「最高級スイート、なお外出禁止」
【無慈悲なタイムリミットと、豪奢なる軟禁】
午後九時。
極東の魔王一行が案内されたのは、パリの中心部にそびえ立つ最高級ホテルの最上階。
リュクス・アンペリアルが誇る、VIP専用のプレジデンシャル・スイートフロアであった。
各人に用意された個室は、もはや「部屋」というより「王族の離宮」である。
天井には眩いシャンデリアが輝き、大理石の床、アンティークの調度品、そして窓の外にはライトアップされたエッフェル塔とパリの夜景が一望できる、馬鹿みたいに豪華な空間だった。
だが、そんな極上の空間において、プロデューサー・立花雪の宣告はあまりにも無慈悲であった。
「いいこと? 明日は午前四時起床よ。タレントの美肌を保つため、睡眠時間は最低でもきっちり六時間は取りなさい。現在、午後九時。……持子、エティエンヌを可愛がるのは許可するけれど、午後十時には絶対に寝なさい! 夜遊びは一切禁止よ!」
ビシッ! と指を突きつける雪。
「なっ……! ふ、ふざけるな雪! たった一時間だと!?」
持子は黄金の瞳を限界まで見開き、猛烈に抗議した。
「一時間など、この無駄に広い風呂に入って体を洗ったらおしまいではないか! エティエンヌと濃厚なスキンシップ(エッチ)をする時間など、一秒も残っておらんぞ!」
持子の背後では、エティエンヌが「そ、そんな……私の極上のご褒美タイムが……っ」と絶望の表情で膝から崩れ落ちている。
しかし、立花雪は冷酷に眼鏡を押し上げた。
「では、諦めなさい」
その横で、リュクスの女帝エレーヌ・リジュも、完璧なビジネススマイルを浮かべて一礼した。
「諦めてください、持子様。明日のスケジュールに穴を開けることは、リュクスの総意として許可できません」
「お、鬼ぃ……っ! お前ら、さっきまでのあの感動的な空気はどこへ行ったのだーっ!」
* * *
バチャァァァンッ!
「……はぁ。まったく、雪もリジュも容赦がないわい」
大理石で造られた、プールのように無駄に広いジャグジーバス。
持子はたっぷりの泡の中で、深くため息を吐いた。結局、泣く泣くエッチは諦めるしかなかったのである。
「も、持子様ぁ……っ」
その後ろで、エティエンヌが持子の美しい背中を流しながら、シクシクと泣いていた。
「泣くなエティエンヌ。……ヨーロッパの戦禍をよくぞ治めた。お前のその細腕には、重すぎる苦労だったろう。本当に、大儀であった」
持子は振り返り、濡れた金髪の真祖の吸血鬼の頭を、優しく撫でた。
そして、その白い額にチュッと軽いキスを落とし、極上の『魔力』の塊を分け与える。
「ああっ……! 持子様の、甘く濃密な魔力が……っ! 私の細胞の隅々にまで……っ♡」
ゾクゾクと身を震わせ、恍惚の表情を浮かべるエティエンヌ。
ただ労い、魔力を与えて撫でるだけ。それでも、彼女にとっては至上の幸福だった。
「持子様、私、もっと……もっと持子様の奥深くを……っ」
エティエンヌが情欲に瞳を潤ませ、持子の首筋に顔を近づけようとした、まさにその時である。
ジリリリリリリリリリッ!!!!
スイートルームの備え付けの黒電話が、けたたましく鳴り響いた。
「ビクゥッ!? な、なんだ!?」
持子が慌てて受話器を取ると、向こうから氷のように冷たい雪の声が響いた。
『――午後十時よ。時間切れ。エティエンヌ、直ちに退去しなさい』
「ひぃぃぃぃぃっ!? いやです、いやです雪様! あと五分、いや一分だけでも……!」
バタンッ! ガチャガチャガチャッ!
黒服の女性スタッフ(リジュの部下たち)が容赦無くバスルームに突入し、全裸のエティエンヌをバスタオルで簀巻きにして、物理的に引きずり出していく。
「持子様ぁぁぁぁぁっ!!」
「エティエンヌーっ!!」
バタンッ!
