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『二人の女帝と、魔王の暴食バカンス』

✴︎ ✴︎ ✴︎


『二人の女帝と、魔王のヤケ食いバカンス』


【二人の女帝と、嵐の後のティータイム】


八月中旬。

極東の島国、日本の首都・東京は、まとわりつくような不快な残暑に包まれていた。アスファルトからは陽炎が立ち上り、街を行き交う人々は皆一様にハンカチで額の汗を拭っている。

だが、代官山の一等地にある芸能事務所『株式会社スノー』の社長室は、下界の喧騒など一切届かない別天地だ。完璧に温度と湿度が管理された涼しく快適な空気に満たされ、ほのかに高級なアロマの香りが漂っている。

重厚なマホガニーのデスクに座る社長・立花雪は、タブレット端末に表示された今月の莫大な売上と、ヨーロッパの裏社会から送金された天文学的な額の「報奨金」のゼロの数を、眼鏡の奥の冷徹な瞳で一つ一つ確認していた。


「……ふぅ。とりあえず、パリの裏社会の事後処理も、これで完全に終わったようね」


雪は細く長い息を吐き出し、タブレットをデスクに置いた。

ピピッ。

手元のスマートフォンを操作すると、デスクの上の大型モニターが静かな駆動音と共に起動する。そこに映し出されたのは、ここから遠く離れた芸術の都、フランス・パリの豪奢なホテルのペントハウスにいる世界的コングロマリット「リュクス・アンペリアル」の若き女帝、エレーヌ・リジュの姿であった。

画面越しでも伝わってくる、圧倒的な美貌。黄金の髪とサファイアのような青い瞳を持つ彼女は、弱冠二十五歳にして、表のファッション業界と裏の暗黒街の双方を支配する、美と知性の結晶とも呼べる存在だ。


『ごきげんよう、雪。……そちらの残暑はどうかしら?』


リジュは、アンティークの最高級ティーカップを優雅に傾けながら、微笑みかけてきた。


「ええ、相変わらず蒸し暑いわ。息をするだけで体力が奪われるような気候よ。……でも、パリの地下で血みどろの戦争をしていた連中に比べれば、平和で退屈なものね。……リジュ、改めてヨーロッパの裏社会の平定、本当にお疲れ様」


雪が心からの労いの言葉をかけると、画面の向こうのリジュは、ふっと憑き物が落ちたような、どこか安堵した笑みをこぼした。


『ええ。長かったわ。でも、あなたの手駒である「化け物」たちのおかげで、予定よりもずっと早く、そして完璧に片付いた。……本当に、感謝しているわ、雪。あなたがいなければ、私の組織にもどれだけの血が流れたか分からない』


「お互い様よ。そもそも、うちの持子を世界的なトップモデルに導いて、阿寒湖のCMで世界中に売り出してくれたのは、他ならぬあなたじゃない。……それに、今回は美羽や鶴子、霞たちうちの若手組にとっても、これ以上ない実戦経験になったみたいだしね。あの子たち、パリの吸血鬼や魔術師たちを相手に、随分と暴れ回ったようじゃない?」


画面越しに、二人の極めて優秀な「大人」の女性は、ふふっと共犯者のような笑みを交わし合った。

立花雪とエレーヌ・リジュ。

国籍も、立場も、年齢も違う二人だが、彼女たちには明確な共通点があった。それは、規格外の力と狂気を孕んだ「化け物たち」の手綱を握り、時には母のように見守り、時には非情なプロデューサーとして世界へ解き放つ、孤独で優秀すぎる支配者であるということだ。


