『偽りのゴシックと、魔王を堕とす恋の罠』
【イギリス編・大英博物館の惨劇と、偽りのゴシック】
ロンドンの空は、イギリス特有の重く湿った灰色の雲に分厚く覆われていた。
大英博物館の中庭に特設された巨大な撮影セット。冷たい霧雨が時折パラつく中、そこには数十名に及ぶイギリス人モデルたちと、慌ただしく動き回る現地スタッフたちの熱気と殺気が渦巻いていた。
今回の撮影テーマは『Noir(黒)』。
中世から続くイギリスの血塗られた歴史、王室の裏で啜り泣く亡霊たちの怨嗟、そして……救いのない「闇の中の闇」を表現する、極めて難易度の高いゴシック・セッションである。
現場の空気は、最悪だった。
「……信じられないわ。あの東洋人、英語が全く話せないの?」
「世界で活躍するトップモデルのくせに、言葉も通じないなんて笑っちゃうわね。マネージャーみたいなあの子(鮎)に通訳させてるなんて」
数十名いるイギリスのトップモデルたちが、控室の端に座る持子をちらちらと見ながら、流暢な英語でクスクスと嘲笑っている。持子から放たれる圧倒的な美貌は認めていたが、鮮やかなピンク色に髪を染め、身長163cmと小柄な鮎の凄みには誰一人として気づかず、ただの小間使い程度にしか見ていない。
「……ご主人様ぁ。あのモデルたち、ご主人様を言葉の壁で愚弄しておりますわ」
鮎が持子にすり寄り、心酔しきった甘い声で囁く。だが、その可愛らしいの仮面の下には、ドス黒い殺意がマグマのように渦巻いていた。
「私が今すぐ、あの方々の舌を可愛らしく引き抜いてさしあげましょうか? ご主人様を侮辱するなんて、絶対に許せません……っ」
「ふっ、放っておけ忠犬。言葉などというちっぽけな枠組みでしか世界を測れぬ、哀れな凡人どもよ」
持子は優雅に足を組み、黄金の瞳でイギリスのモデルたちを一瞥して高らかに言い放つ。
「美は世界共通。美しいものは美しいのだ。わしの美しさの前に、言葉などという野暮なものは不要であろう!」
その絶対的な自信と覇気に、嘲笑っていたモデルたちは一瞬気圧されて言葉を失う。
だが、その空気を切り裂くように、メガホンを持った初老の男――イギリスを代表する鬼才クリストファー監督が怒声を上げた。
「無駄口を叩くな! セットへ入れ! 撮影を開始する!」
彼の正体は、魔界の大公爵メフィストフェレスである。だが、持子たちを油断させ、意のままに操るためには、自身が「ただの偏執的でプロ意識の高い人間の監督」であると完全に信じ込ませなければならない。彼は本気で、この撮影を『芸術』として成立させるつもりだった。
「いいか、お前たち! ただ黒い服を着て突っ立っているだけのマネキンはいらん! 私が求めているのは、ロンドンの霧よりも深く、冷たい絶望だ! 己の内に渦巻く孤独と狂気を、カメラの前で曝け出してみせろ!」
「まずは持子! お前からだ。極東のトップモデルの力、見せてもらおうか」
クリストファーの指名を受け、持子が漆黒の豪奢なゴシックドレスの裾を翻し、数十名のモデルたちの中央――カメラの前に立つ。
「持子! お前の持つ絶対的な力は素晴らしいが、今はそれを隠せ! 溢れ出る覇気ではなく、全てを呑み込み、底なし沼のように沈み込んでいく冷たい闇を表現しろ!」
(……ほう。この人間の監督、なかなか分かっておるではないか)
持子の黄金の瞳が、面白そうに細められた。
暴食の魔王たる持子にとって、「闇」とは自身の本質そのものである。だが、クリストファーが要求しているのは、世界を破壊するような暴力的な闇ではなく、静かで、冷酷で、ひたすらに深い「孤独の闇」だった。
「……フッ、よかろう。わしの神髄、見せてやるわい」
持子はスゥッ……と息を吐き出した。
その瞬間――大英博物館の敷地内の空気が、一気に数度下がったかのような錯覚を現場の全員が覚えた。
持子の黄金の瞳から、それまでの明るさや覇気が完全に消え失せた。
残ったのは、ただ果てしなく深く、冷たい虚無。
前世で数万の魂を喰らい尽くし、世界中から恐れられ、永遠の孤独の中で死んでいった『魔王』としての凄絶な記憶。それが、彼女の表情を氷のように美しく凍りつかせる。
シャッターが切られる。
その一枚の写真に込められた圧倒的な『闇の質量』に、ファインダーを覗いていたクリストファー(メフィストフェレス)は、本物の悪魔でありながらゾクリと背筋を凍らせた。
(……なんだ、この女は! 我々悪魔が束になっても敵わないほどの、純粋な『闇』そのものではないか……!)
