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【イギリス編・延長戦 狂乱の再撮影と、女神の添い寝】

【イギリス編・延長戦 狂乱の再撮影と、女神の添い寝】


バンッ!!


「……なんだ、このフザケた写真は!!」


ロンドン市内のスタジオに併設された広大なミーティングルーム。

分厚いマホガニーのテーブルを思い切り叩きつけたのは、黄金の瞳に怒りの炎を燃え上がらせた持子であった。


「わ、わ、わしが……こんな、こんなキラキラした瞳でオスに寄りかかってウットリしているだと!? なんだこれは、まるで少女漫画ではないか! 気持ち悪い! なまら気持ち悪いぞ!!」


持子は、テーブルの上にズラリと並べられた現像済みの写真の束を指差して、顔を真っ赤にして絶叫した。


そこに写っているのは、前日までの撮影――すなわち、大悪魔メフィストフェレスやアスタロトの精神攻撃によって完全に『恋する乙女』と化していた持子の姿である。

頬をピンク色に染め、アーサー(アスタロト)の腕の中で蕩けたような笑顔を浮かべるその姿は、確かに絶世の美女ではあるが、世界を恐怖で支配した『魔王』の威厳など微塵もなかった。

自分で自分の写真を見て、羞恥と怒りで爆発寸前である。


「……落ち着きなさい、持子。顔が茹でダコみたいに真っ赤よ」


その様子を、冷ややかな視線で見つめていたのは、銀縁眼鏡を押し上げた株式会社『スノー』の社長兼プロデューサー、立花雪だ。

そして、テーブルの中央に置かれた大型モニターの向こう側からは、パリにいる世界的デザイナーであり、ブランドの総帥であるリジュが、深く、深ぁぁぁくため息をついていた。


『……文字通り、ゴミね。私がいかに持子様を溺愛していようと、この写真は一枚たりとも世に出せないわ。私のブランドが求めている「圧倒的な闇」とは真逆の、ただの三文芝居のロマンスじゃない』


「ち、違うっ! これは悪魔の精神攻撃のせいでだな! わしの本意ではなく……っ!」


必死に弁解する持子の隣で、第一下僕の本多鮎もまた、別の写真の束を見て青ざめていた。


「ゆ、雪さん……。この、私が何時間も着せ替えられて撮った大量のピンショットは……」


「ええ。スポンサーの要求だと騙されて撮らされたものね。可哀想だけれど、今回の『Noir(黒)』のメインテーマからは完全に外れているから、全部ボツ。廃棄よ」


「まあ……そんな……。あんなに我慢して頑張ったのに……もったいないです……」


ガクリ、と鮎が項垂れる。


そんな重苦しい空気の中、テーブルの端で深く頭を下げたのは、初老のイギリス人――本来の総監督である、本物のクリストファーと、現地のイギリス人プロデューサーたちであった。


「……申し訳ない。すべては、私の弱さが招いた事態だ」


クリストファーは、ひどく憔悴した顔で自身の罪を告白した。

彼はメフィストフェレスに憑依されていた間の記憶を、おぼろげながらも取り戻していた。


「私は……今回のイギリスロケを絶対に成功させたいというプレッシャーから、気休めのつもりで古い魔術書に手を出してしまった。そして、『最高の芸術を撮らせてやる』という悪魔の囁きに負け、契約を結んでしまったんだ。……本当に、すまなかった」


クリストファーは、震える手で顔を覆った。


「雪さん。彼の状態は?」


持子の後ろに控えていた副マネージャーの土御門朔夜が、陰陽師としての鋭い視線をクリストファーに向けながら問う。


「朔夜の霊視でも確認してもらったけれど、悪魔との契約は今回の『一件』をもって完全に満了しているわ。メフィストフェレスの気配も呪いも、彼の体には一切残っていないし、今後の仕事に霊的な支障は出ない。ただの、少し芸術に狂っただけの人間よ」


