「涙の忠誠、そして地獄の予定表」
午後六時。
フランスの首都、花の都パリ。
茜色の夕陽がセーヌ川を美しく染め上げる時刻、極東の魔王一行を乗せたプライベートジェットがシャルル・ド・ゴール空港へと降り立った。
タラップを降りると、そこには世界的コングロマリット「リュクス・アンペリアル」の黒服スタッフたちがズラリと整列していた。
「お荷物はすべて、手配済みの最高級ホテルのスイートルームへお運びいたします。皆様はそのまま、リジュ様の待つレストランへ」
流れるようなVIP待遇。
持子、雪、鮎、ルージュ、そして朔夜の五人は、用意されたストレッチリムジンに乗り込み、パリの中心部にある完全貸切の三ツ星レストランへと直行した。
シャンデリアが煌びやかに輝く、王宮のようなレストランの個室。
そこで待っていたのは、リュクスの若き女帝エレーヌ・リジュ、その最愛の恋人である美青年テオドール。
そして――かつてヨーロッパの裏社会を数百年支配した真祖の吸血鬼であり、今は持子への狂信的な愛ゆえに女体化している金髪の絶世の美女、エティエンヌであった。
「長旅、お疲れ様。よく来てくれたわね、持子、雪」
リジュが女神のような微笑みで出迎える。
なお、この場に極東の『化け物』たちの姿はすべて揃っているわけではない。
風間楓、霞涼介、そして葉室鶴子の三人は、未だヨーロッパの裏社会に潜む残党の最終掃討作戦を単独(あるいは小隊)で継続中だ。また、流星は異端審問官ベアトリスの部下として行動しているため、ベアトリス一行と共に別の激戦区へと向かっており、この晩餐の席には不在であった。
カチン、と極上のクリスタルグラスが合わさる。
最初の約一時間は、最高級のフレンチとワインに舌鼓を打ちながら、和やかで華やかな歓談が続いた。
テオドールという「一般社会(表の世界)」で生きる心優しい青年が同席しているため、この場では一切、血生臭い裏社会の戦争の話は出ない。雪とリジュのビジネスの話や、持子の見事な食べっぷり(そしてそれをうっとり見つめる朔夜と鮎)という、平和な時間が流れた。
しかし、一時間が経過した頃。
テオドールは、場の空気を読むように優しく微笑み、リジュの手の甲にそっとキスを落とした。
「リジュ、僕はまだ少し、会社で片付けなければならない仕事が残っているんだ。残念だけど、ここで失礼するよ。……日本の皆様も、どうかパリの夜を存分に楽しんでください」
完璧な気遣い。誰も傷つけず、秘密を詮索することもなく、テオドールはスマートに一礼して個室を後にした。
バタン、と。
重厚な扉が閉まった、その瞬間だった。
ピリッ……!
部屋の空気が、一瞬にして『表の華やかな晩餐』から、『裏の絶対的な謁見の間』へと変貌を遂げた。
ガタッ!
リジュとエティエンヌが、示し合わせたかのように同時に椅子から立ち上がる。
そして、最高級のふかふかな絨毯の上に、二人は一切の躊躇なく両膝をつき、深く、深く頭を垂れた。
完全なる『臣下の礼』である。
「「…………」」
世界的企業のトップと、真祖の吸血鬼が、ただの一人の十七歳の少女に向かって平伏している。
その異様な光景に、朔夜は息を呑み、鮎は誇らしげに胸を張り、ルージュはワイングラスを傾けて優雅に微笑んだ。
「……面を上げよ」
持子は、手元のナプキンで優雅に口元を拭い、黄金の瞳に圧倒的な覇王の光を宿して二人を見下ろした。
「二人とも、すぐに立て。……大義であった」
その一言に、エティエンヌの肩がビクッと大きく震えた。
持子は、ゆっくりと立ち上がり、エティエンヌの前に歩み寄る。
「エティエンヌ。わしが望んでいた『愛の下僕』として……見事、ヨーロッパの戦禍を治めたな。その働き、誠に見事だ。褒めてつかわす!」
魔王の、底知れぬ威厳と絶対的な肯定。
「あ、ああ……持子様……っ」
エティエンヌの真紅の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「もったいなきお言葉……! この勝利はすべて、持子様のご威光と、極東より駆けつけてくださった頼もしき仲間たち……そして、持子様の忠実なる臣下である、リジュのお力添えがあったからこそでございます……っ!」
涙ながらに畏まる真祖の吸血鬼。
「ふはははは! 良い心がけだ!」
持子は傲岸不遜に大笑いすると、スッとエティエンヌの耳元に顔を近づけた。
そして、甘く、酷薄で、ゾクゾクするような色気を孕んだ声で囁いた。
「……今夜、たっぷりと可愛がってやる」
『ゾクゥゥゥゥッ!!』
「ひぃんっ……!!」
エティエンヌの全身の産毛が総毛立ち、極上の悦楽と歓喜に身を震わせ、彼女はただひたすらに、熱い吐息を漏らしてその場にひれ伏した。