周囲で嘲笑っていたイギリスのモデルたちも、あまりの恐ろしさと美しさに息を呑み、一歩後ずさった。
だが、クリストファーもまた大悪魔としてのプライドがある。ここで気圧されては、監督としての主導権を奪われる。
「……素晴らしい、持子! だが、周りの連中は何をしている! シャーロット、アーサー! お前たちもだ! 持子の闇に呑まれているぞ! お前たちイギリスの血に流れる、誇り高き絶望を見せつけろ!!」
その言葉に、イギリスのトップモデルとして参加していたシャーロット(グレモリー)とアーサー(アスタロト)の瞳に、本物の殺意とプライドが宿った。
人間のふりをしている場合ではない。この極東の魔王に、ただの背景として喰われるわけにはいかないのだ。
二人は、己の内に秘めた『地獄の底で何千年も煮詰められた悪意と絶望』を、モデルとしての表情に完璧に昇華させた。
シャーロットの青い瞳は、美しい人形のように凍りつき、その奥に狂気を滲ませる。アーサーの端正な顔立ちは、愛する者を自らの手で殺めたような、底知れぬ悲哀と残酷さを帯びた。
『カシャッ! カシャカシャッ!!』
三人の『本物の魔物』たちが織りなす、凄絶なまでのゴシック・セッション。
それは、人間の美術スタッフたちが思わず息を呑み、恐怖で涙を流すほどに美しく、そしておぞましい光景だった。
凄まじい群像劇のカットが終わり、クリストファーの矛先は、本多鮎へと向けられた。
「次は君だ、アユ。持子の『影』としての君のポテンシャルを見せてもらう」
鮎は、いつものように血の気の多い狂戦士の笑みを浮かべてカメラの前に立った。
だが――。
「ストップ! 全然ダメだ!!」
クリストファーの容赦ない怒声が飛ぶ。
「君が今出しているのは、ただ血に飢えた狂暴な犬の顔だ! 私が求めているのはそんな浅薄なスプラッターではない! 吠えるな! 己の内に渦巻く殺意を、冷たい氷の牢獄に閉じ込めて、瞳の奥だけで表現しろ!!」
「っ……!」
鮎は唇を噛み締めた。
力でねじ伏せる暴力的なカオス魔力は、今の彼女にとって最も引き出しやすい感情だった。しかし、クリストファーが要求する「静謐な闇」の表現が、鮎にはどうしても掴めなかったのだ。
「……やり直しだ。君のその薄っぺらい怒りでは、持子の絶対的な闇の隣に立つ資格はない!」
(ご主人様の、隣に立つ資格がない……!?)