雪の言葉に、クリストファーの隣に座る現地のスタッフたちも、安堵の息を漏らした。


「……ふん。人間が安易に悪魔と契約などするからこうなるのだ」


持子は腕を組み、忌々しそうに鼻を鳴らした。


「だが、契約が切れて正気に戻ったというなら、これ以上貴様を責めても意味がない。……問題は、このゴミのような写真の山だ」


持子は、自身の『キラキラ少女漫画写真』をビリビリと破り捨てながら、モニターのリジュを睨みつけた。


「撮り直しだな、リジュ」


『当然よ。……ただ、スケジュールの大幅な遅れと、スタジオの再手配、スタッフの延長料金。これらをどう清算するかね』


リジュの冷徹な言葉に、現地のイギリス人プロデューサーたちが露骨に顔をしかめた。


「ミスタ・クリストファーの体調不良(悪魔憑きとは信じていない)は残念だが、我々イギリス側がすべての延長費用を被るわけにはいかない! そちらのモデル(持子)の演技プランがブレたのも原因の一つだろう! 費用は折半、いや、スノー側で六割は負担してもらう!」


イギリス人プロデューサーたちが、ここぞとばかりに強気な交渉に打って出た。

いつもならば、ここで雪が胃を痛めながら、各所への根回しと論破のために膨大な資料を広げ、孤独な神経戦を強いられるところである。

だが――今の株式会社スノーは、一味違った。


「……ふふっ。強気に出ましたね。ですが、その必要はありませんわ」


雪は眼鏡の奥をキラリと光らせると、部屋の隅で「わたくしは空気……わたくしはホコリ……」と怯えて小さくなっていたプラチナブロンドの美女――元大悪魔にして、現在は持子の『奴隷』へと転落したシャーロット(グレモリー)を指差した。


「出番よ、シャーロット。あなたの『能力』の使い所です」


「ひっ! は、はいっ! 雪しゃちょうっ!」


シャーロットはビクッと肩を跳ねさせると、慌てて雪の隣へと進み出た。


持子に魔力を制限されているとはいえ、彼女には大悪魔としての伝承に由来する強大な能力の残滓がある。すなわち、『過去・現在・未来の透視タイムサイト』と『愛の調達(関係性の操作・読心)』である。


シャーロットのアメジストの瞳が、妖しく輝いた。


「ええと……そちらの太ったプロデューサー様。あなた、今回の予算からこっそり裏金を作って、ウエストエンドの愛人マンションの家賃に充てていらっしゃいますわね? 昨日の夜も『妻には内緒だ』と言って……」


「なっ!? き、貴様、なぜそれを!?」


「それから、そちらのヒゲのチーフディレクター様。あなたは今、『なんとか費用をスノーに押し付けて、浮いた予算で新作のカメラ機材を買おう。日本の小娘(雪)なら適当に丸め込めるだろう』と、三秒後に言い訳の嘘を吐く予定ですわね。……ふふっ、無駄ですわよ。あなたの会社の裏帳簿のデータ、すでにわたくしの頭の中にすべて視えておりますもの」


シャーロットが優雅に、かつ冷酷に、イギリス陣営の隠された弱み、スキャンダル、そして数秒先の交渉の『手』をすべて先読みして暴き立てた。


「ば、馬鹿な……!」

「こ、降参だ! 費用はこちらで全額負担する! だからその女を黙らせてくれ!!」


わずか数分。

イギリス陣営のプロデューサーたちは完全に顔面蒼白になり、雪の提示した圧倒的に有利な再撮影の契約書に、震える手でサインをしたのであった。


「……完璧ね。ご苦労様、シャーロット」


雪は、あっさりと片付いた契約書の束をトントンと揃えながら、信じられないほど心が軽いことに気がついていた。


(すごい……! いつもなら私が徹夜で相手の弱みを探り、胃薬をボリボリ噛み砕きながら行っていた泥沼の交渉が、一瞬で終わってしまったわ……!)


