬間、二人の化け物が動いた。
「エティエンヌさん、これをお貸ししますわ! その方が早いでしょ!」
鮎は自身の影から、長大な薙刀「岩融」を引き抜きながら、それまで手にしていた身の丈を超える『デュラハンの大剣』を、後方のエティエンヌへと軽々と放り投げた。
「あら……。ありがたくお借りいたしますわ、鮎さん」
エティエンヌは、空中で回転する重さ数百キロの大剣を、細い白魚のような腕で優雅に受け止めた。真祖の吸血鬼の絶大な膂力と、極黒の魔力が融合した彼女にとって、それは羽のように軽い。
「さあ……狂乱の宴の始まりですわ」
エティエンヌが、美しい金髪をなびかせて微笑む。
ドンッ!!
鮎とエティエンヌの二人が、砲弾のような速度で悪魔の軍勢へと突撃した。
「ハハハハハッ! ご主人様のために、全てミンチにして差し上げますわ!」
狂戦士と化した鮎が、長大な薙刀「岩融」を振り回す。岩融の神速の斬撃が、悪魔たちの陣形を紙屑のように切り裂き、血と肉の雨を降らせる。
「美しい血の華を、持子様に捧げましょう」
エティエンヌは、巨大なデュラハンの大剣を、まるで指揮棒のように優雅に振るう。真祖の力で放たれる。迫り来る魔物の群れを空間ごと粉砕していく。
「キリキリッ! 殺セ! イマイマシイ人間ドモヲ圧シ潰セ!」
アンドラスの命令により、四方八方から無数の悪魔たちが二人を串刺しにしようと殺到する。
しかし。
バシュゥゥゥゥッ!!
「マスター鮎と元旦那に、傷一つつけさせませんわ!」
後方の影に潜むルージュが、両手を天に掲げた。
『血の茨の盾』!
鮎とエティエンヌの死角から迫る攻撃のすべてを、床から突き出た真紅の茨の壁が完璧に弾き返す。吸血鬼の元女王による、ミリ単位の精密な絶対防御空間である。
「我が神の剣となる皆様、わたくしの極上の加護をお受けなさい!」
アスタルテが、豊穣と生命の魔法を前線の二人に注ぎ込み、体力を無限に回復させ続ける。
さらにアスタルテは、敵の軍勢のど真ん中に幻惑の魔法を放った。
「同士討ちしなさい、醜い化け物ども!」
魅了された悪魔たちが、突如として隣の仲間の首を刎ね、軍勢は瞬く間に内部崩壊を起こしていく。
「シャーロット! 敵の弱点と伏兵の位置を教えなさい!」
美羽が、シャーロットの前に立ち塞がったまま鋭く命じる。
「ひぃっ! は、はいっ! 右翼の岩陰から、高位の魔術詠唱反応! 三秒後に炎が来ますわ!」
「させませんっ!」
美羽の姿が『無足』の歩法で掻き消える。三秒後、魔法を放とうとしていた悪魔の首が、音もなく床に転がった。
「バ、バカナ……ッ! 我ガ数千ノ軍勢ガ、タッタ数人ノ人間に……ッ!」
アンドラスが、狼の上で驚愕に震える。
圧倒的な物量差を、狂信的な忠誠心と、完璧な役割分担が完全に凌駕していた。
ドチャァ……、グチャァ……。
血の海と化し、死骸の山が築かれた戦場。
その中心に、一本のまっすぐな「道」ができていた。鮎とエティエンヌが薙ぎ払い、ルージュが守り抜いた、極黒の魔王のための真紅の絨毯。
「……よくやった。褒めてやるぞ、お前たち」
その血塗られた道を、持子はゆっくりと、威風堂々と歩いていく。
黄金の瞳は、真っ直ぐにアンドラスだけを捉えていた。
咆哮と共に、巨狼に跨ったアンドラスが持子へと襲いかかった。
鋭い牙と凶刃が猛スピードで迫る。しかし、持子の眼差しは凪いだ水面のように冷徹だった。
持子は鋭く踏み込み、襲い来る狼の鼻っ柱――最も敏感な急所へ、合気武道の突きを寸分の狂いもなく叩き込んだ。
「キャインッ!」
悲鳴を上げて巨狼が大きく吹き飛ぶ。騎獣を失い宙に投げ出されたアンドラスが苦し紛れに凶刃を振り下ろすも、無情にも持子の頭上を虚しく通り過ぎた。
体勢を崩したアンドラスに対し、持子の反撃は瞬きすら許さない速度で展開される。
虚空を斬ったアンドラスの手首を握り込み、強引に自身の方へと引き寄せた。
タッ、タッ、タッ、タッ、タッ!
引き寄せた勢いを利用し、空いた手でアンドラスの顎に指を当てると、そこから手首、肘へと、滑るような連撃を叩き込む。脳髄を激しく揺らされたアンドラスは、防御はおろか状況を理解することすらできない。
手首を掴んだ状態のまま、持子の打撃を与えた腕が今度は鞭のようにしなった。
鋭い肘先が、フクロウの顔面にある目と目の間の急所『晴明』を情け容赦なく打ち据える。
勢いはそれだけでは止まらない。
鞭のようにしなった腕はその先まで進み、アンドラスの頭と首に深く巻き付いた。フクロウの関節が多い特殊な首の構造であっても耐え切れないほどの圧倒的な捻り。ゴキリッ、と鈍い音が響き、その首が異様な方向へとしなり折れる。
完全に首を折った瞬間、持子は流れるように体を入れ替えた。
手首を掴んでいた手を離し、代わりにアンドラスの頭を鷲掴みにすると、全身のバネを使って地面へと勢いよく叩きつけた。
轟音と共に大地が陥没し、土煙が舞う。
合気武道における『切り返し』から『首取』、そして『車倒し』へと続く怒涛の連続技を、実戦向けに昇華させた恐るべき変形技だった。
土煙が晴れた後、すり鉢状になった地面の底で、アンドラスはピクリとも動かなくなっていた。断末魔の言葉を発することすら叶わず、完全に絶命している。
持子は、己の魔力など一切使うことなく、純粋な武術のみで悪魔を屠ってのけたのだ。
「……はぁ。あれだけ大口叩いていたから、悪魔のくせにこの程度であっさり死ぬとは思わなかったわ」
持子はつまらなそうに呟いた。
「あんな『悪魔らしい悪魔』は初めて見たから、臣下か下僕にしたかったのに」
指揮官であるアンドラスが瞬殺された光景を目の当たりにし、残っていた悪魔たちはパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
入れ替わるように、持子の下僕たちが主の元へと集まってきた。
持子は足元に転がっていたアンドラスの剣を拾い上げると、配下の一人であるエティエンヌに向かって放り投げた。
「戦利品だ。エティエンヌ、お前に褒美としてやろう」
「はっ、ありがたく!」
剣を受け取るエティエンヌを見届けた後、持子は再び足元の死体を見下ろして、深々とため息をついた。