その言葉は、第一下僕である鮎のプライドを根底からズタズタに切り裂いた。
焦りが顔に出る。何度ポーズを取っても、表情を作っても、クリストファーは「No」を突きつけ続ける。
見かねた雪が、冷ややかな声で告げた。
「……鮎。あんた、自分が今、何を求められているのか分かっていないわね。ただの暴れん坊なら、東京に置いてくればよかったわ」
「ゆ、雪さん……っ! 申し訳ありません……っ」
「……待て、雪。あまり忠犬を苛めてやるな」
持子が、漆黒のドレスを揺らして鮎のそばに歩み寄った。
持子は、泣きそうになっている鮎の顎をクイッと指ですくい上げ、その黄金の瞳で真っ直ぐに見つめた。
「鮎。貴様はわしの第一下僕だ。わしの闇を一番近くで見てきたはずであろう?」
「ご主人様……はい……っ」
「ならば、貴様自身の怒りなど捨て置け。貴様はただ、わしの落とす『影』になればよいのだ。わしという巨大な闇に呑み込まれ、息もできず、ただわしだけを求め続ける……その絶望的なまでの『渇望』を、その瞳に浮かべてみせろ」
持子の言葉と、同時に流れ込んでくる甘く冷たい魔力のパス。
さらに、鮎の影に潜む吸血鬼ルージュからも、そっと念話が届く。
『……マスター鮎。わたくしが数百年、光の届かない地下で味わってきた孤独と、血への渇望……その記憶を、少しだけお貸しいたしますわ。それを、持子様への愛に変換なさいな』
「……っ!」
鮎の中で、何かがカチリと音を立てて嵌まった。
自身の怒りではない。持子への狂信的な愛と、ルージュから流れ込む数百年分の孤独。それが、極寒の氷の牢獄の中で静かに燃え上がる「青い炎」へと変わっていく。
鮎は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、先ほどまでの血の気は完全に失せ、まるで深海に沈む宝石のように、冷たく、昏く、そして哀切な光を放っていた。
「……」
クリストファーは、ファインダー越しにその顔を見た瞬間、無言でシャッターを切った。
『カシャッ……』
ただ一枚。
それだけで十分だった。先ほどの狂犬は姿を消し、そこには、巨大な闇に魅入られ、永遠に救われることのない哀れで美しい「影」が立っていた。
「……オーケーだ、アユ。ギリギリだが……今のテイクは、悪くない」
クリストファーが、忌々しそうに、だが確かな賞賛を含んで呟いた。
カットの声がかかった瞬間、鮎は精神を極限まで削り取られ、限界を迎えたようにその場にへたり込んだ。
大半のモデルやスタッフが帰路につき、現場には後片付けをする少数のスタッフと、持子、シャーロット、アーサー、そして着替えに向かった鮎だけが残っていた。
日は完全に落ち、ロンドンの街は濃密な闇に沈んでいる。
異変は、突如として起こった。
『……マスター鮎。アイルランドの野良犬どもが、こちらへ向かってきておりますわ』
着替えていた鮎の脳内に、ルージュからの念話が響く。
『エティエンヌが撮影の邪魔にならぬよう、先に出向いて処理しようとしたのですが……数が多すぎます。押し切られ、現場まで連中を通してしまうかと』
『……もうっ、エティエンヌのバカ。私の愛しいご主人様を疲れさせた上に、邪魔をするなんて許せません。私がすぐに出ますわ!』
ゴオォォォォォッ!!
撮影現場に、突如として異常な冷気と濃霧が立ち込めた。
「な、なんだ……!? 霧の中から、何か来るぞ!」
残っていた撮影スタッフたちがパニックに陥り、悲鳴を上げる。
霧を切り裂いて現れたのは、首のない漆黒の騎士――デュラハンと、それに付き従う数十体のおぞましい悪魔の軍勢だった。
「キャアアアアッ! 何なのこれぇっ!?」
シャーロット(グレモリー)が、か弱い人間のモデルを完璧に演じきり、泣き叫んでガタガタと震えながら持子の背中にしがみつく。
「くそっ、なんだこいつらは! 持子、逃げるぞ!」
アーサー(アスタロト)もまた、震えながらも迫真の演技で持子の手を強く握り、庇うように立ちはだかった。
この二人、内心では(ちっ、アイルランドの連中め! ここで我々が力を使えば人間じゃないとバレる!)と焦りまくっているのだが、それを知らない持子は、内心で狂喜乱舞していた。
(……おおおっ!? なんという極上のシチュエーション!!)
持子の黄金の瞳が、乙女チックにキラキラと輝く。
普段なら闇の魔力で一掃するところだが、手を力強く握ってくるアーサーの端正な顔面と、背中にしがみついて泣いているシャーロットの豊満な胸の感触は、悔しいほどに持子の「好みのど真ん中」であった。
(……うむ! このイケメンに手を引かれ、美女を庇いながら逃げる『か弱い乙女』……なまら悪くないぞ! いや、むしろ最高だ! ここは全力で悲劇のヒロインを演じてやるわい! 本当に危なくなったら闇の魔力でぶっ飛ばせばよいしな!)
持子は完全に欲望に従い、
「キャーッ、怖いわぁっ! アーサー、シャーロット、助けてぇっ!」
と、わざとらしく悲鳴を上げ、アーサーの腕にギュッと胸を押し付けながらエロい顔で逃げ惑うという凶行に出た。
だが、持子が本気を出す必要など、最初から無かった。
ズドォォォンッ!!
