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「欲望覚醒――魔王のおっぱいが全てを変える日」

合気武道部の夏合宿も、いよいよ五日目を迎えていた。

季節は夏。照りつける太陽がジリジリとアスファルトを焼く下界の喧騒から遠く離れた、東京の端に位置する氷川神社の秘境。極秘で神聖なこの土地で繰り広げられる、波乱と筋肉と、そして青春の欲望にまみれた夏合宿である。


「はぁっ、はぁっ……!」


「アツゥイ……! 息が、息が詰まるっす……!」


午前九時。朝食と掃除を終えた部員たちは、板の間の道場に集まっていた。すでに太陽は高く昇り、クーラーなどという文明の利器が存在しない古い木造の道場内は、瞬く間にむせ返るようなサウナ状態と化していた。

そんな過酷な環境の中、一年生たちは「技の研究(技研)」の真っ最中であった。


「いいか、力で投げるのではない! 相手の力を利用し、円の理に巻き込むのだ!」


絶世の美女であり、黄金の瞳を持つ極黒の魔王・恋問持子の怒号が、熱気に満ちた道場に響き渡る。

身長175cmの長身と、神が計算し尽くした「黄金比」のプロポーション。その白磁のような肌からは滝のように汗が流れ落ち、道着をピッタリと肌に張り付かせている。しかし、その圧倒的な美貌と、三国志の暴君・董卓の魂から放たれる覇気は、暑さなど微塵も感じさせないほどの威圧感を持っていた。


「……ふんっ!」


ドスゥンッ!

無口で真面目な一般科の一年生、門蒼真が、力任せの投げを捨て、持子から教わった「相手の力を床へ逃がす」感覚を必死に身体に叩き込んでいる。高倉健のような不器用な顔つきの彼だが、持ち前の圧倒的な身体能力が、徐々に合気の繊細なことわりと融合し始めていた。


「すごい……! 門くん、今の動き、完璧な型に近づいてます!」


プライドが高く努力家の高橋玲央が、目を輝かせて門の動きを観察し、自身の教科書通りの美しい型へと落とし込んでいく。


「あ、それなら分かります! お水と一緒に回る感覚ですよね!」


異常な体の柔らかさを持つ阿部凛花が、回転系の投げを軽やかに舞うように放ち、主将の千手美貴から「うんうん! 凛花ちゃん、その調子!」と太鼓判を押されている。


「……相手の重心が動く、その虚を突く。なるほど、摩擦係数と筋肉の収縮のタイミングですね」


冷静で知的な南原紗良も、千手の最速の入り身を間近で観察し、持ち前の高い観察力で相手の重心を読む技術をさらに研ぎ澄ませていた。

一年生の五人中、四人が確実に、そして劇的に成長の階段を駆け上がっていた。


しかし――。


「あたたたっ! しまった、また足がもつれたっす!」


バタンッ! と、無様な音を立てて道場の床に転がったのは、一般科の一年生、佐藤陽翔だった。


「阿呆! 陽翔、お前はさっきから何をやっておるのだ! 腰が高い! 腕の力だけで相手を崩そうとするなと何度言えば分かる!」


持子が呆れたようにため息をつく。


「す、すんません持子先輩! 頭では分かってるんっすけど、いざやろうとすると身体がついていかないというか……!」


陽翔は「えへへ」とお調子者全開の笑いを浮かべ、後頭部を掻きながら立ち上がった。


「お前は受け身だけは一人前だが、技の理屈を身体で表現する能力が決定的に欠けておる! もっと丹田に意識を集中させよ!」


「うす! 頑張るっす!」


陽翔は元気よく返事をし、再び稽古に戻る。

しかし、彼の心の中は、その明るい表面上の態度とは裏腹に、どす黒い悔しさと焦燥感でぐちゃぐちゃに煮えくり返っていた。


(……くそっ! くそっ! くそぉぉぉっ!!)


陽翔は、同期の仲間たちの動きを横目で盗み見ながら、奥歯をギリッと噛み締めた。


(蒼真の奴、最初はただの力任せだったのに、どんどん動きが洗練されてきやがる! 玲央ちゃんは元から型が綺麗だし、凛花ちゃんはバネみたいな動きでスイスイ技を決めてる! 紗良ちゃんなんか、俺の動きを完全に読んで、俺が力入れる前にコカしやがる……!)