『……ところで、雪。今日は単なる報告や労いのためだけに連絡したわけじゃないの。仕事の依頼も兼ねて連絡したのよ』


「仕事? ヨーロッパの情勢が落ち着いて、やっと一息つけるというのに、相変わらずのワーカーホリックね。少しは休んだらどうなの?」


『ふふっ。パリの情勢が完全に落ち着いたからこそ、なのよ。聞いてちょうだい、雪。……持子様を、フランスへ呼んでほしいの』


「持子を?」


雪が眉をひそめると、リジュのサファイアの瞳に、クリエイターとしての抑えきれない熱と歓喜の色が浮かび上がった。


『ええ。パリの平定を祝した、リュクス・アンペリアルの大々的な新作コレクションの発表会を企画しているの。……そのランウェイのセンターを飾れるのは、極東の魔王たる恋問持子の『圧倒的な美』をおいて他にないわ。あの黄金の瞳と、神が創ったとしか思えないプロポーション。彼女が歩けば、世界中のメディアがひれ伏すわ』


リジュはそこで言葉を区切り、少しだけ声のトーンを柔らかくした。


『それに……私から、持子とあなたへ、個人的な『お礼』がしたいの。パリの最高級ホテルで、世界で一番美味しいスイーツと、三ツ星フレンチのフルコース、そして極上のバカンスを私がすべて手配して用意するわ。……雪、あなたも一緒に来てちょうだい。たまにはプロデューサーの仮面を下ろして、親友同士、シャンパンでも飲みながらゆっくり語り合いましょう?』


その心からの招待に、雪は少し驚いたように目を見開き、やがて眼鏡を押し上げながら優しく微笑んだ。


「……ええ。喜んで受けさせてもらうわ、リジュ。私も、あなたに直接会って、お礼が言いたかったところよ。たまには、羽を伸ばすのも悪くないわね」


『決まりね! 早速、そちらにプライベートジェットを手配させるわ! 楽しみに待っているわよ、雪!』



【光と闇の螺旋、そしてツッコミ不在の実験室】


通信を切った後、雪は軽い足取りで社長室を出て、事務所の奥にある持子専用のプライベート・ラウンジへと向かった。

あの食い意地の張った魔王のことだ。パリの最高級スイーツとフレンチが食べ放題と聞けば、尻尾を振って喜ぶに違いない。


ガチャリ、と重厚な扉を開けようとした、その時だった。


「――持子様、出力の波長が乱れています! 闇の密度に対して、光の神術の収束率が6パーセント上回っています! 右手の魔力回廊を絞ってください!」


「ぬおぉぉっ! わ、分かっておる! だが、この二つの相反する力、暴れ馬のように反発しおって……! ルージュ、そっちの闇の供給を少し上げてくれ!」


「畏まりましたわ、持子様。……ふふっ、本当に繊細な作業ですこと。これほど魔力を遣うのは数百年ぶりですわね」


扉の向こうから聞こえてきたのは、歓談の声でも咀嚼音でもなく、ビリビリと空間そのものを震わせるような凄まじい魔力の共鳴音と、彼女たちの切迫した声だった。


「……何事!?」


雪が勢いよく扉を開け放つと、そこには信じられない光景が広がっていた。

広大なラウンジのイタリア製高級家具はすべて壁際に寄せられ、部屋の中心には何重もの強固な結界が張られている。

その結界の内で、持子と吸血鬼の元女王・ルージュが背中合わせに立ち、互いの両腕を前方に突き出していた。

持子の手からは、かつての禍々しいほどの漆黒の『闇の魔力』と、眩いほどの純白の『光の神術』が、まるで古代中国の思想である『陰陽五行の太極図』のように螺旋を描いて渦巻いている。

そして、その強大すぎるエネルギーの奔流を、結界の外から分厚い防護眼鏡をかけた本多鮎が、何台もの物々しい無骨な機械とモニターを駆使して冷静に分析・指揮していた。


「よし、ルージュの魔力波形、安定しています。持子様、そのまま光と闇の融合比率を5対5で維持……高子ちゃんからお借りしたTIAの最新鋭測定器のデータによれば、現在臨界点の手前です! そのまま魔力圧縮の検証に入ります!」


