『隣に立つ資格――嵐のローマ、半日の覚醒戦』
【タイムリミットは半日。迫り来る嵐と戦場の朝】
ジリリリリリリリリリリリリッッ!!!
午前四時。
まだ夜の帳が色濃く残る、ローマの五つ星ホテルの最上階スイートルーム。静寂を引き裂くような無情なアラーム音が、容赦なく室内に鳴り響いた。
「……んむぅ」
最高級のシルクのシーツの中で、極東の魔王・恋問持子は微かに柳眉をひそめ、鉛のように重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
(……朝か。フランスの時と同じ、いや、それ以上に殺人的なスケジュールだな……。もっと寝ていたいぞ……)
「ご主人様、お時間です! 起きてくださいっ!」
隣のベッドでは、下僕であり今回共にモデルとして抜擢された本多鮎が、すでに完璧に身支度を整え、緊迫した面持ちでビシッと立っていた。
午前四時半。
スイートルームの広大なリビングは、優雅なホテルの面影など微塵もなく、完全に『戦場』と化していた。
「ボンジョルノ! モチコ、アユ! プレスト(急いで)! とにかく時間がないわ!」
「ベースメイク展開! ヘアアイロンの温度上げて! 衣装の最終チェック急いで!」
バタバタバタッ! シャーッ! カチャカチャカチャッ!
イタリアに到着して早々、持子と鮎には専属の新しいイタリア人スタイリストとマネージャーがつけられていた。フランスでの仕事を抱え、同行できなかったリュクス・アンペリアルの女帝・リジュが手配した、イタリア最高峰のトッププロたちである。
幾人ものスタッフが持子と鮎を取り囲み、目にも留まらぬ速さで髪をセットし、肌に最高級の化粧品を乗せ、ミリ単位で衣装を調整していく。
(エティエンヌとルージュの奴らは、今頃優雅にローマの休日を満喫して爆睡している頃だろうが……わしらには、休む暇など一秒もないらしいな)
持子は、何本ものブラシが顔の上を滑る感覚を味わいながら、静かに黄金の瞳を閉じた。
少し離れた上質な革張りのソファ。
そこでは、鬼のプロデューサー・立花雪が、ブラックコーヒーを入れたマグカップを片手に、静かに、そして鋭く二人を観察していた。その斜め後ろには、雪の陰陽道の弟子である土御門朔夜が静かに控え、師と同じく鋭い観察眼で現場の空気を学ぼうと真剣な眼差しを向けている。
雪と朔夜は、スタッフに指示を出すことはおろか、持子たちに声をかけることすら極力しない。
持子と鮎が、この異国の地で、世界最高峰のスタッフを相手に『モデルとしてどう自分を表現し、どう動くのか』。その自主性を、冷徹なまでの静けさで見極めようとしているのだ。
バンッ!!
突如、スイートルームの扉が乱暴に開かれた。
そこに立っていたのは、イタリアを代表する世界的カメラマン兼監督のロレンツォだった。彼は血走った目で部屋の中を見渡し、イタリア語と英語を交えて叫んだ。
「最悪のニュースだ! 今夜、ローマに観測史上最大級の『嵐』が直撃する! 明日に予定していた撮影は不可能だ!!」
「「「えっ!?」」」
イタリア人スタッフたちが一斉に顔を上げ、息を呑む。
「だが、妥協はしない! リジュのコレクションを中途半端な作品にはできない! だから――今日この一日の日没までに、二日分のスケジュールをすべて撮り切る!! いいな!?」
「マ、マンマ・ミーア……正気ですか!?」
「やるしかないんだ! モチコ、アユ! 息をする暇もないぞ、覚悟しろ!」
雷鳴のようなロレンツォの怒号。
それは、過酷な美のサバイバルの開始を告げる、容赦のない号砲であった。
【言葉なき共鳴。バケモノたちの狂宴】
午前六時。ローマ、トレビの泉。
朝陽が差し込み、白亜のネプトゥーヌス像が神々しく輝く、イタリア屈指のロケーション。
今はまさに一点の曇りもない最高の撮影日和であったが、現場の空気は、タイムリミットに追われる焦燥感でピリピリと刺つくように荒れ狂っていた。
「ライティング急げ! レフ板もっと右だ! 太陽が昇りきる前にこのカットを終わらせるぞ!」
そんな殺伐とした怒号が飛び交う中。
「チャオ、モチコ! 去年ぶりね!」
「また一緒に仕事ができて本当に嬉しいわ! 今日のドレス、最高にクールね!」
持子の周囲だけは、嘘のように華やかな笑い声と、甘い香水に包まれていた。
リジュブランドグループが誇る、世界的なスーパーモデルたち。金髪碧眼のソフィア、褐色の肌を持つエレーナ、氷のような美貌のクロエ。彼女たちとは昨年の撮影で顔を合わせており、持子にとってはすでに『戦友』と呼べる存在であった。
「うむ! 貴様らも相変わらず、最高に良いオーラを纏っているではないか!」
持子は堂々と微笑み返し、彼女たちと熱いチークキスとハグを交わす。チュッ、チュッ。
イタリア語と英語が飛び交うモデルたちに対し、持子は堂々と日本語で返している。言葉は、全くと言っていいほど通じていない。
だが――『カメラの前に立つ』という一点において、彼女たちに言語など不要だった。
「ヘイ! 全員入れ! テストは無しだ、一発本番で行くぞ!」
ロレンツォの叫びと共に、持子と三人のスーパーモデルたちが、トレビの泉の縁に立った。
カシャッ! カシャカシャカシャッ!!