続いて、持子はリジュへと向き直った。
一年ぶりの、直接の再会である。
(……リジュ)
持子は、目の前で美しい金糸の髪を揺らす女帝を見つめた。
この一年、リジュの献身ぶりは、客観的に見て完全に『常軌を逸して』いた。
ヨーロッパの裏社会を平定するため、そして極東の持子を支援するため、彼女の率いるグループ会社が何度吹き飛んでもおかしくないほどの天文学的な資金を、惜しげもなく投入し続けたのだ。さらには自身の莫大な個人資産までも完全に吐き出した。
結果として、今やリュクスは莫大な利益を生み出し、ヨーロッパの裏社会をほぼ支配下に置くに至ったが……それはあくまで「結果論」だ。
ここまでの道程は、正気の沙汰ではない。董卓という前世の魂への忠誠だけで、常人では絶対に成し得るはずのない狂気の綱渡りを、彼女はたった一人で完遂したのだ。
持子は、リジュを抱きしめたりはしなかった。
また、鮎やエティエンヌのように『愛の下僕』として縛り付けることもしない。
なぜなら、リジュの心には、先ほど部屋を出て行った愛する男、テオドールがいることを知っているからだ。持子は、そのリジュの「女としての幸せ」を誰よりも尊重していた。
だから、持子はただ真っ直ぐに手を伸ばし、リジュの細く冷たい両手を、しっかりと力強く握りしめた。
「リジュ。……お前の忠義、わしは本当に嬉しく思う」
「持子、様……」
「これからも、わしに尽くせ。……その代わり、お前のその狂おしいほどの忠義に、このわしが必ず応えようぞ! わしに叶えられぬことなどない。さあ、何でも申してみろ!」
傲慢で、絶対的で、それでいて底なしに優しく温かい魔王の宣言。
「…………っ!」
リジュの青い瞳から、せき止めていた感情が弾けたように、ポロポロと美しい涙がこぼれ落ちた。
「ああ……も、持子様……っ、私の、私のたった一人の……っ」
リジュは持子の手を握り返し、声を上げてひとしきり泣き崩れた。
そのあまりにも美しく、神聖な主従の絆に、朔夜も鮎も心を打たれ、エティエンヌはもらい泣きをし、ルージュでさえ目を細めて静かにグラスを傾けていた。
誰もが、この感動的なシーンに酔いしれていた。
――だが。
「……ふぅ。……ありがとうございます、持子様」
数分後。
リジュはハンカチで涙をスッと拭き取ると、先ほどまでの感動的な涙顔が嘘のように、氷のように冷徹な『女帝』の顔へと一瞬で切り替わった。
「私の望みはただ一つ。持子様が、世界一の美の頂点に立つことです。……では、早速ですが」
バサァァァッ!!
リジュは、どこからともなく取り出した分厚いファイル(バインダー)を、テーブルの上にドスッと置いた。
「これが、明日からの『リュクス・アンペリアル』新作コレクションに向けた、持子様と皆様の撮影スケジュールです」
「……は?」
持子がポカンと口を開ける。
リジュは眼鏡をスッと押し上げ、早口で説明を始めた。
「明日は早朝午前四時に起床、四時半からヘアメイク開始。六時からセーヌ川沿いでの第一弾ロケ。午後からは衣装を百二十着着替えてのスタジオ撮影。夕方からは世界のメディア向けの独占インタビューが三本。夜はレセプションパーティーでの顔見せです。分単位でスケジュールを組んでいますので、一切の遅れは許されません」
「「「…………」」」
シンッ……。
感動に包まれていた部屋の空気が、完全に凍りついた。
(き、切り替えが早すぎるだろ……ッ!!)
朔夜と鮎の顔が引き攣り、エティエンヌでさえ「えっ、今夜の私の可愛がりは……?」とドン引きしている。
「ち、ちょっと待てリジュ! お前、さっきまで泣いておったではないか! なぜ急に分厚い企画書が出てくるのだ! だいたい、百二十着の着替えと分単位のスケジュールって、完全なブラック労働ではないか!」
持子が慌てて抗議の声を上げる。
しかし、リジュはニコリともせずに言い放った。
「持子様が『忠義に応える。何でも申してみろ』と仰ったのです。私の望みは、持子様の完璧なプロモーション。……何か問題でも?」
「ぐはっ……! 完全に言質を取られた……っ!」
「あははははっ! 最高よリジュ!」
ドン引きする一同の中で、ただ一人、持子のプロデューサーである立花雪だけが、腹を抱えて大爆笑していた。
「さすが私の親友! スケジュールの組み方も、タレントの退路の断ち方も完璧だわ! 持子、これぞ『ご褒美』よ! 明日からみっちり働いてもらうわよ!」
「鬼ぃぃっ! ここに鬼が二人もおるぅぅっ!!」
花の都パリの夜。
極東の魔王の優雅なバカンスは、感動の涙から一転、親友二人の完璧な包囲網による『超絶ブラック労働の幕開け』へと、無慈悲に切り替わるのだった。