「うおおおおっ! 鮎、データは取れておるか!?」


「はい! この光と闇のハイブリッド魔力、従来の純粋な闇魔力と比較して、破壊力と防壁展開速度が約300パーセント向上しています!」


「……ちょっと待ちなさい!!!」


雪はたまらず、凄まじい声量でツッコミの怒号を上げた。

その声に驚き、持子とルージュはスゥッと魔力を体内に収束させ、鮎も慌てて計器のスイッチを切る。


「おお、雪か! 驚いたか、わしらの新たな力の研究と実践を!」


「実践じゃないわよ!! なんでただの芸能事務所のラウンジに、TIA(対魔導諜報機関)の国家機密レベルの最新鋭測定器が並んでるのよ!?」


雪がズカズカと歩み寄り、鮎が操作していた黒光りするコンソールをビシッと指差す。


「あ、あはは……。これは、風間高子ちゃんにお願いして、一時的に融通してもらったんです。私たちの新しい魔力があまりにも規格外すぎて、自作の霊力計じゃ一瞬でショートしちゃうので……」


「高子ちゃんも高子ちゃんよ! 国家機関の備品を芸能事務所に横流しするんじゃないわよ! ……それに、ちょっと。この部屋の隅に山積みになってる、ダンボール箱は何!?」


雪の視線の先には、壁際に積み上げられた大量のダンボール箱。その隙間からは、禍々しいオーラを放つ古代の呪符や、どう見ても国宝級の魔術アイテムがゴロゴロと溢れ出していた。


「ああ、これは万が一、光と闇の魔力が反発して大暴発を起こした時のための『相殺用・遅延用の呪物アイテム』です。これも高子ちゃんからダンボール五箱分ほどお借りしました。これを使えば、ラウンジが吹き飛ぶだけで、代官山の街への被害は最小限に抑えられますから!」


「あんた達、これから戦争でも始める気!? ここは代官山の一等地よ! ラウンジが吹き飛ぶ時点で大問題でしょうが!」


頭を抱え、深いため息をつく雪。

千年以上を生きて数多の魔術を見てきた雪でさえ、彼女たちのやっていることのスケールのバグり方には呆れるしかなかった。

そもそも、彼女たちは元々、闇の魔王に、吸血鬼の女王、それに闇の眷属だ。光の力など、ほんの微細な適性しかなかったはず。闇の住人がこれほどの光を纏えば、普通は自己矛盾で肉体が消滅する。それが、いびつながらも共存し、新たな次元の力へと昇華されようとしているのだ。


「まったく……まあいいわ。あんた達のその規格外の力については後でじっくり問い詰めるとして、今日は素晴らしい報せを持ってきたのよ」


雪の言葉に、持子は額の汗を拭いながら、傍らのテーブルに保温魔法で温めておいた道産牛のシャトーブリアンステーキをフォークで刺し、あむっ! と大きな口で頬張った。


「むぐむぐ……んんっ、美味い! 素晴らしい報せだと?」


「そうよ。パリのリュクス・アンペリアルから、新作発表会のセンターの指名が入ったわ。そして、仕事が終わった後は最高級ホテルのスイートルームでのバカンスと、本場の三ツ星フレンチやスイーツの食べ放題よ。行くでしょ?」


雪が絶対の自信を持って『極上の餌(スイーツと肉)』を提示する。

しかし、持子はステーキを飲み込むと、腕を組み、ぷいっとそっぽを向いてしまった。


「…………断る!」


「……は?」


「わしは今、この研究と、桐子お姉さんからの光の神術の修行で猛烈に忙しいのだ! パリで呑気に遊んでいる暇などない!」


シンッ……。

ラウンジの空気が、完全に凍りついた。


「えっ? 今、なんて?」


「だから! 桐子お姉さんからの修行――」


「ストップ。そこ。そこよ持子」


雪は両手で持子の華奢な肩をガシッと掴んだ。


「あんた、今……『お姉さん』って言った!?」


千年の時を生きる恩人であり母の様に尊敬する雪のことすら常に「雪」と呼び捨てにする傲岸不遜な魔王が、他人に、しかも同年代の少女である葉室桐子に対して、『お姉さん』などという敬称を使っている。

