『静寂は仮初――牙を剥く夜のローマ』
【嵐の後の静寂と、冷徹なる指揮官、そして健気な弟子】
ザーーーーーーーーーーーーーッ……!!
ローマの街を容赦なく打ち据える豪雨は、夕刻を過ぎても一向に弱まる気配を見せなかった。
トレビの泉での死闘のような撮影を終えた持子と鮎、そして現場を静かに見届けていた雪と弟子の朔夜は、冷え切った身体を休めるべく、滞在先である超高級ホテルのスイートルームへと帰還していた。
「……ふぅ。さすがに、芯まで冷えたな。ブルブルッ」
ふかふかの巨大なバスタオルにミノムシのように包まった持子が、温かいハーブティーの入ったカップを両手で包み込みながら、大きく息を吐き出す。
「ご主人様、お風邪を召されませんように。すぐにバスルームのお湯を張らせますねっ!」
鮎もまた、濡れた髪からポタポタと雫を滴らせながら、甲斐甲斐しく持子の世話を焼こうとする。先ほどの撮影で「覚醒」した彼女の顔には、もはや迷いや惨めさは微塵もなく、ただ真っ直ぐでキラキラとした忠誠心だけが輝いていた。
「二人とも、お疲れ様。……まずはしっかりと身体を温めなさい」
部屋の奥のソファに腰を下ろし、すでにノートパソコンを開いていた雪が、画面から視線を外さずに冷ややかな、しかしどこか労いのこもった声で告げた。カタカタカタッ。
その背後には、雪の陰陽道の弟子である土御門朔夜が、分厚いスケジュールのファイルを抱え、真剣な面持ちでビシッと控えている。テーブルの上には、フランスにいるリジュ、そして洋助との通話用ヘッドセットが用意されていた。
「雪、お前は休まんのか? 朔夜も、一日中立ちっぱなしであっただろう?」
持子が問いかけると、雪はキーボードを叩く手を止めずに答えた。
「休んでいる暇なんてないわ。これからリジュに今日の撮影の報告と、今後の仕事の打ち合わせをするから、かなり時間がかかるわね。朔夜も同席して、しっかりと記録を取ってもらうわ」
「はいっ! お師匠様の補佐、全力で務めさせていただきます!」
朔夜が背筋をピンと伸ばして、ハキハキと答える。
パタン、と雪は一度ノートパソコンの画面を閉じ、持子たちに向き直った。
「あなたたちは、今日はもう自由時間よ。明日もこの豪雨が続く予報だから、撮影は休み。完全なオフにしてあげるわ」
「おおっ! 休みか!」
持子の黄金の瞳が、パァァッと太陽のように輝きを取り戻す。
「ええ。そして……次はイギリスでの撮影になる予定よ。明々後日にはロンドンへ飛ぶことになると思うわ。この詳細もこれから打ち合わせてくるから、詳しい話は明日の朝食の時に改めてするわね」
「うむ、分かった! 任せておけ!」
「承知いたしました、雪さん。明日はゆっくり休ませていただきます」
持子と鮎が力強く頷くのを確認すると、雪は一枚の黒いカードキーサイズの招待状を、テーブルにスッと滑らせた。
「今日のディナーは、私が一流のイタリアンレストランを予約しておいたわ。……エティエンヌとルージュは先に向かっているはずよ。あなたたちも、たまには優雅に食事を楽しんできなさい」
「おおぉぉっ! さすが雪! 話が分かるぞ! 肉だ! イタリアの肉とワインだぁ! がははは!」
歓喜に沸き、小躍りする持子たち。
その傍らで、ピクッと朔夜の肩が跳ねた。
(い、イタリアンレストラン……! 絶品のパスタに、お肉……っ! じゅるり……)
朔夜はチラリと招待状に視線をやり、ゴクリと喉を鳴らしたが、すぐに首をブンブンと横に振って己を律した。(いかんいかん、俺は副マネージャーなんだ!)
