「再会の夜、そして見捨てられた者」
7
午後十一時。
ヨーロッパの権力者たちが集うレセプションパーティーが、ようやく、本当にようやく終わりを告げた。
「……ゆ、雪」
VIPたちを見送り、ホテルのプレジデンシャル・スイートに戻ってきた持子は、すっかり魂が抜けた顔で、恐る恐るプロデューサーの立花雪の袖を引いた。
「今日の仕事は……これでもう、終わりだな……?」
黄金の瞳をすがるようにウルウルとさせる魔王。
その横で、雪は、リュクスの女帝エレーヌ・リジュ、そして陰陽師の土御門朔夜と、明日のスケジュールの最終確認(という名の密談)を終えたところだった。
「ええ. よく頑張ったわね、持子」
雪が、パタンと手元のバインダーを閉じ、これ以上ないほど優しい、慈母のような微笑みを浮かべた。
「今日のお仕事は、これでおしまい。……ここからは自由時間よ。さあ、お待ちかねの食事にしましょうか」
「おおおおおっ!!」
持子の背中に、目に見えない天使の羽が生えた。
スイートルームの巨大なダイニングテーブルには、すでにリジュが手配した極上のフルコースが並べられていた。
温かいコンソメスープに、キャビアの冷製パスタ、そしてメインディッシュのA5ランク相当の極厚フィレステーキ。
「ふははは! 待っておったぞ! ついに、ついに飯の時間だ!」
持子は歓喜の声を上げ、ナイフとフォークを構えた。
いつもの彼女なら、これらの料理をまるでダイソンの掃除機のように、わずか数分で胃袋へと吸い込んでいるはずだった。
「はむっ……もぐ、もぐ、もぐ……」
だが。
「……持子様、食べるスピードが、いつもの十分の一ですわね」
吸血鬼の元女王ルージュが、紅茶を傾けながらクスリと笑う。
限界を超えた疲労のせいで、持子はテーブルに肘をつき、自身のドレスの袖を口元に寄せたまま(袖口を汚しそうになりながらも)、まるでうたた寝をする小動物のように、ゆったりとしたペースで肉を咀嚼していた。
「もぐもぐ……んふふ、美味い……パリの肉、なまら美味いぞ……」
目は半分閉じかかっているが、その表情はこれ以上ないほど満たされ、幸せそうに緩み切っている。
「ふふっ。持子様、お口の端にソースがついておりますよ。私が舐めとって差し上げます!」
「こら、エティエンヌ! セクハラ禁止! 私が拭きますから!」
鼻息を荒くする真祖の吸血鬼エティエンヌを、マネージャーである第一下僕の鮎がペシッと叩いて制止し、持子の口元を優しくナプキンで拭う。
「……ほら持子、スープも飲めよ。冷めるぞ」
その横では、朔夜が呆れたようにため息を吐きながらも、持子の手の届きやすい位置にそっとスープ皿を移動させていた。
「うむ……朔夜、気が利くではないか……もぐもぐ」
持子を中心とした、温かく、ゆったりとした時間が流れる。
鮎、ルージュ、リジュ、エティエンヌ、朔夜、そして雪。それぞれがグラスを傾け、今日の撮影の裏話や、パリの美しい街並みの話を、皆で楽しげに語り合っている。
持子は半分夢の中に片足を突っ込みながらも、仲間たちのその賑やかな話し声を、心地よいBGMとして聴きながら、至福の晩餐を味わっていた。
やがて。
コクリ、コクリ……。
持子の首が完全に船を漕ぎ始め、フォークを握ったまま、今にもテーブルに顔を突っ込みそうになった。
「ふふっ。限界ね」
雪が、優しく持子の頭を撫でて、皆に向かって宣言した。
「そろそろ、今日はお開きにしましょうか。明日は完全なオフのお休みだから、ゆっくり寝て、明日はパリの街を思い切り楽しみなさい」
「はい、雪さん!」
「ええ、極上の夜を」
鮎とルージュが頷く。
その時だった。
ガチャリ。
スイートルームの扉が、静かに開いた。
「――遅くなりました。フランス北部戦線、残党の掃討作戦、完了して戻りました」
凜とした冷たい声と共に部屋に入ってきたのは、漆黒の長髪を揺らす美少女、風間楓。
その後ろには、スーツを完璧に着こなしたエリート、霞涼介。
そして、少し疲れた顔をしながらもホッとした表情を浮かべる、葉室鶴子。
彼岸花の元メンバーであり、現在は持子のために戦う極東の化け物たち(ヨーロッパ平定組)が、任務を終えて帰還したのだ。
「え……?」
眠気で半分閉じていた持子の黄金の瞳が、カッ! と見開かれた。
ガタッ!!