雪の冷徹な追及モード(プロデューサーの絶対的な圧)が発動し、持子はタジタジとソファに座り込んだ。



【暴食の魔王と純白の天使、そして恩人への敬意】


「――事の発端は、過酷な合気武道部の夏合宿から一夜明けた、昼下がりのことだ」


持子は、黄金色の瞳を伏せ、ぽつりぽつりと、その屈辱の顛末を雪に語り始めた。


極黒の魔王・恋問持子は、自らの内に新たに目覚めてしまった光の魔力の制御について、専門家の助言を求めるため氷川神社を訪れた。

出迎えたのは、お留守番中の愛らしい美少女・風間高子。

その天使の微笑みに持子の内なる変態的煩悩は大沸騰し、高子をお持ち帰りしようと通報レベルの顔を歪めた、その時だった。


ピシャァンッ!!


突如襖が開き、周囲の空気が絶対零度まで凍りついた。

そこに立っていたのは、八咫烏の次期代表である葉室桐子であった。可愛い高子に不潔な手を伸ばすなら腕ごと浄化の光で消し飛ばす、という桐子の怒りのオーラを前に、持子は綺麗な正座の姿勢に戻り、深く反省したのである。


「……正座を崩せないわしは、桐子に対し、新たに目覚めた魔力を制御するため、光の神術の極意を教えてほしいと頭を下げた。天下の覇王が天敵に教えを乞うという行為だったが……わしは、どうしてもあの女から教わりたかったのだ」


持子は、ふと真剣な眼差しになり、自身の胸にそっと手を当てた。


「あの女は、わしに対して信じられない絶対条件を突きつけてきおったのだ。『私を桐子お姉さんと呼びなさい』とな」


「……え? それだけ?」


「ああ。魔王のプライドを粉々に砕かれる、屈辱的な条件だ。……だがな、雪」


持子の黄金の瞳が、静かな、けれど底知れない熱と敬意を帯びる。


「わしは桐子を、心から尊敬しておるのだ。あの女は……かつてわしが拐かされ危機に瀕した時、己の寿命を削り……二度と子供の産めない体になってまで、わしを救ってくれた。かけがえのない命の恩人だからな」


その言葉に、雪もハッと息を呑んだ。

そうだ。葉室桐子は、己のすべてを投げ打ってでも持子を救った、凄絶なまでの自己犠牲と愛情を持った本物の『光の巫女』なのだ。


「だから……わしは、命の恩人である桐子の頼み(絶対条件)ならばと、腹を括った。血の涙を流すような屈辱の中で『桐子……お姉さん』と呼んだのだ。……だが!!」


持子の声が、突然ひっくり返った。


「わしが覚悟を決めて『お姉さん』と呼んだ瞬間! あやつは満面の笑みでわしの頭を撫で回し、こう言い放ちおったのだ!!」


持子はワナワナと肩を震わせた。


『持子ちゃんが私を「お姉さん」と呼んだことで、婚約者である洋助様は義理の「お兄さん」になりますわ。……兄妹である以上、お兄さんにときめくことは、倫理的にも許されませんわよ?』


ドゴォォォォン!!


