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「セーヌに咲いた二つの光」

【払暁の魔王と、プロフェッショナルの覚醒】


午前四時。

まだ太陽すら顔を出していない、漆黒に包まれたパリの空の下。

リュクス・アンペリアルの最高級ホテルのスイートルームに、鼓膜を突き破らんばかりの絶叫が響き渡った。


「嫌だぁぁぁぁぁぁぁっ!! 絶対に起きんぞ! わしはまだ寝るのだぁぁぁっ!!」


バタバタバタバタッ!!

最高級のシルクのシーツを全身に巻きつけ、極東の魔王・恋問持子がベッドの上で巨大な芋虫のようにのたうち回っていた。


「持子様! ダメです、起きてください! 今日のスケジュール、分単位で詰まってるんですから!」


第一下僕にして、本日は持子の専属マネージャーを務める本多鮎が、必死にシーツを引っ張る。


「うるさいっ! なんだその地獄のスケジュールは! 午後から衣装を百二十着着替える!? 夕方から世界のメディア相手に独占インタビュー三本!? 夜はレセプションパーティー!? バカか! 死ぬわ! わしを過労死させる気かリジュのやつーーっ!」


ジタバタと暴れる持子。

前世の暴君の魂が、現代の『超絶ブラック労働』に対して全力でストライキを起こしていた。

しかし、鮎も負けてはいない。「ほらっ、冷たいお水で顔を洗って!」と強引に持子を引きずり起こし、ドタバタと洗面所へ押し込む。


そして――午前四時半。

プロのメイクアップアーティストとスタイリストたちが待機するメイクルームの椅子に、ふくれっ面の持子がドスッと座らされた。


「……ふすーっ、ふすーっ!」


まだ不満げに鼻息を荒くしている持子だったが。

スッ……。

メイクブラシが、彼女の白磁のような頬に触れた、その瞬間。


ピリッ。


部屋の空気が、一変した。

傲岸不遜でワガママな魔王のオーラがスッと消え去り、その眼差しに、絶対的な『美』を体現するトップモデルとしての氷のようなプロ意識が宿る。


(……やるからには、世界一の美しさを見せつけてやるまでよ)


姿勢が伸び、顎の角度がミリ単位で調整される。

ただ座っているだけなのに、周囲のスタッフたちが息を呑むほどの圧倒的な存在感。

文句を喚き散らしていた四時までの姿は幻だったかのように、持子は一切の妥協なく、プロフェッショナルとして完璧に仕事をこなし始めたのである。



【黒幕たちの反省と、リスのような吸血鬼】


午前六時。

朝靄が薄っすらと掛かる、セーヌ川沿いの石畳。

第一弾のロケ撮影が開始された。


カシャァァァァッ! カシャカシャカシャッ!!

「Très bien(素晴らしい)! 目線を少しセーヌ川へ! そう、完璧だ!」


一流のカメラマンが、興奮したようにシャッターを切り続ける。

朝陽の柔らかな光を背に受け、極限までタイトなオートクチュールのドレスを身に纏った持子は、まさに川面から舞い降りた女神そのものであった。

風に揺れる髪、憂いを帯びた黄金の瞳。その神がかり的なプロポーションが描き出す曲線美は、パリの歴史的な風景すらも完全に支配していた。


そんな撮影風景を、少し離れた場所に並べられたディレクターズチェアから、静かに見守る二人の女性の姿があった。

スノーの社長・立花雪と、リュクスの女帝エレーヌ・リジュである。


「……ねえ、リジュ。私たち、今回は随分とおとなしいわね」


雪が、手元のホットコーヒーを飲みながらぽつりとこぼす。


「ええ、雪。現場の優秀なプロたちを信じて見守るのが、上に立つ者の務めですから」


リジュもまた、腕を組んで静かに頷いた。

二人は、決して持子に直接指示を出すことはしない。


(……去年の夏の、フランスでのCM撮影では、二人は、はしゃぎすぎてしまったからね……)

(……今思い返すと、恥ずかしさで顔から火が出そうです。私たちとしたことが、持子様の美しさに我を忘れて……)


二人の冷徹な支配者は、昨年の自分たちの『限界オタクぶり』を脳内で反省し、今回は「ただ静かに見守る大人のプロデューサー」に徹していたのだ。

だが、そんな厳かな現場の空気を、全く読まない者が約一名。


「モグモグモグ……コッ、コリッ……ンクッ」


吸血鬼の元女王・ルージュである。

彼女は優雅なティーカップを片手に、高級パティスリーの箱から色とりどりのマカロンを取り出し、まるで小動物のリスのような猛スピードで口に放り込んでは、紅茶で流し込んでいた。


「おい、ルージュ……」

「ん? なんですの、持子様」


撮影のわずかなインターバル。極限までタイトなドレスを着ているため、ストローで水を一口すすることしか許されていない持子が、ルージュを般若のような顔で睨みつけていた。


「わしが水しか飲めずに空腹で耐えている前で……なぜ貴様は、そんなに美味そうにマカロンを食っておるのだ……!」

「あら。わたくしはただの見学者ですもの。……モグッ。このピスタチオのマカロン、絶品ですわよ?」

「きっ、貴様ぁ……!」


撮影が再開され、再び女神の微笑みを作る持子だったが、カメラの死角に入った瞬間――。


ゴッ!!