雪は内心で快哉を叫んだ。


シャーロット(グレモリー)という、情報収集と交渉に特化した『最強の裏方スパイ』を手に入れたことで、雪の仕事の負担は劇的に減ったのだ。


現在の株式会社スノーの陣容を、雪は改めて思い描く。


第一下僕である本多鮎は、日本国内で確固たる地位を築いたトップモデル。彼女は本当に頭が良く、自分のスケジュール管理やセルフプロデュース(そして大金を稼いでくること)を手間をかけずに完璧にこなす優等生だ。

そして、歌手である花園美羽。彼女は爆発的な大金こそ稼がないものの、美羽自身がやりがいを持って書き上げる素晴らしい楽曲と歌声には、カルト的な熱狂的ファンがついており、急激に増えはしないが決して減らず、少しずつ着実にスノーの地盤を固めてくれている。美羽の企画運営は、雪にとっても癒しの時間だ。


そして何より、莫大なお金を稼ぎ出し、世界を股にかける持子のモデル業。

これまでは雪一人で手が回らず、共同運営しているリジュの圧倒的な権力と資本力に頼りきりになることが多かった。雪はそれが悔しくもあった。


だが、これからは違う。

『社長』である雪の元に、『交渉係』としての圧倒的チート能力を持つシャーロットが加わった。

これにより空いた時間で、雪は『副マネージャー』となった土御門朔夜の、陰陽師としての育成とマネジメント業の指導に、存分に力を入れることができる。

朔夜にとっても、この大悪魔のえげつない交渉術を間近で見せつけられることは、ビジネスの場において最高の『ライバル』であり、生きた教材となるだろう。


(これで私も、書類仕事や胃痛から解放されて、本当にやりたかった『企画』に力を入れられる……。これからは私が企画を提出し、対等な立場で親友のリジュと共に、この狂った世界での仕事を楽しめそうね!)


会社として、スノーは今、劇的な進化を遂げて機能し始めていた。

シャーロットの価値は、間違いなく株式会社スノーのためになっていたのだ。


「……シャーロット。あなた、本当に優秀ね。ただのメス豚かと思っていたけれど、スノーの社員(奴隷)として、十分な働きよ。評価してあげる」


雪が、心からの賞賛を込めて眼鏡を光らせた。


「え……? わ、わたくしが、優秀……?」


大悪魔としてのプライドを粉々にされ、底辺の奴隷として扱われていたシャーロットは、雪からの予期せぬ『褒め言葉』に、パチクリとアメジストの瞳を瞬かせた。


「うむ。確かに、今の交渉術は見事だったぞ、シャーロット」


腕を組んでモニターの前に立っていた持子も、深く頷いてシャーロットを見下ろした。


「戦闘力は皆無の雑魚だが、人間の裏の感情を読み取り、盤面を支配するその能力。まさに大公爵の伝承に恥じぬ働きだ。雪の負担を減らしたこと、大いに褒めてやろう。これからも、スノーのためにせいぜい励むことだな」


神である持子からの、直接の賞賛。

奴隷として足蹴にされるだけだと思っていたシャーロットの胸の奥に、トクン、と不思議な高鳴りが生まれた。


(な、なんですの、この気持ちは……。わたくしは地獄の大公爵ですのに、人間の小娘(雪)や魔王に褒められて、こんなに心が満たされるなんて……。……ふ、ふんっ。まあ、この『スノー』という会社での仕事も、案外悪くないかもしれませんわね。少しだけ、真面目に働いてみようかしら……)


シャーロットは、頬をわずかに赤らめながら、「も、もったいないお言葉ですわ!」と深々と頭を下げた。


『……ふふっ、雪の会社も面白くなってきたわね。さあ、契約のゴタゴタが片付いたなら、すぐに再撮影よ。……持子、鮎。そしてそこの元悪魔シャーロット。モデル達もここから先は一秒の無駄も許さないわよ。徹夜でもなんでもして、完璧な『闇』をフィルムに焼き付けなさい』