シャッター音が鳴り響いた瞬間。
四人のオーラが、爆発した。
ソフィアが流し目で持子を見る。それは『私はここでこのドレスのドレープを魅せるわ』という視線の合図。
持子はそれをコンマ一秒で察知し、『ならばわしは、貴様の影となってこのヒールを強調しよう』と、腰を深く落とし、挑戦的な笑みを浮かべてソフィアの足元に視線を這わせる。
エレーナが空を仰げば、クロエがそれにシンクロして背中を反らす。
スッ……バシッ!
くるり、ピタッ。
誰一人、言葉を発していない。
ただ、互いの呼吸の音、筋肉の僅かな動き、視線の交差だけで、完璧なフォーメーションが次々と形成されていく。
(ああ……なまら楽しい……っ!)
持子の心の中で、歓喜の炎が燃え上がっていた。
互いが高い美意識と、服に対する極限の理解を持っているからこそ成立する、高度なジェスチャーとフィーリングの応酬。それはまるで、極上の即興ジャズ・セッションだった。
「アハハッ! モチコ、最高よ!」
「フフッ、貴様もな!」
ファインダー越しにその光景を見ていたロレンツォの目が、限界まで見開かれた。
最初は、言葉も通じない極東の魔王に対して「本当にリジュの期待に応えられるのか」と不信感を抱いていた彼だったが。
「……スプレンディド(素晴らしい)! なんてことだ……彼女は天才だ! 完璧だ、モチコ! そのまま、もっと寄って! そうだ!!」
ロレンツォは完全に持子の虜になっていた。
圧倒的な美の才能のぶつかり合い。楽しくもあり、誇らしくもある至高のひと時。
しかし、その輝かしいバケモノたちの輪から数歩離れた場所で。
今回からモデルとして初参加した鮎は、サァァッと血の気が引くのを感じていた。
(……凄い。骨格、オーラ、存在感、そしてあの……阿吽の呼吸)
鮎は知っている。普段のご主人様(持子)は、「肉が食べたい」「歩きたくない」と文句ばかり言って、自分や仲間に世話を焼かせる、ちょっとだらしない魔王だ。
だが、一度表舞台に立てば、世界最高峰のモデルたちと対等に、いや、それ以上に圧倒的な輝きを放ち、場を支配してしまう。
(すべてが、次元が違う……。あそこに、私が……入るの……?)
ゴクリ、と。鮎の喉が、引き攣った音を立てた。
【凡人の絶望と、ご主人様の導き】
「次は……アユ! お前も輪に入れ! カットを変える!」
ロレンツォの怒号が、鮎の肩をビクッと跳ねさせた。
「は、はいっ!」
鮎は、震える足に必死に鞭を打ち、持子たちの立つ大理石の上へと足を踏み入れた。
鮎は、頭が良い。事前に渡された資料も完璧に頭に入っているし、ロレンツォが何を求めているのか、どういう構図で、どんな表情を作ればいいのか、脳内では完璧なシミュレーションができている。
だが――。
(だめだ……っ! 身体が、追いつかない……!)