上空から、神速の閃光が突き刺さった。
轟音と共に石畳を砕いて着地したのは、神話級の宝具『生太刀』を上段に構えたTIA特級エージェント、風間楓とその部隊だった。
「持子先輩! お待たせしました!」
「フゥンッ!」
「皆様、こちらへ! 浄化の光よ!」
楓、涼介、鶴子の極東勢力が一瞬にして前衛の雑魚悪魔を粉砕し、スタッフを保護する。
そして――。
「もうっ! ご主人様の神聖なステージ(撮影現場)を荒らすなんて、絶対に許しませんからねっ!」
上空の霧を蹴り散らし、フリルをあしらった戦闘服を翻しながら降臨したのは、花園美羽だった。
彼女の周囲には、怪しく輝く七振りの短刀――『七牙』が浮遊している。
「さあ……お掃除の時間ですにゃ!」
タァァァッ! と、美羽が地を蹴る。
それは、まるで流れるような、一切の無駄がない死の舞踏だった。血に塗れながらも、その動きは致命的に研ぎ澄まされている。
「ギャアアアアッ!?」
美羽は、恐ろしいスピードで悪魔の群れを単騎で突破していく。五行(火・水・風・土・雷)の短刀を瞬時に持ち替え、相手の弱点属性を的確に突き、急所を的確に『盗み取る』。炎の短刀で氷の悪魔を溶断し、風の短刀で巨漢の悪魔の関節を斬り裂いていく。
「さあ……最後ですにゃ!」
群がってくるアイルランドの悪魔たちを前に、美羽の両手には、七牙の中でも最強の二振り――『聖』と『闇』を宿した短刀が握られた。
「私の名前は、花園美羽。持子様の世界一可愛い、泥棒猫ですにゃァァァッ!!」
美羽は、相反する『聖』と『闇』の力を同時に解放し、二つの短刀を交差させる。
バチバチバチィィィッ!!
光と闇が激しく衝突し、循環し、強大なエネルギーの渦となって美羽の全身を包み込んだ。
「七牙連斬――『白黒天衝』!!」
ドバァァァァァァァァッ!!!!
美羽から放たれた白と黒の螺旋の斬撃が、残っていた悪魔の群れを呑み込み、一瞬にして灰へと変えた。
圧倒的な極東勢力の蹂躙。
だが、その頂点に立つかのように、一人の少女が悠然と霧の中から歩み出てきた。
「……あぁん、もう。私の持子様の御前を汚すなんて、万死に値しますわよ。」
ピンク色の髪を揺らす、本多鮎。
彼女は、自身の足元に伸びるルージュの影にスッと手を差し込んだ。武装換装――影の中から引き抜かれたのは、自身の身の丈を遥かに超える巨大な『デュラハンの大剣』であった。
『何故……貴様ガ、我ガ剣ヲ持ッテイル……!?』
本家本元であるデュラハンが、古臭い英語で驚愕の声を上げる。
「あら、お忘れかしら?」
鮎の影から、パラリと優雅に扇子を広げたルージュが姿を現した。
「わたくしに敗れ、逃げる際に貴方が落としていったその大剣は……今や、わたくしのマスターである鮎のものとなっておりますわ」
『貴様……あの気高キ吸血鬼女王ガ、ソンナ人間ノ女ノ下僕トナッタトイウノカ!? フザケルナァァァッ!!』
デュラハンは新たな大剣を虚空から引き抜き、漆黒の馬を蹴り立てて、物凄い勢いで鮎へと突進する。
「……ふふっ。先ほどの撮影のストレス、全部あなたで発散させていただきますわ!」
鮎は、恍惚とした狂戦士の笑みを浮かべて巨大な大剣を振りかぶった。
両者の大剣が、正面から激突する。
ゴアァァァァァッ!!!
