「悪魔は、恋の形で侵入する」
【イギリス編・四悪魔の密談と美しき器】
イギリスの空は、分厚い鉛色の雲に覆われ、冷たく重い雨が歴史ある石畳を打ち据えていた。
表向きは伝統と格式を重んじる美しい紳士淑女の国。だが、その裏側に広がる広大な「闇の社会」は今、かつてないほどの恐慌状態に陥り、震え上がっていた。
恐怖の震源地は、極東の島国からやってきた「撮影チーム」である。
世界的ブランドのトップモデルとしての顔を持つ、恋問持子。
彼女の正体は、暴食の魔王の魂を宿す、極黒の覇王であった。そして彼女の傍らには、狂犬のような武力を持つ第一下僕の本多鮎、裏社会の闇を統べる吸血鬼の元女王ルージュと、その元夫である真祖エティエンヌ、さらに最高峰の陰陽師である土御門朔夜が影のように付き従っている。
それだけではない。持子たちの撮影とは別行動をとっているが、TIA特級エージェントである風間楓率いる部隊が、エティエンヌに対する反乱分子の掃討任務の延長としてイギリスに降り立っていた。すでにフランスとイタリアの裏社会を単なる「武力」で物理的に制圧した彼女たちの異常な戦闘力は、イギリスの悪魔たちにとって冗談では済まされない死の足音であった。
ロンドン地下深く。何重もの魔術結界に守られた、光すら届かぬ秘密の空間に、本来ならば決して交わることのない四つの強大な「闇」が集結していた。
危機を感じたイギリスの四悪魔――メフィストフェレス、グレモリー、アスタロト、モリガンが、一時的な同盟を結ぶために顕現したのである。彼らはおぞましくも荘厳な、純然たる悪魔の精神体としてそこに漂っていた。
「……忌々しい。極東から来た小娘どもが、この歴史あるイギリスの闇を我が物顔で闊歩するなど」
闇の中で、傲慢な光を放つ人型が苛立たしげに声を揺らした。大悪魔アスタロトである。かつてはオリエントの美と豊穣の女神『アスタルテ』であったが、キリスト教によって男の悪魔へと貶められた存在。その姿は両性具有的な美しさを持ちながらも、堕天使としての底知れぬプライドの高さを滲ませていた。
「言葉には気をつけることね、アスタロト。彼女たちはただの小娘ではないわ。特にあの風間楓という小娘の部隊……あやつらの剣技は、我々大悪魔の首すら容易く落とすわよ」
影の中から無数の烏の羽を散らしながら姿を現したのは、大悪魔モリガン。実力は四悪魔の中でも上位に位置する彼女は、戦場に死と狂気をもたらす幻影の女王である。
「モリガンの言う通りですわ。それに、厄介なのは風間楓だけではありません。あのパリの引きこもり……ルージュまでもが、エティエンヌと共にノコノコと海を渡ってきたのですから。正面からぶつかれば、イギリスの闇は三日で焼け野原になりましてよ」
地獄の悪魔でありながら「唯一、絶世の美しい女性の姿」をとる大公爵、グレモリーが優雅に微笑んだ。
「嘆くのはそのくらいにしておきましょうか、皆様」
空間の中央、羊皮紙と黒い羽ペンが虚空に浮かび上がる。狡猾なる契約の大悪魔、メフィストフェレスである。彼は知的な、しかし底知れぬ邪悪さを孕んだ思念を空間に響かせた。
「極東の魔王軍は、我々が祈ったところで去ってはくれません。……我々が生き残るためには、あの『恋問持子』という規格外のバケモノをどうにかして無力化するしかありません。作戦会議と行きましょう」
メフィストフェレスの主導のもと、悪魔たちは三段構えの策を練り上げた。
まずは、ルージュの下僕である本多鮎が持つ「デュラハンの大剣」を利用する。メフィストフェレスがアイルランドのデュラハンを煽り、大英博物館周辺での撮影中に強襲させ、魔王軍の戦力を正確に測る【Plan A(武力偵察)】。
「問題は、その偵察で『正面からでは絶対に勝てない』と判明した場合です。……グレモリー殿。貴女の眼には、あの魔王はどう映っていますか?」