周囲のスーパーモデルたちが息をするようにやってのける『表現』が、鮎にはできない。
隣に立つソフィアの圧倒的な色気に気圧され、表情が引き攣る。クロエの鋭い視線に合わせようとして、肩に力が入ってしまう。
「ノー! アユ、もっと自然に! お前だけ完全に浮いてるぞ! ドレスのラインが死んでる!」
ロレンツォの容赦ないダメ出しが、トレビの泉に響き渡る。
「す、すみませんっ……!」
(惨めだ……。私だけ、テンポを遅らせてる。完全に足手まといだ……)
ギリッ……と、鮎は強く唇を噛み締めた。
その時だった。
「……わしに任せよ」
スッ、と。持子が、鮎の冷え切った手を、力強く握りしめたのだ。ギュッ。
「ご、ご主人様……?」
「鮎。頭で考えるな。貴様は賢すぎるのだ。……わしを感じろ」
持子はそう言うと、鮎の腰に腕を回し、強引に自分の胸元へと引き寄せた。
「いいか。ソフィア(金髪の女)は今、ドレスのスリットを見せたいのだ。だから貴様は右肩を引け。クロエ(氷の女)は風を感じている。貴様はそれに合わせて顎を少し上げろ」
「あっ……」
持子は、言葉の通じないモデルたちの『意向』や、ロレンツォの求めている『画』の方向性を、その鋭い勘と観察眼で完璧に言語化し、鮎の耳元で囁いたのだ。
普段は鮎が持子の世話をしている。食事の用意も、スケジュールの管理も、すべて鮎がやっている。
だが、この四角いファインダーの世界においては。
(……ああ。やっぱり、ご主人様は、私の『ご主人様』だ)
持子の力強いリードと、的確な指示。
鮎の明晰な頭脳は、持子の言葉を瞬時に理解し、それを身体の動きへと変換していく。
「そう、その角度だ。……ふふ、美しいぞ、鮎」
持子が至近距離で、極上の笑みを浮かべる。
(なんて……なんて綺麗なんだろう)
鮎は、息を呑んだ。
圧倒的な美貌、揺るぎない自信、そして自分を導いてくれる包容力。これほどの存在の隣に、自分は今、立たせてもらっているのだ。
「オォーッ! グッド! アユ、良くなったぞ! その二人の絡み、最高だ!!」
ロレンツォが狂喜の声を上げ、シャッターを切りまくる。
持子の手厚いサポートのおかげで、鮎はどうにか午前中の殺人的なスケジュールを乗り切ることができた。
だが――。
【泥臭き覚悟と、氷の修羅の叱咤】
午前十時半。短い休憩時間。
持子がスーパーモデルたちと「次はあのジェラートの店に行きたいのだ!」「Oh, Gelato? Yeah!」と身振り手振りで盛り上がっているのを遠目に見ながら、鮎は一人、深く項垂れていた。
(ご主人様のサポートがあったから、どうにかなっただけだ。私一人の力じゃない……)
惨めだった。悔しかった。隣に立つ資格がないと、痛感させられた。
耐えきれなくなった鮎は、現場の隅で静かにタブレットを見つめていた立花雪と、その傍らに立つ土御門朔夜の元へと歩み寄った。
「……雪、さん。朔夜さん……」
「何かしら」
雪は、視線を画面から外さないまま、氷のように冷たい声で応じた。朔夜もまた、師の厳格な空気を察し、黙って鮎の悲痛な表情を見つめている。
「私……やっぱり、場違いです。私がいると、ご主人様や、皆さんの足を引っ張るだけです。……このイタリアでの撮影が終わったら、私、モデルの仕事、辞めてもいいですか?」
絞り出すような鮎の言葉。それは、彼女なりの精一杯の責任感であり、これ以上『美しいご主人様の作品』に泥を塗りたくないという、悲痛な逃避だった。
パタン。
雪が、タブレットを閉じた。
そして、冷たく、しかし奥底に激しい炎を秘めた瞳で、鮎を真っ直ぐに見据えた。
「……続けなさい」
「え……?」
「私とリジュが、『あなたが良い』と思って採用したのよ。なら、死に物狂いで期待に応えなさい」
雪の言葉は、一切の同情も甘えも許さない、絶対的な刃だった。
「途中で降りることなんて、絶対に許さない。どれだけ自分が惨めに感じても、才能がないと絶望しても……泥水を啜ってでも前に進みなさい」
「……っ!」