「承知しています、リジュ社長。……というわけで持子、鮎。あなたたちの地獄の残業が確定したわよ」


雪が冷酷にスケジュール表を叩く。


「ちなみに、この再撮影には……シャーロット(グレモリー)も参加させるわ」


「なっ!?」


持子と鮎が同時に声を上げた。


「雪! 正気か!? あやつはわしを精神世界で殺そうとした極悪人だぞ!? 今はわしの『奴隷』として階級の底辺に叩き込んでいるが、あんな裏切り者をわしの神聖な撮影に同行させるなど……」


「ええ、私も同意見ですわ、雪様! あんなメス豚、ご主人様のお側に立たせるわけにはいきません!」


鮎も、キッパリと反対する。

リジュもまた、画面越しに不快げに眉をひそめていた。


『私も持子たちと同意見よ、雪。私のブランドの服を、あんな下等な悪魔に着せたくないわ』


だが、雪は一歩も引かなかった。


「感情論で仕事はできません。今回の撮影のメインビジュアルは『群像劇』です。すでに彼女の参加は世界中に大々的にプロモーションされており、ここで急にトップモデルのシャーロットが降板すれば、違約金どころかブランドの傷になりかねません。それに……」


雪は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。


「彼女には『罰』を与えなければならないでしょう? 大悪魔としてのプライドを粉々に砕かれ、神である持子に怯えながら、ただのモデルとして完璧に働き続けさせる。……これ以上の屈辱と調教がありますか?」


「……ふむ」


持子の黄金の瞳が、妖しく細められた。

確かに、魔力も奪われ、奴隷の身分に落とされたグレモリーを、恐怖で震え上がらせながらプロの現場でこき使うのは悪くない。


「……よかろう。雪の判断を支持する。……さあ、行くぞ鮎! 遅れた分、わしたちの力で一気に巻き返してやるわい!」


「はいっ! ご主人様!」




パシャッ!! パシャシャシャシャッ!!!


強烈なストロボの光が、深夜のスタジオに連続して瞬く。

急遽組み直された、廃教会を模したダーク・ゴシックな巨大セット。

持子は、漆黒の豪奢なドレスを翻し、圧倒的な覇気と、底知れぬ冷酷な『闇』を完全に表現しきっていた。


「……ワンダフル! 素晴らしいぞ、持子! 君のその瞳の奥にある絶対的な虚無! それこそが私が求めていたものだ!!」


カメラのファインダーを覗き込みながら、クリストファー監督が興奮に唾を飛ばして叫ぶ。

正気を取り戻した彼は、妥協を一切許さない、イギリス映画界が誇る本物の『鬼才』であった。


「ふはははっ! 当然だ! わしを誰だと思っておる!」


持子は堂々と胸を張り、次々と完璧なポーズを決めていく。


「よし、持子は完璧だ! ……次はアユ! 君の番だ!」


クリストファーの矛先が、待機していた鮎に向けられた。

鮎は優雅な所作でドレスの裾を持ち上げ、持子の隣、一つ下の段差にスッと立つ。


だが――。


「ストップ、ストップゥッ!!」


クリストファーの容赦ない怒声が、スタジオに響き渡った。


「ノーだ、アユ!! なんだその表情は! 君は持子の『影』だろう!? ただ綺麗なだけのマネキンはいらないんだ! もっと深く、絶望的に、主に付き従う哀哀たる闇を表現しろ!!」


「っ……!」


鮎の肩がビクッと跳ねた。


(……厳しい言葉だわ。でも……)


鮎は、日本国内においては間違いなくトップモデルとして君臨していた。

しかし、ここは世界最高峰のステージ。ヨーロッパの第一線で活躍する化け物たちと比べれば、自分の実力がまだまだ足りていないことなど、彼女自身が一番よく分かっていた。

それでも、リジュや雪は自分を認め、この大舞台への切符をくれたのだ。


(チャンスをいただいたのです。泥臭くても、何が何でも喰らいついてみせますわ。ご主人様の隣に……下僕としてだけでなく、一流の『モデル』としても立ちたいのですから)


