「魔王、『お姉さん』と呼ばされ完全敗北」
【正妻の余裕と絶対服従の「お姉さん」、そして天使の同情】
「……も、申し訳ございませんでした」
先ほどまで覇王の覚醒だなんだと息巻いていた極黒の魔王・恋問持子は、純白の天使(高子)の誘惑に完敗し、恐ろしい正妻(葉室桐子)のプレッシャーの前に、客間の畳の上で綺麗な正座の姿勢を崩せずにいた。
「ふん。全く、少し目を離せばすぐこれなんだから。持子は本当に油断も隙もないわね」
桐子は呆れたようにため息をつくと、持子の向かいの座布団に優雅に腰を下ろした。
その凛とした佇まいと、周囲の空気を浄化するような清冽な気配。
風間洋助の婚約者であり、八咫烏の次期代表という巨大な権力を持つ葉室桐子。
だが、彼女の真の恐ろしさはその肩書きだけではない。
彼女は、『光の神術』の使い手としては、あの天才巫女である風間楓をも凌ぎ、間違いなく日本でもトップクラスに君臨する絶対的実力者なのである。
「……コホン。桐子よ。実は今日、ここへ来たのは他でもないのだ」
持子は滝のような冷や汗をハンカチで拭うと、一つ咳払いをして表情を魔王のそれ(ただし威厳は三割減)に戻した。
「わしは、合気武道部の夏合宿での度重なる禊と、仲間への魔力譲渡を繰り返しているうちに……なんと、『光の魔力』に目覚めたのだ!」
バァァァァンッ!
と効果音が鳴りそうな勢いで、持子は己の胸を張った。
「ほう?」
桐子の切れ長で美しい瞳が、興味深そうにスッと細められる。
「自分でも確かな手応えを感じておる。漆黒の闇の魔力と、純白の光の魔力が、わしの中で混ざり合って新たな力を生み出しつつあるのだ! ……だが、これが本当に正しい道筋なのか、それともさらに先へと至る道があるのか。光の神術の最高峰たる貴様に、少し導いてほしくてな……」
持子はチラリと桐子の顔色を窺いながら、もじもじと指先を合わせた。
天下の覇王を目指す魔王が、恋敵であり天敵でもある光の術者に頭を下げる。
これは董卓のプライドをかなりの部分で削り落とす行為であった。
しかし、桐子はクスリと優雅な笑みを浮かべ、持子に向かってピシャリと言い放った。
「……持子。あなた、最近私に甘えっぱなしね?」
「グッ……!」
持子は、喉の奥に小骨が刺さったように言葉を詰まらせた。
(い、痛いところを突かれた! 確かに、何かとこの女の力をアテにしてしまっている自分がいる……! ぐぬぬ、反論できん!)
図星を突かれてワナワナと震える持子を見て、桐子はさらに極悪で、そして完璧に美しい笑みを深めた。
「ふふっ。まあいいわ。教えてあげないこともないけれど……。じゃあ持子、これからは私のことを『桐子お姉さん』って呼びなさい」
「……………………はい?」
持子の脳が、一瞬、処理を停止した。
「き、桐子、お姉さん……だと?」
「ええ。そうよ。心を込めて、可愛らしくね」
「イ、イヤイヤイヤ!! それは違うだろう!!」
持子はバンッ! と畳を叩いて猛抗議した。
「わ、わしは絶世の美女にして魔王だぞ!? しかも中身の魂は三国志の覇王・董卓! お前のような小娘を捕まえて、お姉さんなどと呼べるわけがなかろうがァァァッ!」
「あっそ。じゃあ教えない」
プイッ。
桐子はあっさりとそっぽを向き、立ち上がろうとした。
「ま、待て待て待て待てェェェッ!!」
持子は慌てて桐子のスカートの裾にすがりついた。
ここで光のトップ層からの助言を失えば、せっかく芽生えたカオス魔力の覚醒が遠のいてしまう!
「頼む! この通りだ! 他の条件ならなんでも飲む! わしの第一下僕である本多鮎のサイン入り写真集を十冊やろう!」
「いらないわよそんなもの。……私を『桐子お姉さん』と呼ぶ。条件はそれだけよ」
桐子の瞳は、絶対零度のシベリアの如く冷酷であり、一歩も引く気配がなかった。
持子は正座のまま、ギリギリギリ……! と奥歯を噛み締め、長考に入った。
(くっ……! 屈辱だ! なまら屈辱だぞ! わしが、お姉さんと呼ぶなど……! だが、ここで意地を張って力を得られぬのは、覇王としての器が小さすぎるというもの! 韓信の股くぐりという故事もある! ここは……ここは耐え忍ぶのだ、董卓!)