結果は、一撃であった。
狂信的な愛とプライドに裏打ちされた鮎の圧倒的な質量による一撃は、デュラハンの新しい大剣ごと、その堅牢な鎧も、乗っていた魔馬すらも、一瞬にして文字通り『ミンチ』に叩き潰した。
『ガ、アァァァッ……!! タ、助ケテ……』
地に這い、命乞いをするデュラハン。
だが、鮎は無慈悲に手を伸ばし、デュラハンの強大な魔力をゴクゴクと吸い上げ始めた。
「敗れたのなら、潔く私の糧になりなさい」
冷酷に見下ろす鮎の言葉に、デュラハンは絶望の中に黙り込み、やがて完全に消滅した。
大将であるデュラハンが瞬殺されたことで、残っていた悪魔の群れは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、戦いはわずか数分で終結した。
「あー……もう! だからイギリスのゴーストキャッスル周辺は嫌だったんだ! 霊的トラブル多すぎだろ!」
戦闘終結直後、頭を抱えながら現場に駆け込んできたのは、新任副マネージャーの土御門朔夜だった。
彼の役目は、この異常事態を目撃してしまった『人間の撮影スタッフたち』の事後処理である。
「急々如律令! ……幻術・忘却の陣!!」
カァァァァァッ! と、朔夜の呪符から柔らかな光の波動が放たれた。
「……あ、あれ……? 頭が……」
「……どうして、僕たちはこんなところに……?」
アーサー(アスタロト)とシャーロット(グレモリー)の瞳がトロンと濁り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
彼らは大悪魔であるが、この世界で活動するために『人間の肉体』と完全に融合しているため、物理的な脳への干渉(記憶操作)をもろに受けてしまうのだ。彼らの表面上の意識は、朔夜の陰陽術によって見事に「悪魔の記憶を無くした、ただの怯えたモデル」へと書き換えられてしまった。
(チッ……極東の陰陽師の記憶操作か! ここで抵抗すれば俺が悪魔だとバレる!)
一方、クリストファー(メフィストフェレス)は、その強大な魔力で結界を弾き返すことも可能だったが、人間の監督としての完璧な演技を貫くため、わざとらしく白目を剥いてディレクターズチェアから崩れ落ちて「狸寝入り」を決め込んだ。
「よし、これで彼らの記憶から『悪魔の襲撃』は消え、『大規模な停電と機材トラブルで気を失った』という記憶にすり替わったはずだ。雪さん、事後処理完了しました!」
「ご苦労様、朔夜。……持子、鮎。怪我はないわね?」
雪が冷徹に確認すると、持子がアーサーとシャーロットの手を握りながら満面の笑みで答える。
「うむ! イケメンと美女に手を握られておったからな! なまら最高で無傷だぞ!」
朔夜は、圧倒的な暴力で悪魔を粉砕した鮎や美羽、そして一人だけのんきに乙女モードを満喫している持子を見て、深ぁぁぁぁいため息を吐き出した。
(……このバケモノ揃いのプロダクションで、俺の胃はいつまで保つんだ……?)
そして――。
その惨劇の一部始終を、大英博物館の遥か遠く、高い時計塔の屋根の上から静かに見下ろしている影があった。漆黒のローブを風になびかせた、妖艶な魔女モリガンである。
「……チッ。なんという化け物どもだ。アイルランドの軍勢が、文字通り赤子の手を捻るように蹂躙されたではないか」
モリガンは自身の気配を極限まで遮断し、望遠鏡代わりの魔力球を通して現場の惨状を見つめ、ギリィッと奥歯を噛み締めた。
「メフィストフェレスの言う通りだったな。……Plan A(武力制圧)など、ただの自殺行為。あの極東の魔王と、その護衛たちには、正面から挑んでは絶対にならない……」
モリガンは闇に溶けるようにして、その場から静かに姿を消した。
一方――狸寝入りの演技をしながら、
(正面衝突は完全放棄です。即座に、持子の強力な護衛たちを引き剥がす【盤外戦術】に移行します)
メフィストフェレスは、背手に隠した指先で魔術を編み、イギリスの裏社会ルートに極めて精巧な「偽情報」を緊急送信した。
数分後。剣を鞘に収めた楓の胸元で、TIAの通信機がけたたましく鳴る。
報告を受けた楓の表情が、険しく引き締まった。
「……持子先輩。どうやら今の連中はただの陽動だったようです。今、スコットランドの古城に、さらなる強大な悪魔の軍団が集結し、大規模な儀式を行っているという情報が入りました。……私たちは脅威の根源を絶つため、急行します」
「案ずるな、楓。存分に暴れてこい」
楓の部隊が突風のように飛び去っていく。
深夜。ロンドン市内の地下深くに作られた、豪奢で隠されたVIPルーム。
重厚なマホガニーの円卓を囲むように、イギリスの四悪魔が集結していた。
「……うぅん。ここは……? 僕たちは、確か撮影中に停電があって……」
「……頭が痛いわ。クリストファー監督、どうして私たち、こんな地下室に?」
アーサーとシャーロットは、まだ頭を抱えながら戸惑っていた。人間の脳と融合している彼らは、朔夜の「忘却の陣」の影響を未だに受けており、悪魔としての記憶に蓋をされてしまっているのだ。
「……嘆かわしいな。人間の脳の限界に引きずられるとは」
クリストファー(メフィストフェレス)が、葉巻を燻らせながら冷ややかに見下ろす。
その背後の闇から、モリガンがスッと姿を現した。
「さっさと目を覚ませ、愚か者ども。お前たちの間抜けな顔など見たくもない」
パチンッ!!