何度も何度も浴びせられる厳しいダメ出し。リテイクの嵐。

それは心身を削る辛い作業だが、鮎は心の中で懸命に己を奮い立たせていた。


(リテイクを出されるということは、監督がまだ私に『できる』と期待してくださっている証拠。言われているうちが花、ですわね。もし見限られたら、何も言われなくなって終わりですもの……)


だが――。


頭では分かっていても、人間の肉体の疲労は確実に蓄積していく。

連日の撮影、そして本日は深夜にまで及ぶ長時間の撮影。


「やり直しだ! 表情が硬すぎる! 足の角度が三度違う! 君のせいで持子の完璧な闇が台無しになっているのが分からないのか!!」


「くっ……申し訳、ありません……っ」


怒鳴り散らすクリストファーの顔。

その顔は、数日前から憎き大悪魔『メフィストフェレス』として、ご主人様を罠に嵌め、自分たちを分断したあの忌々しい顔と全く同じなのだ。

極度の疲労とストレスが、鮎の狂犬としての本能を一瞬だけ呼び覚ましてしまった。


(……ああ、やっぱり腹が立ちますわね。あの監督の顔を見ていると、どうしても昨日までの怒りが込み上げてきて……。ふふっ、いっそ、あのお喋りな首と胴体を、少しだけ離して差し上げましょうか……?)


スッ……と、鮎の右手が、見えない影の奥――デュラハンの大剣の柄へと伸びようとした。

瞳の奥に、昏く冷たい殺意が灯る。


「――待て、鮎」


ガシッ!!


殺気に気付いた持子が、反射的に鮎の手首を強く掴み、己の胸元へと引き寄せた。


「ご、ご主人様……っ?」


「落ち着け、鮎。あれはメフィストではない。ただの芸術に狂った人間のジジイだ。今あやつを殺せば、わしたちが国際指名手配されるぞ」


「……はっ。……申し訳ありません、ご主人様。私としたことが、疲労でつい……」


鮎はハッとして殺気を収め、たおやかな表情へと戻った。


「……はぁ。全く、仕方ない奴だ。お前は少し真面目に思い詰めすぎる」


持子は鮎の頭を優しく撫でながら、周囲を見回した。


(こんな時、ルージュがおれば、小言を言いながらも鮎の精神を安定させることもできただろうに……)


だが、鮎の眷属であり、良き友人(?)でもある吸血鬼のルージュは、今ここにはいない。

撮影が大幅に長引くと聞いた彼女は、「あら、わたくしはモデルではありませんから関係ありませんわね。エティエンヌ、せっかくのヨーロッパですもの、もうしばらく地中海のバカンスを楽しみましょう?」と、嬉々として元夫を引き連れ、優雅な旅行を引き延ばしてしまったのだ。


「仕方ない。ルージュがいない今、お前を導けるのはわしだけだ。……鮎、深呼吸しろ」


「はいっ……すぅぅぅ……はぁぁ……」


「いいか鮎。怒鳴られている間は、監督の顔など見るな。わしの顔だけを見ろ。わしの声だけを聞け」


持子は、鮎の頬を両手で包み込み、黄金の瞳で真っ直ぐに見つめ返した。

普段は鮎に世話を焼かれることの多い持子だが、モデルとしては持子の方が圧倒的に格上である。珍しく、先輩としての力強い激励だった。


「貴様は日本のトップモデルだろう? 自信を持て。そして、わしの『影』となれ。影は、光であるわしが存在しなければ形を成さない。……わしという絶対的なひかりに、ただ身を委ね、寄りかかり、決して離れられない呪いのような愛しさ……それを、瞳の奥に浮かべればよいのだ」