数分間の、まるで永遠にも似た葛藤の末。
持子は、ブルブルと全身を小刻みに震わせ、顔を真っ赤に染め上げながら、蚊の鳴くような声で絞り出した。
「……き、きりこ……」
「聞こえないわ」
「……桐子……っ、お姉……さんっ……」
ポタッ、と。
持子の黄金の瞳から、屈辱と敗北の血の涙がこぼれ落ちた。
「ふふふっ。よし!」
桐子はパァッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべると、持子の頭にポンッと手を乗せた。
「えらい、えらい。よくできました、持子ちゃん」
ナデナデナデ。
桐子の白魚のような美しい手が、持子の漆黒の髪を、まるで言うことを聞いたペットの犬でも褒めるかのように優しく撫で回す。
(あ、あぁ……わしの、わしの魔王としての尊厳が……音を立てて崩れていく……っ!)
持子が魂の抜け殻のようになっていると、桐子は撫でる手を止め、ニッコリと微笑んだまま、とんでもない爆弾を投下した。
「――これで、洋助はあなたの『お兄さん』になったわね。兄妹なんだから、お兄さんにときめいたり、変なちょっかいを出したりしないものよ? 分かるわね?」
「………………は?」
持子は、ポカンと口を開けた。
「……洋助が、お兄さん……?」
「そうよ。あなたが私を『お姉さん』と呼んだんだから、私の婚約者である洋助は義理の『お兄さん』。……持子。あなた、洋助に惚れてるんでしょう?」
**グサァァァァァァッッ!!!!**
持子の心臓に、目に見えない巨大な聖剣が、柄の根元まで深々と突き刺さった。
(ば、バレておったァァァッ!? わしが洋助のあの無自覚なタラシスマイルに胸をキュンキュンさせて、女としての初恋を自覚して合宿の温泉で大号泣したことが……なぜこの女にバレておるのだ!?)
持子はパクパクと金魚のように口を動かすが、声が出ない。
桐子は、完璧なまでの「正妻の余裕」と「絶対的な防壁」を構築していた。
(……なんという恐ろしい女だ。わしを『妹』というポジションに強制的に固定することで、洋助に対する恋愛感情を倫理的・物理的に完全に封殺しおった! これが……これが八咫烏の次期代表、正妻の底力……!)
持子の脳裏に、同じく洋助に想いを寄せながらも、桐子という絶対的障壁の前に涙を飲んだ八咫烏の葉室鶴子の顔が浮かんだ。
(……鶴子よ。お前の気持ち、今なら痛いほど分かるぞ。……もう、敗れたのだ。戦う前から、いや、出会った時から、わしも鶴子も、この桐子という完璧な女に……完全に、完敗なのだ……!)
チーン、と。
持子の内側で、初恋の終わりの鐘が虚しく鳴り響いた。
「……洋助のことは、頼れる『兄』として純粋に慕いなさい。それなら、特別に許してあげるわ。……それと、これからは私を呼ぶ時、必ず『お姉さん』をつけること。いいわね?」
桐子の言葉は、優しく、しかし絶対に逆らえない呪い(バインド)となって持子を縛り上げた。
持子は、完全に折れた心と、わずかに残った魔王のプライドの残骸をかき集め、深く、深く畳に手をついて頭を下げた。
「……はい、観念いたしました。……桐子、お姉さん」
その完全降伏の宣言を聞いて、桐子は扇子でも広げるかのような優雅な仕草で、満足げに微笑んだ。
「良し! 素直で大変よろしいわ!」
――その恐るべき女の戦い(というか一方的な蹂躙)の一部始終を、客間の端っこからこっそりと覗き見ている小さな影があった。
空になったお盆を抱えたまま、襖の陰に隠れていた純白の天使、風間高子である。
高子は、かつて天下を恐怖で支配したはずの極黒の魔王が、桐子の前で完全に牙を抜かれ、涙目でひれ伏している姿を見て、ポツリと、心底同情するような声で呟いた。
「……可哀想な持子お姉ちゃん……」
高子はすべてを見ていた。そして、子供ながらに察してしまったのだ。
この氷川神社の客間において、真のヒエラルキーの頂点に君臨しているのは、魔王でもなく、間違いなく「桐子お姉ちゃん」なのだということを。
夏の終わりの蝉しぐれが、持子の完全敗北を慰めるように、ジリジリと境内に鳴り響いていた。