「わ、わしは……あのTIAの次期トップの男にな。……その、女として、ほんの少しだけ、初恋として惚れておったのだ……」


持子は顔を限界まで真っ赤にして、両手で顔を覆って身悶えした。

持子の純情な初恋は、桐子の『命の恩人という立場と尊敬をフル活用した、完璧な正妻の包囲網』の前に、戦う前から終わりを迎えてしまったのである。


「さらに桐子の『お姉さんシステム』の恐怖は、わしだけに留まらなかったのだ……! おい、鮎、ルージュ!」


「……はい」


「……ええ」


呼ばれた二人が、遠い目をして口を開いた。


「私も、持子様が頭が上がらず、しかも心から尊敬している桐子様を見て、本能的に逆らってはいけないと悟りました。気付けば、息をするように『桐子お姉様』と呼んで、肩を揉んでおりました……。先ほどの光の神術の理論も、すべて桐子お姉様から授かった基礎を元に私が独自に解析したものです」


「わたくしもよ。三百年の誇り高き吸血鬼の女王としてのプライドなど、あの娘の笑顔の裏にある絶対零度の圧の前では、塵芥に等しかったわ。……洋助様が現れた時、わたくしたちも少しだけ胸をときめかせたのだけれど……桐子お姉様の『わかっていますわね?』という視線一つで、すべてがへし折られたわ。今はもう、純粋な『お兄様』としか見られない身体にされてしまったの……」


三人の最強の化け物たちが、揃いも揃って肩を落としている。


「そうなのだ!! わしは! わしらは! 恩人への敬意と神術の進化と引き換えに! 女としての淡い初恋を、自ら永遠に封印してしまったのだぁぁぁっ!!」


うわぁぁぁぁんっ!!

持子は、黄金比の美しい顔をくしゃくしゃにして、雪の胸に飛び込んで大泣きし始めた。


「雪ぃぃっ! わしは、わしは……自分が情けないやら、恩人である桐子お姉さんが立派で恐ろしすぎるやらで、もう心の整理がつかなくて困っておるのだぁぁっ!!」


「は、はいはい、よしよし……って……ふっ……くくっ……」


「ゆ、雪……?」


「あははははっ! あーっはっはっは!!」


大泣きする持子を前に、雪は腹を抱えて、普段の優雅さもかなぐり捨てて大爆笑した。


「最高……っ! 葉室桐子、なんて恐ろしいまでの交渉術とマウンティングなの! あんたの『尊敬の念』と『戦力強化の欲求』を逆手にとって、自分への脅威となる恋の芽を完全に摘み取りつつ、あんたたち三人を自分の『妹』として完璧に格付けを終わらせたのね! さすがは次期代表、見事すぎる正妻の底力だわ! 傑作ね!」


「笑うな雪ぃぃっ! わしは真剣に傷ついておるのだぞ! ポカポカッ!」


持子は涙目で、雪の胸をポカポカと叩いた。



第四章:『家族』の温もりと、プロデューサーの策略


だが、ひとしきり雪の胸で泣いてスッキリしたのか、持子はふと、少しだけ照れくさそうに視線を彷徨わせた。


「……まあ、なんというか。笑い事ではないのだが……悪くはないのだ」


「ん?」


雪は笑い涙を拭いながら、持子の顔を覗き込んだ。


「わしは、前世では天下を恐怖で支配した魔王だった。だが、心から信頼できる者など李儒をおいて、誰一人おらず、常に孤独だった。そしてこの現代に転生しても、わしは天涯孤独の身だ。血を分けた家族など、一人もおらん」


持子は、自身の黄金の瞳を少しだけ細め、遠くを見るような目をした。


「だから……強引なマウンティングだったとはいえ、『お姉さん』や『お兄さん』ができて……命の恩人である桐子や、洋助、楓、高子たち風間家の連中と、こうして家族のように騒がしく、食卓を囲んで付き合えるのは……その、案外、良いものだと思ってな。心が、温かくなるのだ」


頬をうっすらと朱に染め、ツンデレ全開でそっぽを向く持子。

その言葉を聞いて、雪はハッとした。

雪自身もまた、人魚の肉を喰らい、千年以上をたった一人で生きてきた孤独な化物だ。不死の宿命を背負い、家族の温もりなど、とうの昔に忘れていた。

だが、今は違う。この目の前にいる規格外のアホで愛おしい魔王や、鮎、ルージュといった騒がしい連中がいる。そして持子もまた、孤独な魂を持っていたが、今はこうして「家族」と呼べる繋がりを増やしているのだ。