「ご主人様……っ」


持子から流れ込む、甘く、冷たく、そして絶対的なカオスの魔力。

それは、暴君としての圧倒的な支配でありながら、鮎にとっては世界で一番心地よい、安らぎであった。


「……はいっ。私……ご主人様の影として、完璧に寄り添ってみせますわ……!」


鮎の瞳から荒々しい殺気が完全に消え、代わりに、深く、昏く、しかし狂おしいほどの愛を宿した『極上の闇』が宿った。


「……よし、その顔だアユ! そのままでいい! シャッターを切るぞ!!」


持子の直接指導によって、鮎の表現力が劇的に跳ね上がる。

持子が鮎の「お守り」と「モデルの先輩」としての役割を完璧にこなし、二人の息が完全にシンクロした瞬間であった。




その様子を、スタジオの隅から見守っていた人物がいる。


「……よし。俺にできることは……」


土御門朔夜である。

副マネージャーに昇格したものの、陰陽師である彼には、モデルとしての専門的なアドバイスなどできるはずもない。

だが、彼はただ突っ立っているだけの男ではなかった。


「持子! 鮎! 水分補給だ! 汗も拭け!」


カットがかかる度に、朔夜は誰よりも早く二人の元へ駆け寄り、冷えたスポーツドリンクと、最高級のふかふかのタオルを差し出した。

さらには、冷え込むスタジオの中で二人が体調を崩さないよう、目立たないように小さな『温熱の陣』の呪符を足元にこっそりと貼り付け、空間の温度を快適に保つという陰陽術の無駄遣いまで行っていた。


「……おお、助かるぞ朔夜。ちょうど喉が渇いておったのだ」


持子がゴクゴクとドリンクを飲み干し、ふうっと息を吐く。


「……あら、ありがとうございます」


鮎もまた、上品に微笑みながらタオルを受け取り、少しだけ感謝の視線を向けた。


朔夜はモデルとしての指導はできない。だが、「持子たちと同じ現場の空気を吸い、同じ目線で、裏方として共にこの地獄の撮影を乗り切ろう」という、泥臭くも真摯な姿勢がそこにはあった。

その不器用な誠実さは、持子と鮎の心に、確かな安らぎをもたらしていた。




一方で、この地獄の撮影において、全く別のベクトルで「プロ根性」を見せつけていた者がいる。


「……シャーロット! そこだ! その憂いを帯びた表情、素晴らしい!」


「Thank you, Christopher.(ありがとう、クリストファー)」


カメラの前で、優雅なプラチナブロンドを揺らし、完璧な英国貴族の令嬢としての『闇』を表現しているのは、シャーロット(グレモリー)であった。

彼女は今、内心では生きた心地がしていなかった。


(ひ、ひぃぃぃぃっ! も、持子様の黄金の瞳が、チラチラとわたくしを睨んでいますわぁっ! 怖い! 殺される! 少しでもミスをしたら、あの恐ろしい鮎様の大剣で首が飛びますわぁっ!)


奴隷に落とされた彼女にとって、持子と鮎の放つプレッシャーは、まさに文字通りの『死の圧力』であった。

だが、そこは腐っても元大悪魔、そして人間のトップモデルの肉体を持つ存在である。

どれだけ内心でガタガタと震え上がり、怯えきっていようとも、カメラの前に立てば一切の恐怖を顔に出さず、プロとして求められたポーズと表情を完璧にこなしてみせたのだ。


(くっ……わたくしは、誇り高き元大公爵……! こんなところで、素人の小娘よりも劣った表現など、死んでも見せられませんわ!)


恐怖と、残された僅かなプライドが、皮肉にも彼女のモデルとしてのパフォーマンスを極限まで高めていた。




そして、もう一人。この現場において、なくてはならない存在へと昇華していた者がいる。


「持子様、お疲れ様でございます! さあ、肩をお揉みいたしますわ!」


「鮎王様! お召し物の乱れを直させていただきますわね! ああ、なんというお美しい……!」


平民へと階級を定められた、元大悪魔アスタルテである。

彼女は、自身の変身能力と幻影魔法をフル活用し、ある時は衣装スタッフ、ある時はメイクアシスタント、ある時は専属のマッサージ師として、雑用係として凄まじい働きぶりを見せていた。


アスタルテは、控室の鏡の前で持子や鮎のメイク直しをしながら、ふと、自身の豊満な胸元を両手で強く押し寄せた。


むぎゅっ……。


(ああっ……この柔らかさ、この重み……。何百年ぶりかしら。忌まわしい男の体から解放され、真の『女』の肉体、女神としての豊穣の体を取り戻せた……。我が神、持子様……!)