重厚なスイートルームの扉が閉まり、そして――。
『ガチャンッ』
外から、極めて厳重な鍵が掛けられる音がした。
「…………なっ?」
持子はバスローブ姿のまま、扉のノブをガチャガチャと回した。開かない。
「おい、雪! リジュ! なぜ外から鍵を掛けるのだ! わしは囚人か! 軟禁状態ではないかーっ!!」
極東の魔王の虚しい叫びは、防音の効いた最高級スイートルームの壁に虚しく吸い込まれていくのだった。
【主従と親友、そして三百年前のフランス語】
その頃。
ホテルの一階にある、ジャズの生演奏が響く豪奢なラウンジでは。
「Excusez-moi. Un autre verre de vin et du fromage, s'il vous plaît.(すみません。ワインのお代わりと、チーズをお願いします)」
本多鮎が、通りかかったギャルソン(給仕)に向かって、流暢な現代フランス語で注文を出していた。
この一年、鮎は持子の役に立つため猛特訓を重ね、フランス語をほぼ完璧にマスターしていたのである。
「Très bien, mademoiselle.(かしこまりました、お嬢様)」
ギャルソンが洗練された所作で微笑み、去っていく。
それを見ていた吸血鬼の元女王ルージュは、優雅に足を組みながら、感心したようにクスクスと笑った。
「本当に見事な発音ですわ。さすがはわたくしの『主』である鮎。現代のパリでも完璧に通用していますわね」
ルージュの言葉に、鮎はノンアルコールのカクテルを置き、照れくさそうに笑って手を振った。
「もうっ、だから『主』なんて呼ばなくていいってば、ルージュ! 私たち、もうすっかり『友達』みたいなもんじゃない!」
「ふふっ。ええ、そうですわね。……ですが、わたくしにとって、あなたは頼りになる主であり、そして大切な親友ですわ。」
鮎が主であり、ルージュが僕。
しかし、二人の間には明確な上下関係の壁はなく、こうしてグラスを傾け合いながら気さくに笑い合える、対等で温かい友情が築かれていた。
「でも、ルージュに教えてもらったフランス語の基礎があったからこそだよ。……ただ、ちょっと問題があるんだけどね」
鮎は苦笑いしながら、運ばれてきたチーズをつまんだ。
「さっきからルージュがギャルソンに話しかけると、みんな一瞬フリーズしてるでしょ?」
「……ええ。少し気になっていましたの。わたくしの発音、どこかおかしいかしら?」
「発音は完璧に美しいんだけど……言葉のチョイスが『三百年前の貴族の言葉(ベルサイユのばら仕様)』で止まってるの! さっきなんて『汝、速やかに我の前に小麦の恩恵を供せよ』みたいな古語を使ってたから、店員さん、中世の王女様がタイムスリップしてきたのかと思ってガチで驚いてたよ!」
「なっ……! そ、それは……」
元女王の、最大の盲点であった。
顔をほんのり赤くして動揺するルージュを見て、鮎は楽しそうに笑った。
「大丈夫! せっかく本場に来たんだから、今夜はラウンジのお客さんたちの会話を聞きながら、二人でルージュの辞書を『現代版』にアップデートしよう! 友達として、私がしっかりレクチャーするからね!」
「……くっ。仕方ありませんわね。頼りにしていますわよ、鮎先生」
かくして、パリの夜のラウンジで、現代の秀才モデル(主)と三百年前の吸血鬼女王(僕)による、親友同士の優雅な言語アップデート会がひっそりと開催されるのであった。
【密室の化け物たちと、陰陽師の往く道】
同じ頃。
リジュの所有する、ホテルのさらに奥に隠された絶対防音のプライベート・オフィス。
「……雪師匠。僕、ここにいてもいいんですか?」
土御門朔夜は、ふかふかの革張りソファに少しだけ居心地悪そうに座りながら、尋ねた。
先ほどまでの持子の前での余裕ある肉食系の態度は鳴りを潜め、立花雪の前では完全に「礼儀正しい弟子の僕」となっている。
「ええ、構わないわ。あなたも私の大切な『手駒』だもの」
雪は、リジュの淹れた最高級の紅茶を優雅に啜りながら、真向かいに座るリジュへと視線を向けた。
「リジュ。改めて紹介するわ。彼は土御門朔夜。陰陽師の大家の血を引く、私の直弟子よ」
「土御門……極東の、呪術の頂点に立つ一族ですね。お見知り置きを、朔夜様」
リジュが静かに一礼する。
すると、雪は紅茶のカップをソーサーに置き、ふと、一切の感情を排した『真顔』になった。