「……そうね」


雪は、本当に優しい、まるで本当の姉か、あるいは母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、持子の頭を優しく撫でた。


「持子。あんたには、私たち事務所の人間がいるし、氷川神社にも新しい家族が増えた。……天涯孤独だったあんたや私にとって、それは奇跡みたいに素晴らしいことよ。本当に、良かったわね」


「う、うむ……。雪、お主の手は、とても温かいな……」


「ふふっ。さて、感動的な話の途中だけど、持子」


雪の瞳の奥で、再び冷徹なプロデューサーとしての脳髄が回転し始めた。


「……だったら尚更、今回のフランス行き……『失恋回復(ヤケ食い)バカンス』として受けるべきじゃない?」


「……しつれんかいふく、ばかんす?」


「そうよ。パリの最高級ホテルで、世界で一番美味しい本場のスイーツと、星付きレストランの超絶品フレンチのお肉が、毎日毎日、食べ放題。……失恋の痛みを癒すには、これ以上の特効薬はないわ」


カッ!!

持子の黄金色の瞳が、太陽のように眩しく見開かれた。

先ほどまで泣いていた魔王の脳内は、たった一瞬で『フランス料理』と『スイーツ』で完全に塗り潰されたのだ。


「……な、なまら素晴らしい提案ではないか雪! よし! わしは行くぞ! フランスの食糧を食い尽くしてやる!」


「ええ、その意気よ」


「……あ、だが待て! 桐子お姉さんの修行をすっぽかしたら、わし、絶対に後で物理的に光の力で消し炭にされるぞ……!」


持子がブルブルと震え出す。完全に調教されている証拠だ。


「任せなさい。プロデューサーの腕の見せ所よ」



【女帝の交渉と、しらばっくれる吸血鬼】


雪はスマートフォンを取り出し、迷うことなく葉室桐子の番号へ発信した。

数回のコール音の後、凛とした声が響く。


『はい、葉室です。立花社長、お世話になっております』

「桐子ちゃん、突然ごめんなさいね。実は、持子のスケジュールの件で相談があるの」


雪は、完璧なビジネススマイル(声色)を作った。


「持子に、リュクス・アンペリアルから緊急でパリでの新作発表会の指名が入ったのよ。世界的なプロモーションになるし、彼女のキャリアにとっても外せない仕事なの。……ただ、桐子さんの神術の修行のスケジュールと被ってしまって。本当に申し訳ないのだけれど、二週間ほど、お休みをいただけないかしら?」


電話の向こうで、桐子が少し考えるような沈黙が落ちる。持子は雪の背後に隠れ、「殺される……」とガタガタ震えている。


『……なるほど。そういう事情でしたら、もちろん構いませんわ。持子ちゃんの仕事は世界的なものですし、お姉さんとして、妹の活躍を邪魔するわけにはいきませんから』


「本当に? 助かるわ、桐子ちゃん。恩に着るわ」


ピッ。

通話を切った雪は、ドヤ顔でスマートフォンをしまった。


「ほらね。話はつけたわ」


「ゆ、雪……貴様、なまら有能すぎるぞ……っ! わしのプロデューサーは世界一だぁぁっ!」


持子は雪に抱きつき、ブンブンと振り回した。


「ふふっ、当然でしょ。……さあ、パリへ向けて準備をするわよ!」


「うむ! さあ、行くわよ!」


「行くぞ!」


雪と持子は、未来の輝かしいバカンスに向けて、高らかに右腕を突き上げた!

「「行くぞ(わよ)!!」」


バシィィィィッ!!