アスタルテは、自分の乳房を愛おしそうに揉みしだきながら、嬉し涙を浮かべていた。

彼女にとって、持子は自分をキリスト教の呪縛から救い出してくれた『真の神』である。そして、その神の第一下僕である鮎は、絶対的な『王』なのだ。


「ふははっ、アスタルテ。お前のマッサージはなまら極上だな。そこだ、そこが凝っておる」


「もったいないお言葉、我が神! このアスタルテ、神の御体をほぐすためならば、指の骨が砕けるまで揉み続けますわ!」


持子が恍惚と目を細める隣で、鮎もまた、アスタルテの甲斐甲斐しい世話に大いに満足していた。


(……それに引き換え、ルージュは私の下僕のくせに、いつも友達みたいに接してきて、全然敬ってくれない。それに比べて、このアスタルテの従順なこと……! ええ、本当に有難い存在ですわ!)


撮影が上手くいかず、クリストファーに怒鳴られてささくれ立っていた鮎の心は、アスタルテの「鮎王様、素晴らしいですわ!」という全肯定のヨイショによって、見事に回復させられていた。




深夜零時を回り、午前三時を過ぎ、やがてスタジオの小窓から、ロンドンの白み始めた朝陽が差し込んでくる。

それでも、クリストファーの「ワンモア!」の声は止まらない。

精神と肉体の限界。

持子のカオス魔力をもってしても、人間の肉体の疲労を完全にゼロにすることはできない。

鮎の足はすでにガクガクと震え、シャーロットの顔面は蒼白になっている。


それでも、彼女たちはカメラの前に立ち続けた。

昼の光が完全に高く昇った、午後一時。


「……OK。……It's a wrap(撮影終了だ)!!」


クリストファーの、ひどくかすれた、だが歓喜に満ちた叫び声がスタジオに響き渡った。


「「「「お疲れ様でしたァァァァッ!!」」」」


現地スタッフたちの割れんばかりの拍手と歓声。

その瞬間。


バタッ……! ドサッ……! へなへなっ……。


モデルの三人――持子、鮎、シャーロットは、糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。


「ふ、ふはは……終わった……終わったぞ、鮎……」

「ご主人様ぁ……もう、一歩も、動けませんわ……」

「わ、わたくしも……死にますわ……」


三人は、スタジオの冷たい床に大の字になって、荒い息を吐きながら天井を見上げた。


「……よくやったわ、持子、鮎。そしてシャーロットも」


雪が、三人を見下ろしながら、少しだけ口角を上げて労いの言葉をかけた。


「さて。モデルのお仕事はこれにて終了だけど……私と朔夜は、これからロンドン支社でリジュのチームと今後の展開についての最終会議、そしてシャーロットの移籍に伴う膨大な契約書の処理があるわ」