鮎の瞳から、堪えきれずにボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。ポロポロ……。
雪は、ふっと少しだけ表情を和らげ、しかし力強く言い放った。
「……持子のそばに、いたいんでしょ?」
ドクンッ、と。
鮎の心臓が、大きく跳ねた。
視線の先には、黄金の陽光を浴びて笑う、世界で一番美しく、世界で一番愛おしい『主』の姿があった。
いつも我儘で、だらしなくて、それでも誰よりも強くて優しい、唯一無二のご主人様。
(そうだ……。私は、いつだってご主人様の背中を見てきた。あの人の隣に立つためには……)
ただ見とれているだけではダメだ。守られているだけではダメだ。
才能がないなら、足掻くしかない。美しさで劣るなら、知恵と気合いと、泥臭さで喰らいつくしかないのだ。
「……はいっ!!」
鮎は、手の甲で乱暴に涙を拭い、バッと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの怯えも、絶望もなかった。あるのは、己の無力さを噛み砕き、意地でもその隣にしがみついてやろうという、強烈な『覚悟』だけだった。
「行ってきます……!」
ゴォォォォォォォ……ッ。
遠くから、夜の嵐を予感させる重い風が吹き始めた。天候の崩れは、予定よりもさらに早く迫っている。
嵐の中へと再び走り出す鮎の背中を、朔夜は少しだけ目元を緩めて見送っていた。師匠である雪の厳しい言葉の裏にある、不器用な『期待』に気づいていたからだ。
カメラの待つ戦場へと向かう鮎の背中は、小さくも、逞しく、揺るぎないものに変わっていた。
【泥臭き覚醒と、迫り来る黒雲】
ゴロゴロ……ッ!
午前十一時。ローマの空に、不吉な雷鳴が響き渡った。
抜けるような青空だったトレビの泉の上空に、急速に分厚い黒雲が押し寄せてくる。予報よりも遥かに早い嵐の接近に、現場の空気はかつてないほど張り詰めていた。
「クソッ! 天気が保たないぞ! 照明班、光量を上げろ! 次がラストカットだ、全員入れ!!」
監督のロレンツォが、血走った目で怒号を飛ばす。
カメラの前に立つのは、持子を中心としたスーパーモデルたち。
そして、その端に――先ほどまで絶望に打ちひしがれていた、鮎の姿があった。
(……怖い。手が震える。皆のオーラに、押し潰されそうになる)
鮎は、大きく息を吸い込んだ。
周囲にいるのは、生まれ持った骨格も、才能も、経験も、すべてが自分とは次元の違う『美のバケモノ』たちだ。彼女たちと同じように振る舞おうとすればするほど、自分の薄っぺらさが浮き彫りになる。
先ほどまでの鮎は、その事実に絶望し、逃げ出そうとしていた。
だが、今は違う。
(私は、スーパーモデルじゃない。……なら、私にしかできない『表現』で、あそこに立つ!)
鮎の脳裏に、雪の冷たくも熱い言葉が蘇る。
――『持子のそばに、いたいんでしょ?』
(そうだ。私がここにいる理由は、ただ一つ。あのお方の、隣に立つためだ……!)
鮎は、ギュッと拳を握り締め、己の立ち位置へと歩みを進めた。
「ヘイ、アユ! お前は一番右だ! モチコの隣に立て!」
ロレンツォの指示が飛ぶ。
鮎は持子の隣に並び立ち、ふぅ……と、長く細い息を吐き出した。
そして、肩の力を完全に抜き、真っ直ぐに持子を見つめた。
自分を大きく見せようとする虚勢は、もうない。彼女が纏ったのは、圧倒的な光(持子)に寄り添う、深く、静かで、揺るぎない『影』としての存在感だった。
【隣に立つ資格(ただ一つの表現)】
バサバサバサッ!!
突風が吹き荒れ、持子やモデルたちの豪奢なドレスが激しく翻る。
「……ほう」
不意に、持子が隣の鮎を見て、黄金の瞳をスッと細めた。
言葉を交わさずとも、持子には分かった。鮎の纏う空気が、先ほどまでの怯えた小鳥のようなものから、静かに研ぎ澄まされた刃のように変わっていたことに。
「……遅くなりました、ご主人様」
風の音に掻き消されそうなほどの小さな声で、鮎が呟く。
「フッ。……待っていたぞ、鮎」
持子は、不敵な魔王の笑みを浮かべ、鮎の方へと少しだけ身を傾けた。
カシャッ!