モリガンが鋭く指を鳴らした瞬間。
ズキィィィンッ!!!
「ああっ!?」
「ひぃっ!?」
アーサーとシャーロットの脳内に、封じ込められていた悪魔としての記憶――すなわち、先ほどの風間楓の神速の剣撃、花園美羽の『白黒天衝』、そして何より、本多鮎が大剣でデュラハンを「ミンチ」にしたあの凄惨な光景が、鮮烈にフラッシュバックした。
「はぁっ、はぁっ……! お、思い出した……! あのピンク色の髪の女……!!」
「アイルランドの悪魔たちを一撃で……! あんな化け物たちが、極東にはゴロゴロしているというのか……!」
記憶を取り戻した二人は、屈辱と恐怖でガタガタと震え上がり、顔面を蒼白にさせた。
「見ただろう。あれが現実だ」
メフィストフェレスが、灰皿に葉巻を押し付けながら立ち上がった。
「改めて宣言する。武力による制圧――Plan Aは、この瞬間をもって完全に破棄する」
その言葉に、他の三柱は無言で頷いた。異論などあろうはずがなかった。
「だが、我々は確かな『希望』も掴んだはずだ。アーサー、シャーロット。お前たちは、あの魔王の手を握った時に、何を感じた?」
メフィストフェレスの問いに、アーサーがハッとして顔を上げた。
「……! そ、そういえば……あの女、僕に手を引かれた時、見とれたような……完全に『恋する乙女』の顔をしていました!」
「ええ! 私のことも、すごく熱っぽい目で見つめてきて……少なくとも、敵意や殺意は一切感じませんでしたわ!」
シャーロットも興奮気味に言葉を重ねる。
「その通りだ」
メフィストフェレスのレンズの奥の目が、妖しく、そして狡猾に光った。
「あの極黒の魔王の魂の奥底には、間違いなく『ロマンチックな展開に弱い乙女』が眠っている。暴力では勝てぬのなら、魂の根幹から溶かして堕とすまでだ」
メフィストフェレスは、テーブルの中央に一枚の写真を叩きつけた。それは、先ほどの撮影で持子が見せた、絶対的な「闇」の表情を捉えたものだった。
「これより、我々は【Plan B(少女漫画作戦)】へと完全に移行する。極東の暴力装置(TIA)は、すでに私が流した『スコットランドでの悪魔儀式』という偽情報に踊らされ、ロンドンから引き剥がした」
「おお……! さすがはメフィストフェレス殿!」
アーサーとシャーロットの顔に、希望の光が差す。モリガンもまた、口角を歪めて妖しく微笑んだ。
「アーサー、お前が主役だ。あの魔王に、極上の『ロマンス』という名の毒を盛り、骨抜きにしてやれ。我々が全力でそのシチュエーションをバックアップする」
「……フフフッ。任せてください。イギリス紳士の甘いエスコートで、あの恐ろしい魔王を、ただの従順な雌猫に変えてみせましょう」
アーサーが、端正な顔立ちに自信に満ちた邪悪な笑みを浮かべる。
地下室に、悪魔たちの歪な笑い声が響き渡った。
持子の弱点(イケメンと美女)を完全に把握し、手応えを感じた悪魔たち。
極東の魔王を堕とすための、甘く、危険で、そしてどこか滑稽な「恋の罠」が、今、本格的に動き出そうとしていた――。