未練がましくレストランのカードを見つめる朔夜を横目に、雪は再びノートパソコンの画面へと視線を戻し、プロデューサーとしての冷徹な顔に戻った。
「行ってらっしゃい。朔夜、資料の5ページ目を開いてちょうだい」
「は、はいっ! ただいま!」
慌ててファイルを開く朔夜の少し不憫な背中を見送りつつ、持子と鮎はウキウキとディナーの準備へと向かうのだった。
【元夫婦の晩餐と、美食への目覚め】
午後八時。ローマ市内の閑静な路地裏に佇む、知る人ぞ知る完全予約制の高級リストランテ。
カラン……。
重厚なマホガニーの扉を開けると、外の豪雨の騒音とは無縁の、クラシックの弦楽四重奏が静かに流れる、別世界のような空間が広がっていた。
「チャオ、お二人とも。お待ちしておりましたわ」
「持子様、鮎殿。本日はお疲れ様でございました」
案内された薄暗くムードのある個室。そこには、すでに完璧なドレスアップを済ませたエティエンヌとルージュが、ワイングラスを傾けながら優雅に微笑んでいた。
「おお! 待たせたな、二人とも。今日は昼間から優雅にデートを満喫しておったそうではないか!」
持子が嬉しそうに席に着く。
「ふふ、デートだなんて。ただのローマ観光ですわ」
ルージュは、ルビーのように赤いワインを揺らしながら、隣に座るエティエンヌを横目で見て、フッと艶やかに笑った。
「なにせ、わたくしを冷たいパリの地下に300年も放置した『元旦那様』のエスコートですからね。……随分と気合が入っておいででしたわよ?」
「おやおや。人聞きの悪いことを。あの時は貴女の力が必要だったのです」
エティエンヌが苦笑する。かつて100年を共に過ごし、その後300年の孤独を味わわせた元夫婦の、愛憎入り混じる軽口。
そんな二人のやり取りを見ながら、持子と鮎もまた、運ばれてくる極上の料理に舌鼓を打っていた。
芳醇な香りを放つ白トリュフのタリオリーニ。
口の中でとろけるような、極上の和牛のビステッカ(ステーキ)。
「……美味い! なまら美味いぞ! モグモグ!」
持子が目を輝かせて肉を頬張り、鮎が「ご主人様、お口元にソースが」と嬉しそうに世話を焼く。
そして、この空間において最も劇的な変化を遂げていたのは、吸血鬼であるエティエンヌとルージュであった。
かつて彼らのような高位の吸血鬼にとって、人間の食事は「ただの泥」であり、生きるためには人間の血液をすするしかなかった。
しかし、今は違う。彼らはもう、血を必要としていなかった。
「……素晴らしい。この仔羊のロースト、ローズマリーの香りと肉の旨味が、見事に調和しておりますな。モグ……」
エティエンヌが、目を閉じてうっとりと咀嚼する。
「ええ、本当に。このワインのタンニンも、絶妙な渋みでわたくしの喉を潤してくれますわ」
ルージュもまた、心からの感嘆の息を漏らした。
(300年間……太陽の光を恐れ、地下の暗闇で泥のような食事をしていたわたくしが、こんなにも優雅に人間の食事を楽しめるようになるなんて……)
ルージュは、目の前で微笑むマスター・鮎を見つめた。
自分を下し、魂を縛った主。ルージュは今、鮎とのパスを通じて定期的に分け与えられる力強い『魔力』によって生存している。血を啜る呪縛から解放され、西日を浴びても平気な肌になり、こうして味覚すらも取り戻したのだ。
(マスター・鮎と出会って初めて食べた『ダブルチーズバーガー』のジャンクな味も感動的でしたけれど……やはり、一流の味も格別ですわね。ふふっ)
【水面下の聖戦と、元旦那の暴走】
(……よし。腹も膨れたし、今夜は思い切り鮎を可愛がってやるか)
持子は、芳醇な食後酒をちびりと舐めながら、テーブルの下でスッと足を伸ばした。
トンッ。
持子のつま先が、向かいに座る鮎のふくらはぎに、艶かしく触れる。
「……ッ」
鮎の肩が、ビクッと跳ねた。
持子は、周囲の二人には絶対に気づかれない角度で、鮎に向かって流し目を送り、パチリと魅惑的なウィンク(今夜は一緒に寝るぞの合図)を飛ばした。
(ご、ご主人様……っ! わ、私、今日こそはご主人様のすべてを……っ!!)
鮎の顔が、ボンッ! と一瞬で茹でダコのように赤く染まる。昼間の過酷な撮影で見せたシリアスな表情はどこへやら、彼女の頭の中はすでにピンク色の妄想で埋め尽くされていた。
今夜は、持子と甘い夜を過ごせる。
鮎がそう確信し、密かに息を荒くした、まさにその瞬間。
「――持子様」
ひときわ甘く、低く、そして耳元を直接くすぐるような艶やかな声が響いた。
隣に座っていたエティエンヌである。
彼は、ワイングラスを置く仕草に紛れ、持子の耳元にスッと顔を近づけ、誰にも聞こえないほどの小声で囁いた。
「……私、まだパリでの『ご褒美』をいただいておりませんが? 今夜こそは、貴女様の極上の魔力を……至高の快楽と共に、このエティエンヌにたっぷりと注ぎ込んでいただけますね?」
ピキッ。
持子の動きが、完全にフリーズした。
(あ…………っ!!)
持子の脳内に、雷が落ちた。エティエンヌに盛大な、ご褒美のおあずけをしていたのである。
「えっ、あ、いや、その……」
持子が、冷や汗をダラダラと流しながら困り果てた顔を作る。アワアワ。
右を見れば、飢えた狼のような熱い視線を向ける吸血鬼の騎士。
正面を見れば、今夜は絶対に譲らないと鼻息を荒くしている狂信的な筆頭従者(鮎)。
バチバチバチバチッ!!!