「ええっ!? 雪さん、俺、一睡もしてないんですけど!?」


朔夜が悲鳴を上げる。


「副マネージャーなんだから当然でしょう? さあ、行くわよ」


雪は朔夜の襟首を掴み、ズリズリと引きずりながらスタジオを後にした。


「あ……あの、神様。鮎王様……」


残された三人の元へ、アスタルテが申し訳なさそうに駆け寄ってきた。


「雪様から、皆様をホテルまでお送りして、ベッドに寝かせるよう仰せつかりました。……わたくしの幻影魔法で、誰にも見られずにお運びいたしますわ」


「……おお、アスタルテか。……頼む、もう指一本動かん……」


持子は、完全にアスタルテに身を委ね、目を閉じた。




ロンドン市内の最高級ホテル、ペントハウス。


アスタルテは、魔法を使って三人をふかふかのベッドルームへと運び込んだ。

まずは、奴隷であるシャーロットを隅の小さなソファーベッドへ(階級社会は絶対である)。

次に、王である鮎をサブのベッドへ寝かしつけ、しっかりと毛布をかける。

そして最後に、絶対神である持子を、中央の巨大なキングサイズベッドへと優しく横たわらせた。


「……私の、神様」


アスタルテは、静かな寝息を立て始めた持子の、白磁のように美しい寝顔を、うっとりと見つめた。

そして、堪えきれないような愛情と感謝を込めて、持子の白い額に、チュッ……と、柔らかく口づけを落とした。


「ありがとうございます……。悪魔の姿から、元の豊穣の神に、美しい女に戻してくださって、本当に感謝しております……」


アスタルテは、自身の豊かな胸にそっと手を当てた。

何百年ぶりかに感じる、女性としての柔らかく、温かな感触。それが、彼女に生きている喜びと、持子への絶対的な狂信を与えていた。


「……さて。わたくしは、ここで……」


アスタルテは、持子のベッドのすぐ横にある、床の上のソファーで、丸くなって寝ようとした。

その時である。


「……おい、アスタルテ」


「ひゃっ!? は、はいっ! 我が神! 起きておられましたか!?」


アスタルテが飛び起きると、持子が薄く黄金の瞳を開け、気怠そうにこちらを見ていた。


「……こっちへ来い」


持子は、自身の隣のシーツをポンポンと叩いた。


「えっ……!? し、しかし、わたくしは平民の身! 神のベッドに上がるなど、そのような恐れ多いこと……!」


「構わん。貴様は今日、雑用係としてよくわしたちに尽くしてくれた。その働きはなまら立派だったぞ」


持子は、ふにゃりと、悪魔の威厳など全くない、年相応の少女のような無邪気な笑顔を向けた。


「褒美だ。……ベッドに入れ。わしが眠るまで、抱き枕としてわしに抱かれていろ」


「だっ……抱き枕……っ!?」


アスタルテの顔が、ボンッ! と音を立てるように真っ赤に染まった。

神からの、最大の褒美であり、最高の命令。


「は、はいぃぃっ! 喜んでぇっ!!」


アスタルテは、感激の涙を流して何度も何度も頷きながら、ガサゴソと持子のベッドへと潜り込んだ。


「うむ。……おお、貴様、本当に身体が柔らかくて、良い匂いがするな……」


持子は、アスタルテの豊満な胸に顔をうずめ、まるで母親に甘える子供のように、ギュッとその身体を抱きしめた。


「ひゃうっ……! か、神様、そんなに顔を擦り付けられては……っ」


「……すぅ……すぅ……」


なんと、持子はアスタルテの胸に抱きついた瞬間、安心しきったように、わずか数秒で深い眠りに落ちてしまったのだ。


「あ……」


アスタルテは、自分の胸の谷間に顔を埋め、すやすやと無防備な寝息を立てる極東の魔王を見下ろした。


(……ああ。なんて、なんて可愛らしいお方なのだろう)


圧倒的な力で悪魔を蹂躙した、絶対的な暴君。

しかし今、自分の腕の中で丸くなっているのは、温もりに飢え、安心を求める、ただの愛おしい少女であった。


(神様が、わたくしの胸に埋もれて……可愛くて、可愛くて仕方ありませんわ。わたくしに、女の身体が、この豊かな乳房が戻ってきたことが、本当に嬉しい……)


アスタルテは、愛おしさで胸をギュッと締め付けられながら、持子の小さな背中にそっと腕を回した。

窓の外からは、ロンドンの柔らかな午後の陽光が差し込み、二人を優しく包み込んでいる。


「おやすみなさいませ……わたくしの、愛しい神様……」


アスタルテもまた、持子の甘い香りと、女としての温もりに包まれながら、いつしか静かな眠りの底へと落ちていくのだった。


狂乱のイギリス編。

悪魔たちとの死闘と、過酷な撮影を乗り越えた極東の魔王軍は、こうして甘く平和な眠りの中で、その幕を閉じるのであった。


ヨーロッパ編は、まだまだあるのですが後々外伝として書きます。


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