佐藤陽翔は、一年生五人の中で、明確に「一番弱い」。

技の熟練度が極端に低いのだ。みんなが先輩たちのアドバイスを理解し、すぐに実践して実感を得ている中で、自分一人だけが、その感覚を全く掴めずにいた。


(俺だって……俺だって、頭では分かってるんだよ! 円の動きとか、脱力とか! でも、いざ相手を前にすると、どうしても力が入っちまうし、足の運びが分かんなくなるんだ……!)


「ア、アカン……! 限界だ……!」


昼前。道場の気温がいよいよ危険水域に達し、部員たちの体力が削り取られていく。


「ええい! ここまでだ! 全員、水着に着替えい! 川へ飛び込むぞ!!」


持子の号令で、部員たちはぞろぞろと道場を飛び出し、神社の奥の川へとダッシュした。


ザバーーーン!!


「ぷはぁっ! 生き返るっすーー!!」


陽翔は冷たい川の水に全身を沈め、歓喜の声を上げた。しかし、その笑顔の裏で、彼の心は沈んでいた。


(こうやって暑くなって川に逃げ込んで……また道場に戻って……の繰り返し。みんなはそのサイクルの中で確実に強くなってるのに、俺だけがずっと足踏みしてる。このままじゃ、俺だけ完全に置いていかれる……!)


陽翔は川の水をバシャバシャと叩き、自分自身への不甲斐なさに苛立っていた。


「よし! 十分に冷えたな! 道場へ戻るぞ!」


「またですかぁぁぁ!?」


持子の容赦ない声に、一年生たちは悲鳴を上げながら川から上がり、濡れた身体のまま道着を着て道場へ向かって走り出す。

陽翔も重い足取りで川から上がろうとした。

しかし、その時。


「……陽翔。少し残れ」


背後から、低く、しかし有無を言わせぬ威厳に満ちた声が響いた。

振り返ると、そこには黒いビキニ姿の持子が、濡れた長い黒髪をかき上げながら、黄金の瞳でじっと陽翔を見つめていた。

その絶世のプロポーションと、水滴が滴る白磁の肌は、思春期の男子の理性を軽く吹き飛ばすほどの破壊力を持っている。 しかし、今の陽翔には、その美しい姿にスケベな視線を送る余裕すらなかった。


「……持子先輩? どうしたんすか?」


陽翔は、努めて明るい声を作って首を傾げた。

持子は腕を組み、ゆっくりと陽翔に近づいてくる。


「……悔しいのか?」


ズキッ。

持子の短い問いかけが、陽翔の心の一番柔らかい部分を正確にえぐった。


「え? 何がっすか? 別に俺はいつも通り……」


「虚勢を張るな。貴様、さっきから道場で、他の奴らの動きを見ては焦っておったであろう。一人だけ技の感覚が掴めず、置いていかれるのが怖いのだな?」


「……っ!」


陽翔の顔から、お調子者の仮面が剥がれ落ちた。

黄金の瞳は、すべてを見透かしていた。董卓として数多の部下を率い、人間という生き物の本質を嫌というほど見てきた魔王の目をごまかすことなど、ただの高校生にできるはずがなかった。


「……正直、悔しいです」


陽翔はうつむき、ぽつりとこぼした。


「俺……頭悪いし、不器用だから。合気武道の繊細な身体の動きとか、重心の移動とか、言われても全然わかんないんです。蒼真みたいに才能もないし、玲央ちゃんみたいに完璧にもできないし……俺、この部活に向いてないんじゃないかって……」


初めて見せる、佐藤陽翔の弱音。

同期の中で一番弱いという劣等感が、彼の心を真っ黒に塗り潰していた。

しかし、持子は陽翔の弱音を聞いても、同情するでもなく、慰めるでもなく、ただ「ふん」と鼻で笑った。


「阿呆。理屈など、分からなくて良い」


「え……?」


「頭で理解できぬなら、身体で『感じろ』!」


持子はビシッ! と陽翔の胸に指を突きつけた。


「お前は、人一倍受け身がうまい。どんなに鋭い技をかけられても、無意識のうちに力を逃がし、ダメージをゼロにする天才的な受け身の才能がある。それはつまり、誰よりも『相手の技の軌道と力の流れを、身体で直接味わっている』ということだ!」