持子は椅子を蹴立てて立ち上がり、三人の元へと猛ダッシュした。
「お前らぁぁぁぁっ!!」
「わっ!?」
持子は、先頭にいた楓、霞、鶴子の三人をまとめて、思い切り強く抱きしめた。
「よく生きておったな! 無事で何よりだ! わしは、わしはお前たちが心配で心配で……っ」
前世では部下を平気で見捨てた暴君が、今や仲間の帰還に本気で涙を浮かべて喜んでいる。
「……当たり前です。」
抱きつかれた楓は、普段の氷のような表情を少しだけ崩し、満更でもなさそうにフッと微笑んだ。
「持子ちゃん……っ! 会いたかったよーっ! パリの地下、本当に大変だったんだからーっ!」
鶴子が、持子の胸に顔を埋めてわんわんと泣きつく。
「よしよし、鶴子! 怖かったな! もう大丈夫だ、わしがついておるぞ!」
そして持子は、体を離すと、今度は霞の前に立ち、その両肩をガシッと掴んだ。
ペタペタ、ムギュッ。
「おっ?」
「な、何をなさっているのですか、持子様」
「いや、お前、以前よりもずいぶんと骨格が太く、逞しくなったではないか! 顔つきも、ただの青白きエリートから、修羅場を潜った本物の『戦士』の顔になっておるぞ!」
「っ……!」
持子の真っ直ぐな賞賛と、遠慮のないボディタッチに、常に冷静な霞の頬がカァッと赤く染まる。
「……当然です。すべては、持子様の隣に立つにふさわしい、完璧な力を手に入れるため。実戦を経験し、私はさらに成長しました」
「ふははは! 頼もしいぞ霞!」
持子が霞の胸をバンバンと叩いて大笑いする。
(……おい。どさくさに紛れて、俺の持子に何ベタベタ触らせてんだ、あのメガネ)
後ろの方で、朔夜が般若のような顔をしてギリギリと奥歯を噛み締めていたが、感動の再会シーンの真っ最中なので誰も気にしていない。
「で、お前たち! 明日は休みか!?」
持子が期待に満ちた目で尋ねる。
「ええ。明日の夜に次の目的地へ移動する手はずですので、それまでは自由時間です」
と霞が眼鏡を押し上げて答えた。
「そうか! では、明日はみんなでパリの街で思い切り遊ぼうではないか! 服も美味い飯も、全部リジュの奢りだぞ!」
「持子様、私のクレジットカードの限度額は無制限ですので、お好きなだけどうぞ」
とリジュが優雅に微笑む。
「よし、決まりだ! 最高の休日になるぞ! ……ん?」
持子は、そこではたと気づいて、周囲をキョロキョロと見回した。
「おい、楓。……美羽はどうしたのだ?」
持子の大切な下僕であり、天使のような顔をした最凶の暗殺者、花園美羽。
ヨーロッパの戦場に一緒に赴いていたはずの彼女の姿が、どこにも見当たらない。
「…………」
持子の問いに。
楓、霞、そして鶴子の三人は、なぜか一斉に気まずそうにスッと視線を逸らし、重い沈黙が落ちた。
「え……?」
持子の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「お, おい……なぜ誰も答えないのだ. ま、まさか……」
持子の脳裏に、最悪の想像がよぎる。
「美羽のやつ、敵の罠にハマって大怪我でもしたのか……!? いや、まさか……戦場で命を……!?」
持子の黄金の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちそうになる。