テーブルの下で、持子の貞操を巡る、不可視の凄まじい火花が散っていた。
「……譲りませんよ、エティエンヌ。今夜のご主人様のお世話は、私の役目です」
鮎がアルカイックスマイルのまま、地獄の底から響くような声で囁く。ゴゴゴゴゴ……。
「おやおや。先約は私の方のはずですが? 夜くらいは譲っていただきたいものですな」
エティエンヌも一歩も引かない。
((((ヒィィィィィッ!! こ、こやつら、本気だぁぁぁっ!!))))
持子は、二人の板挟みになり、胃をキリキリと痛めながら苦悩の表情を浮かべていた。
「やれやれ……。相変わらず、犬も食わない痴話喧嘩ですわね」
その時。一人優雅にグラッパを楽しんでいたルージュが、呆れたように深いため息を吐いた。
「ええい、もう面倒だ! 今日は二人ともダメだ! ダメなのだーっ!!」
持子は、バッと両手をクロスの形に交差し、叫んだ。
「わしは疲れているのだ! 今日は一人で寝る!」
「「そ、そんなぁぁぁぁっ!!」」
鮎とエティエンヌの絶望の声がハモる。ガーン!
すかさず、ルージュがコトリとグラスを置き、鮎に向かって優雅に微笑みかけた。
「仕方ありませんわね。マスター・鮎。近くに、とても雰囲気の良いオーセンティック・バーを見つけましたの。わたくしと一緒に、もう一杯いかがですか?」
「おお! それは名案だ! ルージュ、鮎を頼んだぞ! エティエンヌ、お前はわしをホテルまで護衛しろ! 以上、解散っ!」
持子は、この修羅場から逃れる絶好のチャンスとばかりに、すかさず「すまぬ!」と鮎に両手で拝むジェスチャーをして立ち上がった。
「あ、ちょ、ご主人様ぁ……っ!」
鮎が手を伸ばすも時すでに遅し。持子はエティエンヌを盾にするようにして、足早にレストランを後にしてしまった。タタタタッ!
【不満の矛先と、吸血鬼の女王の魔眼】
「……はぁぁぁぁぁぁっ」
持子とエティエンヌが去った後。残された鮎は、テーブルに突っ伏し、今日一番の深いため息を吐き出した。
「酷いです……。あともう少しで、ご主人様とイチャイチャできたはずなのに……シクシク」
どんよりと暗いオーラを放つ鮎。
しかし、ルージュは意味深な笑みを浮かべていた。
「ふふ。拗ねないでくださいな、マスター。……わたくしが貴女を引き留めたのは、ただの邪魔立てではありませんわ」
「え……?」
鮎が顔を上げる。
ルージュは、すっと目を細め、窓の外――豪雨が打ち付けるローマの闇夜を見つめた。
瞬間、彼女の真紅の瞳の奥に、複雑な魔法陣のような紋様が浮かび上がった。吸血鬼の女王が持つ、絶対的な『魔眼』である。カッ!
「……これから、少し『面白いこと』が起きますよ」
ゾクッ。ルージュの言葉と共に、周囲の空気が一変した。
「……強大な悪魔が、このローマの地下で息を潜めていますわ。ひどく質の悪い、泥のような魔力の気配がね。そして……」
ルージュの魔眼が、雨の彼方を鋭く睨む。
「どうやら、その悪魔の気配に向かって、真っ直ぐに突き進んでいる『光』を感じますわ。あの方たち――風間楓さんたちの気配です」
「楓さんが……? 次の任務って、イタリアでの悪魔討伐だったのですね」
鮎は、顎に手を当てて思考を巡らせた。
「どうしますか、マスター・鮎」
ルージュが、妖艶に唇を舐める。ペロッ。
「溜まりに溜まったその『欲求不満』、今夜は思い切り、血肉を刻む『狩り』で癒やしてみませんか?」
悪魔の誘惑のような、甘く危険な囁き。
持子とお泊まりできなかった鬱憤。エティエンヌへの嫉妬。そして、身体の奥底で燻っている暴力的な衝動。
「…………」
鮎は、数秒の沈黙の後。スッ、と席を立ち上がった。
「……ええ。行きましょうか、ルージュ」
鮎の顔には、極寒の吹雪のように冷たく、そして狂気じみた笑みが浮かんでいた。ニィッ。
「ご主人様に触れられなかったこの怒り……その辺の三下悪魔に、たっぷりと八つ当たりしてやります。楓さんたちと合流して、嵐の前に片付けましょう」
カチャリ。
二人は、優雅にテーブルにチップを置くと、足早にリストランテを後にした。
ザーーーーーーーーーーーーーッ!!!
相変わらず、外は視界を遮るほどの豪雨が吹き荒れている。
「……悪魔狩りには、ちょうどいい天気ですわね」
「ええ。……さあ、蹂躙の時間ですわ」
闇夜のローマ。
欲求不満を限界まで溜め込んだ最強の愛の下僕と、魔眼を輝かせる吸血鬼の女王が、凄まじい殺気を纏いながら、豪雨の帳の中へと消えていった――。




