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【イギリス編・盤外戦術と、甘く危険な恋の包囲網】

【イギリス編・盤外戦術と、甘く危険な恋の包囲網】


霧の街ロンドンを離れ、一行はイギリス最古の大学都市・オックスフォードへと舞台を移していた。


何世紀もの歴史を刻んだ重厚な石造りの校舎群。ハリー・ポッターの世界に迷い込んだかのような、荘厳なゴシック建築が立ち並ぶ風景。


本日の撮影テーマは「アカデミアの憂鬱と知の探求」である。ロケ地として特別に許可が下りたのは、中世の古書が壁一面に並ぶ、静寂に包まれた歴史ある図書館だった。


だが、その静謐な空気の裏側で、四柱の大悪魔による狡猾な【盤外戦術】は、すでに完璧な機能を開始していた。


図書館から遠く離れた大学の別棟では、持子を護るべき鉄壁の護衛たちが、見えない檻の中で激しい焦燥に駆られていた。


「……監督。そろそろ持子の様子を見に行きたいのですが。この書類の確認は後でも――」


「いやいや雪さん! ここが一番重要なんだ! イギリス貴族への挨拶の順番を間違えれば、プロデューサーである貴女の責任問題になる!」


総監督クリストファー(メフィストフェレス)が、机に山積みにされた書類を叩き、立花雪を会議室の椅子に縛り付ける。


「もう……十五着目ですわよ!? いい加減にしてくださいませ、ご主人様がお待ちですの!」


「ノンノン、アユ! スポンサーが君の新しい魅力を求めているんだ! さあ、次はあのゴシックドレスを!」


第一下僕の本多鮎は、フィッティングルームでスタッフたちに囲まれ、脱出不可能な着せ替え人形と化していた。


そして、オックスフォードの石畳の路地裏。


「……チッ、また消えた! なんなんだ、あの気配は!」


陰陽庁執行部の土御門朔夜は、息を切らして壁を殴りつけた。


追い詰めたと思えば消え、異常がないかと思えばまた不審な気配がよぎる。直接的な攻撃は一切来ない。ただひたすらに、持子の元へ戻る時間を削り取られ、神経だけが摩耗していく。


実力上位の大悪魔モリガンによる、殺意すらない純粋な「遅延工作」。それは、直感の鋭い朔夜にとって最も相性の悪い、極上の足止めであった。




最強の護衛たちが分断されているとも知らず、静まり返ったアンティークな図書館の最奥で、持子は一人、天井まで届く巨大な本棚の前に立っていた。


(ふん……皆、何やら慌ただしく動いておるな。雪も鮎も朔夜も、わしを置いてどこへ行ったのだ。……まあよい、わしは孤高の魔王。一人で静かに書物を愛でるのも悪くないわい)


持子は、豪奢なドレスの裾を揺らしながら、ずらりと並ぶ分厚い古書を見上げた。


絶望的なバカであり、特に数学の「分数」を「人間を串刺しにする邪悪な呪術」と本気で忌み嫌っている持子にとって、学問の殿堂であるこの空間は本来アレルギーが出そうな場所である。だが、トップモデルとしてのプロ意識が働き、いかにも知的なポーズをとって難解そうな古書に手を伸ばそうとした。


(うむ、あの最上段の革張りの本など、いかにも魔王のわしにふさわしい魔導書のようではないか)


だが、その本は身長175cmの持子を以てしても、少し高い位置にあった。


「ぬっ……届かん。ええい、少し背伸びを……」


持子が爪先立ちになったその瞬間。


ふわりと、上質なオーデコロンの甘い香りが背後から漂った。


「――Is this the book you are looking for?(お探しの本は、これかな?)」


耳元で、甘く、深みのあるバリトンボイスが囁かれた。


持子の背後から、男性の長い腕がスッと伸び、目的の古書を軽々と抜き取る。そのまま腕は本棚に『トンッ』と突かれ、持子は背後から完全に男の腕と胸板の中に閉じ込められる形となった。


いわゆる、圧倒的な体格差を伴った、知的な『背後からの壁ドン』である。


「ア、アーサー、か……?」


驚いて振り返った持子の至近距離に、イギリスのトップ・メンズモデルであるアーサー・ペンデルトン(アスタロト)の、彫刻のように完璧な顔があった。


「You are so beautiful... even the fog of London clears before your eyes.(君は本当に美しい……ロンドンの霧さえも、君の瞳の前では晴れてしまうようだ)」


アーサーは、知的でミステリアスな微笑みを浮かべ、持子の耳元でシェイクスピアの愛の詩の一節を滑らかな英語で甘く囁く。


「…………え?」


(な、なんと言っておるのだ? さっぱりわからん! 英語などという邪悪な呪文、分数と同じくらい理解できんぞ!)


だが――言葉の意味など、もはやどうでもよかった。


アーサーの吐息が、持子の耳の輪郭をくすぐる。男の低く艶やかな声帯の震えが、直接鼓膜から脳髄へと響いてくる。鼻腔をくすぐる、高級でセクシーな香水の匂い。


(な、なまらズルいぞ、このシチュエーションは……! わ、わしは天下を恐怖で支配した魔王、董卓だぞ!? なのに、どうしてこんなに心臓がうるさいのだ……!)