「う、うそだろ……あんなに小さくて可愛いわしの下僕が……死んでしまったというのか……っ! 美羽ぁぁぁぁっ!!」
悲痛な叫びを上げる魔王。
――その時である。
ズルッ……。
スイートルームの扉の陰から、不気味な音がした。
「……も、ちこ……さまぁ…………」
「ひぃっ!?」
持子がビクッと身をすくませる。
そこに現れたのは。
かつての天使のような面影はどこへやら、頬が完全にこけ、眼窩が落ちくぼみ、まるでミイラかゾンビのように『ガリガリに痩せ細った』花園美羽の姿だった。
「み、美羽っ!? お前、美羽なのか!?」
持子は慌てて駆け寄り、その骨と皮だけになりかけた美羽の体を抱きしめた。
「どうしたのだこの姿は! 激戦の末に、敵の呪いでも受けたのか! 楓! お前がついていながら、なぜこんなことに……っ!」
持子が、涙目で楓をキツく睨みつける。
最強の神の娘である楓が一緒にいながら、なぜ美羽がこんなミイラのような状態になっているのか。
楓は、漆黒の髪をかき上げ、心底呆れ果てたような、深ぁぁぁい、長ぁぁぁい、特大のため息を「はぁぁぁぁぁぁっ……」と吐き出した。
「……持子先輩。私は、いかなる敵からも彼女を護る自信はあります」
「ならばなぜだ!」
「いくら私でも――」
楓は、冷ややかな視線を美羽へと突き刺した。
「彼女が、地下の床に落ちていた得体の知れないキノコなど、本能のままに『拾い食い』して、自ら猛烈な食中毒と腹下しを引き起こすことまでは……面倒見切れません」
シンッ……。
部屋の空気が、完全に凍りついた。
「…………は?」
持子の口から、間抜けな声が漏れる。
「……も, 持子さまぁ……地下でちょっとお腹が空いて、そのキノコなかなかいける味でしたよぉ……でも、お腹が、お腹がずっとギュルギュルいっててぇ……」
美羽が、死にそうな顔で持子の腕の中で虚空を見つめながら呟く。
暗殺者としての本能か、ただの異常な食い意地か。
激戦のヨーロッパ戦線において、美羽は敵の攻撃ではなく、完全に『己の拾い食いによる深刻な食中毒』によって、自滅してミイラ化していたのである。
「…………」
持子は、腕の中で「きゅるるるるっ」と腹の音を鳴らしている美羽の顔を、じっと見つめた。
そして。
スッ、と。
持子は、抱きしめていた美羽の体を、そっと絨毯の上に戻した。
そして、何事もなかったかのように、完全に視線を逸らし、スッ……と立ち上がった。
「よし! 疲れた! わしはもう寝るぞ!」
「えっ」
持子は、倒れている美羽を完全に無視して、スタスタと自分のベッドルームへと歩き出した。
「明日! フロントに朝十時集合だ! 以上、解散!」
バタンッ!
無慈悲な扉の閉まる音が、スイートルームに響き渡った。
「あああぁぁぁっ! 待ってぇぇぇっ! 持子さまぁぁぁっ! 私を見捨てないでぇぇぇっ! お腹痛いぃぃぃぃっ!」
パリの夜景が美しく輝く最高級のスイートルーム。
床に転がって泣き叫ぶアホな暗殺者と、それを冷ややかな目で見下ろす化け物たち。
極東の魔王の優雅で過酷な長い一日は、こうして身内(下僕)への無慈悲な塩対応と、ドタバタの騒がしさの中で、ようやく幕を下ろすのであった。