ロレンツォのカメラが、その瞬間を捉えた。
「……!?」
ファインダーを覗いていたロレンツォが、息を呑む。
先ほどまで完全に浮いていた鮎の姿が、今は見事に一枚の絵の中に溶け込んでいるのだ。
スーパーモデルたちが己の『個』を強烈に主張する中で、鮎だけが、ただひたすらに持子という圧倒的な存在を『引き立てる』ことに全神経を注いでいた。
それは、誰に教えられたわけでもない。狂信的とも言えるほどの、彼女自身の『持子への忠誠心』が産み出した、彼女だけの表現方法だった。
「おお……ブラビッシモ(最高だ)……!」
ロレンツォの指が、狂ったようにシャッターを切り始める。
カシャカシャカシャカシャッ!!!
圧倒的な覇気を放つ極東の魔王と、その光に寄り添い、決して離れまいと泥臭く喰らいつく一人の従者。そして、周囲を固める美しき群像。
「アユ! いいぞ、その表情だ! モチコ、もっと煽れ! 嵐を呼ぶ女神になれ!!」
ロレンツォの興奮は最高潮に達していた。
スタッフたちも、雷鳴が轟く異常な天候すら忘れ、ファインダーの向こう側で繰り広げられる『奇跡のセッション』に釘付けになっていた。
(届く……! 私でも、這い上がれば、ご主人様の隣に……っ!)
鮎の胸の奥で、熱いものが込み上げる。
冷たい突風が吹き付けようとも、もう彼女の足は微塵も震えていなかった。
【奇跡の終幕】
ピカァァァァッ!!
ゴロゴロドッカーーーンッ!!!
巨大な稲妻がローマの空を引き裂き、泉の水面を白く照らし出した。
「ラストォ!! モチコ、アユ、全員、そこで止まれ!!」
ロレンツォの絶叫と共に。
カシャァァァァァァァァンッ!!!
すべてを切り取る、会心の一撃が切られた。
その直後である。
【フレーム外の傑作】
ザーーーーーーーーーーーーーッ!!!
空の底が抜けたかのような凄まじい豪雨が、トレビの泉に容赦なく降り注ぐ。
撮影終了の合図と共に、現場は一瞬にして撤収作業の戦場へと逆戻りした。
「「「「キャアァァァッ! 降ってきたわ!」」」」
スーパーモデルたちが悲鳴を上げながら、一斉にスタッフが広げたテントの下へと逃げ込んでいく。
しかし、持子と鮎の二人だけは、土砂降りの雨に打たれながらも、その場から動けずにいた。
「ご、主人様……私、ちゃんと……」
雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、鮎が持子を見上げる。
惨めさも、プレッシャーも、すべてを乗り越えて『隣に立つ資格』を勝ち取った歓喜。限界まで張り詰めていた糸がプツリと切れ、鮎は持子の胸に顔を埋め、子どものように大声で泣き崩れた。わぁぁぁんっ!
「うむ。……よくやった、鮎。貴様はやはり、わしの最高の従者だ」
持子はずぶ濡れになりながらも、慈愛に満ちた魔王の微笑みを浮かべ、その小さな背中を力強く抱きしめた。ギュッ。
その、あまりにも美しく、無防備で、感情剥き出しの光景。
カシャッ。
豪雨の音に紛れ、ひっそりとシャッターが切られた。
ファインダーから目を離した世界的巨匠、ロレンツォである。
(……オー、マンマ・ミーア。広告(仕事)には絶対に使えないが……とんでもなく美しく、愛に溢れた一枚だ)
ロレンツォは、デジタルカメラのモニターに映る『泣き崩れる従者と、それを受け止める魔王』の姿を見て、震える息を吐き出した。
【巨匠への評価(上から目線)】
バサッ。
不意に、持子と鮎の頭上から降り注いでいた冷たい雨が遮られた。
「……ん?」
持子が顔を上げると、そこには大きな黒い傘を差し出すロレンツォの姿があった。
「オー、ファンタスティコ! ユー・ガールズ・アー・アメイジング! ブラビッシメ!(お前たち、最高に素晴らしかったぞ!)」
ロレンツォは、身振り手振りを交えた情熱的な英語(とイタリア語のミックス)で、興奮気味に二人を褒め称えた。