「あいたっ!?」


すれ違いざまに、持子の容赦のない拳がルージュの金髪の頭にクリーンヒットした。

「後で全部吐き出させてやるからな……!」と捨て台詞を吐いて撮影に戻る持子。

「理不尽ですわーっ!」と頭を抱えるルージュに、鮎が「もー、ルージュが煽るからだよ」と苦笑いしながらお茶を差し出していた。



【下僕たちの狂信と、主への願い】


「おお……なんと、なんと神々しい……!」


そこへ、リュクスの仕事の合間を縫って、金髪の絶世の美女(中身は真祖の吸血鬼)エティエンヌが駆けつけてきた。

エティエンヌ、鮎、転じてルージュ。三人は並んで、朝陽の中でポーズを決める持子を見つめていた。


「カシャッ」というシャッター音と共に、持子がふと振り返り、冷たくも妖艶な流し目を送る。


「「「…………っ」」」


そのあまりの美しさに、談笑していた三人すらも、一瞬完全に声を失った。

息をすることすら忘れるほどの、暴力的なまでの『美』。


「ああぁっ……! 持子様! 素晴らしいです、太陽の神すらも嫉妬する美しさですぅぅっ!」

「さすが我がご主人様! どんな名画よりも尊いですっ! フィルム全部買い取りたいっ!」


エティエンヌと鮎の『下僕コンビ』は、両手を組み合わせて涙を流さんばかりに持子を讃え、熱烈な信者のように祈りを捧げている。


だが、ルージュだけは少し違った。

ルージュの「マスター」は、あくまで隣にいる本多鮎である。


「……ええ。確かに持子様は息を呑むほど綺麗ですけれどね」


ルージュは、熱狂する鮎の横顔をじっと見つめた。

ピンク色の髪を揺らし、持子のためにマネージャーとして走り回っている鮎だが、彼女自身も日本では名の知れた『元トップモデル』である。

身長こそ持子には及ばないものの、その骨格の美しさ、表情の作り方、そして何より、モデルとしてカメラの前に立った時の可憐な存在感は、決して持子に劣るものではない。


「マスター鮎」


ルージュは、そっと鮎の袖を引いた。


「あなたが持子様の横に立っても、絶対におかしくないはずですわ。わたくしは、あなたのモデルとしての輝きも見たいですのよ」

「えっ?」


鮎はパチクリと瞬きをして、それから「あははっ!」と照れくさそうに笑った。


「無理だよー! 私、身長足りないし! それにね……」


鮎はポンポンッ、と自分のシャツのお腹のあたりを叩いた。


「朝四時に起きてお腹空いちゃって、さっきケータリングのクロワッサン三つも食べちゃったの! ほら、お腹ぽっこり出ちゃってるよ!」


えへへ、と笑う鮎。

ルージュは呆れつつも、鮎のその少しだけふくらんだお腹を優しく撫でた。


「……大丈夫ですわ。そんな鮎も、最高に可愛らしいですもの」

「ありがとう、ルージュ。でも、私は今日、裏方として持子様を全力で輝かせるのが仕事だからね!」



【男前な真祖と、不器用な夫婦の愛】


そのやり取りを、隣で静かに聞いていたエティエンヌが、スッと黒服のスタッフに目配せをした。


「……鮎君」

「はい? どうしました、エティエンヌさん」


数分後。

一台の黒いロケバスが、三人の目の前に静かに横付けされた。

エティエンヌがそのスライドドアを開けると――そこには、見事なハイブランドのドレスが、ズラリとハンガーラックに掛けられていた。


「えっ……これって」

「リュクス・アンペリアルの、未発表の新作コレクションだ。鮎君のサイズに合わせたものを手配させた」


エティエンヌは、女体化した絶世の美女の顔のまま、まるで宝塚の男役のような、どこまでも男前でスマートな微笑みを浮かべた。


「仕事として君を急遽起用するのは無理があるかもしれない。だが……持子様の『休憩時間』に、一緒に並んでカメラマンにシャッターを切らせる分には良いだろう? 鮎君、君は大変美しい。さあ、好きなドレスを選びなさい」

「エティエンヌ……!」


鮎の瞳が、感動でキラキラと輝く。


「ほら、行きなさいな、鮎!」


ルージュが鮎の背中をポンと押すと、鮎は「うんっ!」と頷き、目を輝かせてロケバスの中のドレスの吟味に入っていった。

その鮎の背中を見送りながら、ルージュは隣のエティエンヌにジト目を向けた。


「……どうして、鮎にここまでするんですの? 随分と気が利くじゃない」

「なに、簡単なことだ」


エティエンヌは、朝陽を見つめながら静かに答えた。


「鮎君は第一下僕であり、持子様が深く愛するお方だ。……持子様の愛する者を、私も愛するのは当然のこと。愛する者には、笑顔で、幸せになってほしいと願うのは……決しておかしいことではないだろう?」