メフィストフェレスの問いに、グレモリーは妖艶な瞳を細めた。彼女の「過去・現在・未来を視る能力」が、持子の魂の深淵を覗き込んでいたのだ。
「あの魔王の魂は、混沌そのものですわ。圧倒的な暴君・董卓の魂の奥底に、女の魂が眠っている。……しかも最近、仲間との絆や光の魔力の影響か、その『女(乙女)の部分』が急速に育ち、表層に浮かび上がりつつある。男に対するトラウマはあるようですが、ロマンチックな展開にはひどく脆くなっていますわ」
「つまり、心が女化している……と?」
アスタロトが面白そうに嗤う。
「ええ。ですから、もし正面衝突が不可能だと判断した場合は……極東の魔王の乙女心を徹底的に刺激し、精神を弱らせ、完全に主導権を握らせた隙に肉体と魔力と下僕共をそっくり奪う【Plan B(精神侵略・少女漫画作戦)】へ移行します」
「なるほど、悪くない。そして万が一すべてが失敗した場合は、命を最優先に各自撤退する【Plan C】だな」
モリガンの確認に、悪魔たちは同意の意思を示した。方針は固まった。
「では、Plan Bを実行するための『器(肉体)』を選定しましょう」
メフィストフェレスが告げる。
「あの勘の鋭いバケモノたちの懐に潜り込むには、我々の悪魔としての気配を完全に消し去る『完全融合』が必要です。それも、撮影関係者の中で、魔王の好みに合致する『極上の美男美女』でなければならない」
「わたくしが探しますわ」
グレモリーが視る力をロンドン市内に広げた。やがて、彼女の視界に二人の人間の姿が浮かび上がる。
「見つけましたわ。今回の撮影に参加しているイギリスのトップ・女性モデル、シャーロット・シンクレア。誰もが振り返る絶世の美女です。わたくしはこの女と融合し、命の恩人という『親友ポジション』から魔王の懐に入り込みます」
「ならば、男役はこの私だな」
アスタロトが進み出る。
「同じく撮影に参加しているトップ・メンズモデル、アーサー・ペンデルトン。気高く傲慢な雰囲気を纏う極上の美男子だ。私が彼と融合し、美と魅了の力で魔王の乙女心を強引にこじ開けてやろう」
「お待ちを。お二方」
メフィストフェレスが、冷や水を浴びせるような低い声を出した。
「彼らは確かに見た目は美しい。しかし、霊的な器としては極めて脆弱なただの人間です。彼らの肉体に我々の魂を『完全融合』させ、なおかつ悪魔の気配を完全に隠蔽するとなれば……我々の力は、本来の数分の一にまで著しく弱体化しますよ。元の肉体が強靭な魔術師などであれば話は別ですが、美しさだけを優先すれば、まともな魔術戦すらできなくなる」
大悪魔にとって、力こそが存在意義である。大幅な弱体化は、死の危険を跳ね上げる行為だった。
だが、アスタロトは鼻で笑った。
「構わんさ。今回の作戦は力押しではないのだからな。弱体化しようが、人間の小娘一人の心を落とすのに腕力など不要だ。それに、気配を完全に消し去らなければ、あの魔王に一瞬で魂ごと喰い尽くされる」
「同感ですわ。わたくしたちは、美しさと甘い罠だけで、あの魔王の精神をからめ捕るのですから」
グレモリーも自信たっぷりに頷いた。
「……承知しました。では、私は撮影の総監督であるクリストファー・ヴァンスと『契約』を結び、一時的に肉体を奪って盤外から皆様をコントロールしましょう。モリガン殿は?」
「私は誰とも融合しないわ。幻影と変身能力を駆使し、外側から護衛の分断とサポートに回る。その方が都合がいいでしょう?」
モリガンの言葉に、異論は出なかった。
「では、器が決まりましたね」
メフィストフェレスの声と共に、空間の闇が渦を巻く。
イギリスを支配してきた四柱の大悪魔たちが、極東の魔王を絡め捕るための「美しい器」へと、その魂を滑り込ませていく。
冷たい雨のロンドン。
歴史ある街の裏側で、愛と裏切り、そして絶対的な覇王を巡る、甘くも恐ろしい暗闘の幕が静かに上がろうとしていた。