「身体で、味わう……?」


「そうだ! 受けが上手い奴は、それだけ相手の技を盗む機会が多いということだ! わしや千手、森、そして同期の奴らの技を、受けて受けて受けまくれ! その中で、相手がどうやって貴様を崩したのか、その『感覚』だけを身体の細胞に刻み込めばいいのだ!」


持子の言葉は、陽翔の脳裏に稲妻のように突き刺さった。


(……そうか。俺は頭で理解しようとしてたからダメだったんだ。受け身を取る瞬間の、あの『投げられる感覚』の逆をやれば……!)


「あとは身体を鍛えろ」


持子は陽翔の細い腕をペチッと叩いた。


「お前は男だ。今はまだヒョロヒョロだが、やればやるだけ筋肉はつく。合気は力ではないが、基礎的な筋力と体幹がなければ技は成立せん。女である凛花や玲央よりも、筋肉という点では絶対的な伸びしろがでかいのだぞ!」


陽翔はハッと顔を上げた。

持子の言葉には、圧倒的な説得力があった。魔王からの、最大級の叱咤激励。

普通ならば、ここで感動の涙を流し、「はいっ! 俺、やります! 死ぬ気で頑張ります!」と叫んで道場へ駆け出していくところだろう。

しかし――佐藤陽翔は、佐藤陽翔であった。


「……分かります。持子先輩の言う通りっす」


陽翔は、申し訳なさそうに視線を泳がせた。


「でも〜……俺、そこまで根性無いんですよ」


「……は?」


「みんなと一緒なら、逃げ場がないからなんとかやりますけど……一人で筋トレとか、絶対サボっちゃうんですよね。俺、基本的に楽して生きたいタイプなんで。キツいのはちょっと……」


「…………」


川のせせらぎだけが、静かに響いた。

持子は、ポカンと口を開けて陽翔を見つめた。


(なんという……なんという救いようのないクズだ!)


普通、ここまで真剣に先輩からアドバイスを受けたら、少しはやる気を見せるものではないのか。自分の欲望にどこまでも真っ直ぐで、弱くて悔しいくせに、楽して強くなりたいと堂々のたまうこの男。叱咤激励など、この怠惰な魂には全く響かないのだ。

しかし。


「……ふっ、ふはははははっ!!」


持子は突如、腹の底から愉快そうに大爆笑した。

「なまら面白い奴だ、貴様は! 良いぞ、その正直さ、嫌いではない!」


前世の董卓も、己の欲望(酒、肉、女、権力)にどこまでも忠実であった。綺麗事を並べる偽善者よりも、自らの醜い欲望を隠さない陽翔のような男の方が、よほど人間らしくて扱いやすい。

持子は黄金の瞳を妖しく細め、ニヤリと極悪な笑みを浮かべた。


(……ならば、この男を動かすには『アレ』しかないな)


持子は、昨夜の温泉で南原紗良に提案した「おっぱいバレー作戦」を思い出していた。あの時は紗良に一蹴されたが、今こそ、魔王自らがその禁断の作戦を実行に移す時だ!


「おい、陽翔」


持子は、ゆっくりと陽翔に近づいた。

そして、豊満な胸元を包む黒いビキニの、ホルターネックの紐に手をかけ――。

クイッ。


「お……?」


陽翔の目が、瞬時に見開かれた。

持子が紐を少し引っ張り、胸元の谷間がさらに露わになるようにズラしたのだ。

水滴が滴る、白磁のような柔肌。神が創り出した黄金比の、その禁断の領域が、ほんのわずかに、しかし圧倒的な質量を伴って陽翔の視界に飛び込んできた。


「おーーーーっ!?」


陽翔の顔が、一瞬にして「修行に悩む少年」から「欲望に真っ直ぐなスケベ全開のサル」へと変貌を遂げた。鼻の下がだらしなく伸び、目は完全に胸元に釘付けになっている。


(ちょ、持子先輩!? なにやってんすか!? いや、最高っすけど! ヤバいっすけど!!)


持子は、ビキニの紐を持ったまま、悪魔のように甘く、蠱惑的な声で囁いた。


「……お前が、誰よりも強くなったら。わしのこの『おっぱい』、見せてやるぞ。……どうだ?」


ドッキォォォォォォォォンッ!!!