あまりにも真っ直ぐで、器の大きな愛情。

持子への狂信が、巡り巡って鮎への慈愛へと繋がっているのだ。


「へぇ……」


ルージュは、腕を組み、鼻で笑うようにエティエンヌを見上げた。


「じゃあ、わたくしのことは、そんなに愛していなかったのね?」

「……っ」

「わたくしたち、かつては『妻』と『夫』だったのに。わたくしを三百年間もパリの地下に放置しておいて、よくそんな男前なセリフが吐けるものですわ」


チクリと刺された三百年前の怨念。

エティエンヌは、タラリと冷や汗を流し、情けないほど困った顔になった。


「あ、あの時は……私は権力と血の渇きに狂っていて、本当に何も分かっていなかったのだ……! 今更だが、本当にすまない。許してくれ、ルージュ……」

「ふん。……じゃあ、今は?」


ルージュが、上目遣いで真紅の瞳を向ける。

エティエンヌが真面目な顔で「今は、持子様の次に――」と口を開きかけた、その瞬間だった。


ギュッ!

「……っ!?」


ルージュは、両手でエティエンヌの美しい頬を、力強く、しかしどこか愛おしむように包み込んだ。


「いい加減、一番と言いなさい。ここではボケなくて良いんですのよ」


プクッと頬を膨らませ、怒ったような口調。

だが、至近距離で見つめてくる彼女の真紅の瞳は、これ以上ないほど優しく、悪戯っぽく笑っていた。


「ルージュ……」


三度目の「二番目」という野暮なオチを封じられ、頬を包まれたエティエンヌは、降参したようにふっと息を吐き――彼(彼女)もまた、目を細めて小さく笑い声を漏らした。

三百年の愛憎を乗り越えた、不器用な元夫婦の、穏やかな時間が流れていた。



【セーヌ川の奇跡と、プロデューサーの決断】


「持子様ーっ!」


午前九時。

持子が第一部の撮影を終え、カメラマンの合図で「休憩!」の声が掛かった直後。


「おお? なんじゃ鮎、その格好は!」


持子は目を丸くした。

ロケバスから飛び出してきた鮎は、リュクスの新作である淡いブルーの可憐なドレスに身を包み、完璧なヘアメイクを施されて、かつての『トップモデル』としての輝きを完全に取り戻していた。少しぽっこり出たお腹は、ドレスの絶妙なフリルが見事に隠している。


「えへへ、ルージュとエティエンヌさんが用意してくれたんです! 持子様、休憩中だけでいいので、私と一緒に写真を撮ってくれませんか?」

「ふはは! なんだそういうことか! もちろん良いぞ! さあ、隣に来い!」


持子が手招きし、鮎がその隣に並び立つ。

圧倒的で暴力的な美しさを持つ持子と、可憐で親しみやすい美しさを持つ鮎。

二人が並んだ瞬間、その完璧なコントラストとシチュエーションに、休憩に入ろうとしていたカメラマンのプロ魂に火がついた。


「……Oh, mon Dieu(おお、神よ)! なんて素晴らしいバランスだ! おい、レンズを戻せ! 撮影続行だ!!」


カシャァァァァッ! カシャカシャカシャカシャッ!!


「ふははは! 良いぞ鮎、もっとわしに寄れ!」

「あぁんっ、持子様ぁっ、近いですぅ♡」

「こら、顔を赤くするな! モデルの顔を作れ!」


持子のリードに引っ張られるように、鮎もまた現役時代以上の完璧なポージングを披露していく。

セーヌ川のほとりで、二人の少女が織りなす奇跡のような撮影会。

その熱狂のカメラマンの背後で、エティエンヌがスッと撮影スタッフの責任者に近づき、周囲の目を盗んで分厚いユーロの札束(スタッフ全員分の特大残業代)を、スマートに懐へねじ込んでいた。


     * * *


「……雪」

「ええ、リジュ」


ディレクターズチェアから立ち上がり、二人のプロデューサーは撮影用モニターに次々と映し出されるデジタルの写真データを覗き込んだ。


「……あら」

「これは……少し、驚きましたね」


雪とリジュの目が、微かに見開かれる。

モニターの中の持子と鮎は、光と影、絶対的な美と可憐な親しみやすさが完璧に調和しており、即座にファッション誌の表紙を飾れるほどの凄まじいクオリティに仕上がっていた。


二人は顔を見合わせ、同時に口角を上げた。


「「――いいんじゃない?」」


完璧主義の二人の支配者が、鮎のモデルとしてのポテンシャルを完全に認めた瞬間であった。

このお遊びの撮影が大成功を収めたことで、午後からのスタジオ撮影では、急遽鮎も正式にリュクスのモデルとして何枚かのカットに起用されることとなる。


極東の魔王と、その愉快な下僕たちのパリでの過酷なスケジュールは、こうして賑やかに、そして華やかに、最高の形で午前中の仕事を終えるのであった――。


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