「ザッツ・ビューティフル・パッション! ユー・アー・ザ・ベスト・デュオ! グラッツェ!(美しき情熱だ! 君たちは最高のコンビだよ、ありがとう!)」
「……うむ?」
持子は黄金の瞳をパチパチと瞬かせた。
悲しいかな、極東の魔王である持子には、英語もイタリア語もさっぱり分からない。だが、ロレンツォのキラキラとした瞳と満面の笑みから、めちゃくちゃに褒めちぎられていることだけは野生の勘で察知した。
「鮎、泣いているところすまぬが、こやつ何と言っているのだ? わしらを褒めているのだろう?」
「ひぐっ……は、はいっ。ご主人様と私、最高のコンビで素晴らしかったって……ズズッ」
鮎が鼻をすすりながら、英語の堪能な頭脳をフル回転させて翻訳する。
「ふはは! 当然だ! わしと貴様が並べば、世界一に決まっておろう!」
持子は完璧なドヤ顔で胸を張り、ふとロレンツォを見据えて、鷹揚にコクッと頷いた。
「鮎、この男に伝えてやれ。『お前もいい監督だ。お前の美意識(美的センス)、わしは好きだぞ!』とな!」
「…………へ?」
鮎の涙が、一瞬で引っ込んだ。ピタッ。
(ひぃぃぃぃぃっ!? せ、世界的な巨匠ロレンツォ監督に向かって、何て恐ろしい上から目線!?)
鮎はパニックに陥った。アワアワ。
もしここに雪がいれば、持ち前の『超絶意訳』で、角が立たない美しい社交辞令に変換してくれただろう。だが、あいにく雪は遠くのテントの下から、弟子の朔夜と共に静かに見守っているだけだ。朔夜が「お師匠様、さすがに止めに入らなくてよろしいのですか……!?」とハラハラしているのが遠目に見えたが、雪はただ薄く微笑んでいるだけだった。
「は、早く訳さんか」
持子に急かされ、鮎は冷や汗をダラダラ流しながら、意を決して口を開いた。
「ア、アワー・マスター・セイズ……ユー・アー・ア・グッド・ディレクター、トゥー。シ、シィ・ライクス・ユア・センス・オブ・ビューティ……!」
(直訳! ほぼ直訳しかできないぃぃ! ごめんなさい監督ぅぅっ!)
鮎の非礼ギリギリの拙い翻訳を聞いた瞬間。
「……オゥ?」
ロレンツォは、目を丸くしてパチパチと瞬きをした。
巨匠と呼ばれ、業界の誰もが平身低頭で媚びへつらうこの自分に向かって、ついさっき出会ったばかりの東洋の新人モデルが「お前もいい監督だ」「センスを気に入った」と、信じられないほど偉そうに評価を下してきたのだ。
数秒の沈黙。
鮎が(終わった……殺される……!)と絶望で目を閉じた、次の瞬間。
「――ワーッハッハッハッハ!!」
豪雨の音を掻き消すほどの、ロレンツォの豪快な笑い声がトレビの泉に響き渡った。
「オー、マンマ・ミーア! ア・グッド・ディレクター! ミーが褒められちゃったヨ! ハハハッ、グラッツェ、モチコ! グラッツェ!!」
ロレンツォは腹を抱えて笑い、持子の肩をバシバシと叩いて大喜びし始めた。
「うむ! 精進せいよ、ロレンツォ!」
持子も全く悪びれることなく、ロレンツォの肩をバシバシと叩き返す。
(……やれやれ)
笑い合いながら、ロレンツォは内心で舌を巻いていた。
今回は、リュクス・アンペリアルの女帝・リジュからの強い依頼だったため、渋々スケジュールを空けて受けた仕事だった。東洋の素人の小娘など、適当に撮って終わらせるつもりだったのだ。
だが、蓋を開けてみればどうだ。
圧倒的な存在感、神がかった勘の良さ、そして、巨匠である自分を一切恐れない、この図太すぎる『魔王の覇気』。
(とんだダイヤの原石がいたものだ……)
ロレンツォは、持子と鮎に傘を押し付け、雨の中をテントへと歩き出しながら、ニヤリと不敵に笑った。
(……次は間違いなく、私の方から『どうか君を撮らせてくれ』と、這いつくばって懇願することになるだろうな)
イタリアの空を覆う厚い雨雲の下で、新たな伝説の種が、確かに力強く芽吹いた瞬間であった。