社長室の天井に向けて突き上げられた腕は――なぜか、『四本』あった。


「……ん?」


そこには。


「はいっ! 持子様のお供、この第一下僕・本多鮎が、全身全霊で務めさせていただきます!」


インテリタレントとして多忙を極めるはずの鮎が、満面の笑みで腕を突き上げていた。

さらに、その後ろには。


「あらあら。パリと聞いて、このわたくしを置いていくおつもり? 三百年間パリの地下を支配した元女王のガイドなしで、本場のフレンチが楽しめると思って(ポンコツ)?」


吸血鬼の元女王・ルージュが、優雅に扇子を広げて微笑んでいた。


「ちょっと鮎! あんたはダメよ! 大学は夏休みだけど仕事はあるでしょ!」


「ふふん。私は持子様がいつ失恋のショックでヤケを起こしてもいいように、大学の前期試験をトップ成績で修了し、向こう二週間の収録もすべて徹夜で終わらせて、完璧な『夏休み』を取得済みです! パスポートの準備も完璧です!」


鮎が執念のスケジュール表をドヤ顔で提示する。情報網を使ったわけではない、純粋なるストーカー的熱意の結晶だ。


「……っ! この子、熱意だけで私のスケジュール管理能力を超えてきている……ッ!?」


「それに雪さん。私も持子様の為に色々と頑張りました! 社長からの『ご褒美』、いただいてもバチは当たらないと思うのですが?」


「……はぁ。分かったわよ。連れて行くわ」


「やったー!!」と歓声を上げる鮎とルージュ。


「ただし!!」


雪は、眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせ、持子と鮎をビシッと指差した。


「リジュが用意してくれたのは、最高級のスイートルームよ! 神聖なバカンスの地で、あんたたちのその……濃厚な魔力供給エッチは、絶対に禁止だからね!」


「「……絶対無理です!!」」


一秒の迷いもなく、持子と鮎の二人が力強く即答した。


「……はぁぁぁ!?」


「雪よ、考えてもみろ! 美味いフレンチを食べて気分が高揚した後に、愛する下僕(鮎)に魔力を与えないなど、魔王としての名折れではないか!」


「そうです! パリのロマンチックな夜景を見ながら、持子様に激しく抱き潰されるなんて、考えただけで……あぁんっ、子宮が疼きますぅっ♡」


堂々と変態的な主張を展開し、二人だけの甘い夜の妄想に浸る持子と鮎。


「ちょっと! ルージュ、あんたからも言ってやりなさい!」


雪が助け舟を求めるようにルージュを見ると、彼女は優雅にワイングラスを傾ける仕草をしながら、ふふっ、と妖艶に微笑んだ。


「お生憎様、雪。わたくしには、二人が夜に何をしようが『知ったことではありませんわ』」


「えっ、あんた止めるとか、しないの?」


「当然ですわ。わたくしは気高き吸血鬼ですが、実のところ、他人の生々しい血を直接啜るなど大嫌いですの。魔力が必要ならば、わざわざ汗を流して交わらずとも、鮎と繋がっている『パス(経路)』を通じて自動的にわたくしへ供給されますからね」


ルージュは扇子で口元を隠し、どこ吹く風といった様子でしらばっくれた。


「ですから、二人が獣のように睦み合って魔力を放出しようが回復しようが、わたくしは知らぬ存ぜぬを貫かせていただきますわ。……優雅にシャンパンでも飲みながら、ただ魔力のおこぼれだけを頂戴いたします」


「あんた……! 自分だけ安全地帯で美味しい思いをする気ね……!」


ルージュのあまりにも突き抜けた態度に、雪は完全に言葉を失った。


「…………分かったわ。じゃあ、百歩譲って」


雪は、完全に諦めたような、死んだ魚のような目で持子と鮎を見た。


「……『程々』になさい。防音魔術はしっかりかけること。いいわね?」


「「「畏まりました!!」」」


ヨーロッパの戦火が収まった八月末。

極東の魔王と、それを支える有能なプロデューサー、そして愛と欲望と食欲にまみれた最強で愉快な下僕たちの、騒がしくも温かいパリへのバカンス旅行が、今、賑やかに幕を開けようとしていた――。


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