「この子ね……私が『彼岸花』の残党や国家の裏側を嗅ぎ回っていることに、自力で辿り着いたのよ」
「……!」
リジュの青い瞳に、微かな驚愕が走る。
「そして、あろうことか私に直接接触してきて、私を『脅迫』したの。持子の隣に立つ力が欲しいから、自分を弟子にしろとね」
雪の言葉が、氷のように冷たく、しかしどこか楽しげにオフィスに響く。
「千年の時を生きるこの私を前にして……殺されないように巧みに言葉を紡ぎ、土御門の陰陽術を盾と矛にして、ギリギリの交渉で私に『弟子入り』を認めさせたのよ」
シンッ……。
部屋の空気が、重圧で軋んだ。
「その胆力、そして機転の速さ。……この子も、間違いなく『化け物』よ。将来が本当に楽しみだわ」
雪が、眼鏡の奥でゾクリとするような冷たい笑みを浮かべる。
「っ……」
「…………」
朔夜の背筋に冷たい汗が流れ、リジュの青い瞳にも明確な『恐怖』が走った。
あの立花雪に、脅迫めいた交渉を持ちかけ、五体満足で生き残り、さらには実力を認めさせて弟子に収まる。それは、リジュのような裏社会の頂点に立つ者から見ても、正気の沙汰ではない『狂気』の証明だった。
「だから、リジュ」
雪は、ふわりといつもの優しい微笑みに戻り、リジュの目を見た。
「もしも、この先……私に何か万が一のことがあったら。この朔夜を、あなたの手駒として使いなさい」
「雪……?」
「そして朔夜。あなたにもし、極東で逃げ場のない危機が訪れたら、迷わずリジュを頼りなさい。彼女の持つリュクスの経済力と権力は、必ずあなたを護るわ」
それは、裏社会と呪術界の思惑が絡み合う、極めてシリアスで重大な『密約』であった。
「……承知いたしました、雪」
「……はい、師匠。肝に銘じます」
二人が重々しく頷く。
「よし! じゃあ、明日からの持子のプロモーション戦略と、ヨーロッパ残党の処理についての打ち合わせを済ませましょうか!」
雪はパンッと手を叩き、分厚い資料を広げた。
そこから三十分ほど、息の詰まるような高度な戦略会議が行われ――。
「はい、お疲れ様。朔夜は明日の朝も早いから、自分の部屋に戻って寝なさい」
「ありがとうございました。失礼します」
朔夜は深く一礼し、オフィスを後にした。
【女帝とプロデューサーの、華麗なるオチ】
バタン。
朔夜が部屋から出ていき、重厚な扉が閉まった。
「……恐ろしい子ですね、朔夜という少年は」
リジュが、小さくため息を吐きながら言った。
「あの子が持子様の隣に立つ男になるのであれば、リュクスとしても全力で支援する準備をしておかなければ――」
「あーっ! もう疲れたーっ!」
「……え?」
リジュが目を見開く。
目の前で、先ほどまで恐ろしい底知れぬオーラを放っていた立花雪が。
突如として、ソファの上にゴロンッと寝転がり、ネクタイを緩めて足をバタバタとさせていた。
「いやぁ、カッコつけてシリアスなこと言うの、肩凝るわーっ! でもああやってビシッと言っておかないと、朔夜もリジュも舐められちゃうからね! あはははは!」
「ゆ、雪……? さっきの密約は……」
「あ、あれ? 適当適当! 保険みたいなもんよ! 私がそう簡単に死ぬわけないじゃない!」
雪はケラケラと笑いながら、テーブルの上のマカロンを放り投げ、パクッと口でキャッチした。
「そんなことよりリジュ! テオドールとは最近どうなの!? ちゃんとイチャイチャしてる!? 裏社会の戦争ばっかりで、ご無沙汰なんじゃないの〜!?」
ニヤニヤと、完全に『女子会のノリ』で恋バナを振ってくるプロデューサー。
「なっ……!? わ、私とテオドールは、その……清らかな愛を育んでおりまして……っ!」
世界を裏から支配する冷徹な女帝エレーヌ・リジュが、顔を真っ赤にしてしどろもどろになり始める。
「えーっ! パリにいて清らかな愛!? もったいない! 明日の夜は私が持子を監視しておくから、テオドールといっぱいイチャイチャしてきなさいよね!」
「ゆ、雪! 貴女という人は……っ!」
シリアスな空気など一瞬で粉砕。
扉の向こうの別室では魔王が風呂上がりに軟禁されて「開けろー!」と叫び、ラウンジでは主従であり親友の二人が楽しげに言語のアップデートを行い、そして極秘のオフィスでは、化け物二人がキャッキャと恋バナに花を咲かせる。
花の都パリの夜は、今日も相変わらず、彼女たちのペースで騒がしく更けていくのであった。