普段は傲岸不遜な暴食の魔王の魂が、男の色気と予想外の展開にパニックを起こして大混乱に陥る。


「モ・チ・コ」


アーサーは少し顔を近づけ、今度はたどたどしい、カタコトの日本語でゆっくりと紡いだ。


「アナタノ、ヒトミ……。ホシヨリモ、ウツクシイ……」


アーサーはそのまま、持子の震える右手をそっと取り、手の甲にうやうやしく口づけを落とした。


『チュッ』という微かな音が図書館の静寂に響く。王子様のような、完璧なエスコート。


「ワタシ、アナタノコト……モット、シリタイ……デス」


図書館の静寂の中、甘いオーデコロンの香りと、アーサー(アスタロト)の熱を帯びたサファイアの瞳に真っ直ぐ射抜かれ、持子の思考は完全にショートしていた。


カタコトの日本語で愛を囁かれ、手の甲に口づけを落とされたまま、持子は身動き一つ取れなくなっていた。


魂の奥底で暴君・董卓が「目を覚ませ! 男になど絆されるな!」と吠え猛っているはずなのだが、その声は、完全に表層に浮かび上がった絶世の美女『貂蝉』の甘い陶酔にかき消されていく。


かつて極東で、風間洋助に敗れ、無残に散った初恋のトラウマ。それすらも、目の前の極上のイケメンによる暴力的なまでの「少女漫画展開」の前に、脆くも崩れ去ろうとしていた。


(わし……やっぱり、イケメンには逆らえない運命さだめなのか……っ)




「――Oh my! アナタたち、こんな静かな場所で抜け駆けかしら?」


唐突に、弾むような明るい声が書架の隙間から響いた。


ハッとして持子が振り返ると、そこに立っていたのは、同じく今回の撮影に参加しているイギリスのトップ・女性モデル、シャーロット・シンクレアだった。その中身が大悪魔グレモリーであることなど微塵も感じさせない、無邪気で美しい親友の顔である。


「シ、シャーロット!? ち、違うぞ! これはただの壁ドンというか、本を取ってもらっていただけであって、決してわしがオスにときめいていたわけでは……!」


「ふふっ、顔が真っ赤よ、モチコ。隠さなくてもいいのよ?」


シャーロットは悪戯っぽく微笑みながら持子に歩み寄り、その華奢な腕に自分の腕を絡ませた。


「アーサーはイギリスでも最高のジェントルマンよ。モチコのような美しいトップモデルには、彼みたいな素敵なエスコート役がふさわしいわ。ね?」


「あ……う、うむ……。シャーロットがそう言うなら……」


悪魔学において「唯一、絶世の美しい女性の姿で現れる」とされる大公爵グレモリー。彼女の言葉には、対象の警戒心を極限まで解きほぐす魔力が秘められていた。持子は、まるで心を許した姉や親友に恋愛相談をしているかのような、不思議な安堵感を覚えてしまう。


(うむ……シャーロットは本当に良い女だ。彼女が応援してくれるなら、この展開も悪くないのかもしれん……)


完全に『親友ポジション』を確立したシャーロット。持子の防御力は、ここで完全にゼロになった。


だが、悪魔の罠はこれだけでは終わらない。


「でも……ねえ、持子?」


シャーロットはそのまま持子の左側にピタリと身を寄せ、その細くしなやかな腕を、持子の腰に艶かしく絡ませた。


「アーサーにだけ独り占めさせるのは、ちょっと妬けちゃうわ。持子は、私にとっても特別なの」


「えっ……シャ、シャーロット……?」


シャーロットはふっくらとした唇を尖らせ、持子の左肩にそっと顎を乗せると、耳元で甘く囁いた。


「アーサーみたいな男もいいけれど……私のほうが、あなたのことをずっと綺麗に、優しく愛してあげられるわよ……?」


吐息混じりに囁かれる、蠱惑的な女の声。


腰に回されたシャーロットの腕の力強さと、肩に押し付けられる豊満な胸の柔らかな感触。


右からは、サファイアの瞳で見つめ、手を握りしめてくる世界一の美男子アーサー


左からは、甘い薔薇の香りを漂わせて抱き着いてくる、親友にして絶世の美女シャーロット


「は、ひゃあぁ……っ!?」


持子の脳内で、何かが限界を超えて弾け飛ぶ音がした。


(イ、イケメンと美女に……わしが、サンドイッチにされておる……!! 信頼していた親友まで、わしを狙っているだと!? なんだここは、天国か!? ロンドンは天国だったのか!?)


左右から浴びせられる、甘く、熱く、そして途方もなく重い「極上の愛の言葉」の連打。


持子の黄金の瞳は完全にトロンと濁り、自立する力さえ失って、アーサーの広い胸板とシャーロットの柔らかな体に、だらりと寄りかかることしかできなくなった。


((……よし! 完全に堕ちた!!))


アーサー(アスタロト)とシャーロット(グレモリー)は、持子を両側から優しく抱きとめながら、内心でガッツポーズを取った。


人間の感情というものを理解しきれない悪魔たちにとって、極東の魔王の精神を「恋愛のトキメキ」だけで破壊するというこの作戦は、信じられないほどの集中力と魔力を消費する綱渡りだったのだ。


(まさか、これほどまでに脆いとは……! 暴力の化身のようなあの風間楓や本多鮎を従える主が、こんな甘い囁きとスキンシップだけで骨抜きになるとはな……!)


(ふふっ、メフィストフェレスの読み通りですわ。このまま、彼女の精神が完全に『恋する乙女』へと変質した瞬間に、我々が魂ごと乗っ取る……! イギリスの闇は、我々が守り抜きますわ!)


静かなオックスフォードの図書館。


最強の仲間たちから物理的に引き離され、完全に孤立無援となった極東の魔王。


その「乙女心」という最大の弱点を突く、悪魔たちの甘く、そして致命的な罠【Plan B】は、持子の精神の深淵を完全に侵食し、まさにそのすべてを呑み込もうとしていた。


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