陽翔の脳内で、ビッグバンが起きた。

世界的なトップモデルであり、絶世の美女である恋問持子。その、神の造形物たるおっぱい。

合宿三日目の夜、川の中から双眼鏡で覗き見ようとして鼻血を出した、あの「至高の宝」。

それが、強くなれば、合法的に、目の前で拝めるというのか!!!


「やります!!!!」


陽翔は、凄まじい大声で叫んだ。


「やるやるやるやります!! 俺、死ぬ気でやります! 筋肉千切れるまでやります! 絶対強くなります!! うおおおおおおおおっ!!」


ズバババババンッ!!


陽翔は、まるでロケットのような凄まじいスピードで川から飛び上がり、水しぶきを上げながら道場へと一直線にダッシュしていった。その背中には、もはや劣等感の欠片もなく、ただひたすらに「おっぱい」という名の聖杯を求める狂戦士バーサーカーのオーラが立ち上っていた。


「ふはははは! チョロい! チョロすぎるぞ佐藤!! 男のスケベパワー、恐るべしだな!」


持子は腹を抱えて高笑いをした。やはり、わしの目に狂いはなかった。人間を動かす最大の原動力、それは「欲望」なのだ!

しかし、その時。


「……持子先輩、ずるいです」


「ビクゥッ!?」


背後の茂みから、怨念のこもった冷たい声が響いた。

振り返ると、そこには濡れた道着姿の南原紗良が、極寒のシベリアのような冷たい視線で持子を睨みつけていた。彼女は、道場へ戻る途中で持子と陽翔のやり取りを、最初から最後まで隠れて見ていたのだ。


「さ、紗良……! お前、いつからそこに……」


持子が冷や汗を流す。


「最初から全部見ていました。……持子先輩、最低です。あんな、おっぱいバレーみたいな卑怯な手を使って佐藤くんのやる気を出させるなんて」


紗良の知的でクールな顔が、怒りと嫉妬でわずかに歪んでいる。

昨夜の温泉で、持子から「佐藤に強くなったらおっぱい見せるって言ってみろ」とからかわれ、「そんな事言えるわけないじゃないですか!」と一蹴した紗良。

しかし、いざ持子が自らの肉体を餌にして陽翔に火をつけたのを見て、彼女の胸の奥で、どうしようもないモヤモヤとした感情が渦巻いていたのだ。


「ふ、ふん! わしは昨日、お前に『やれ』とアドバイスしたではないか! 意地を張ってやらなかったお前が悪いのだ! 使える武器(色気)を使わずして、どうして男を動かせるというのだ!」


持子は魔王の威厳を保とうと、強がって言い返した。


「……持子先輩のバカ! 不潔! スケベ魔王!」


紗良は顔を真っ赤にして、捨て台詞を吐くと、プイッと背を向けて道場へ走っていった。


「う、うーん……」


残された持子は、ポリポリと頬を掻いた。


(……まあ、結果的に佐藤がやる気になったのだから、良しとするか。南原も、あれで佐藤への対抗心から稽古に身が入るだろうしな)


持子は己の教育方針(という名のセクハラ)に満足し、悠々と道場へ戻っていった。


***


道場へ戻った持子が見たのは、信じられない光景だった。


「せいやぁぁぁっ!!」


ドスゥンッ!


「痛えっ! けど、今の感覚……なるほど、こうやって重心を崩すのか!」


佐藤陽翔が、今まで避けていた千手や森といった三年生、さらには門蒼真に自ら進んで技をかけられに行っていたのだ。

バンバン投げられ、床に叩きつけられる。しかし、持ち前の天才的な受け身でダメージを無効化しながら、彼は投げられる瞬間の「力の流れ」を、狂気じみた集中力で身体に刻み込んでいた。


「おい、どうしたんだ佐藤の奴……。さっきまで死にそうな顔してたのに」


玲央が目を丸くする。


「なんか、目が血走ってるというか……すごい気迫だよね」


凛花もドン引きしながらも感心している。


「……気持ち悪いです。煩悩の塊です」


紗良だけは、その気迫の源泉おっぱいを知っているため、ゴミを見るような冷たい視線を送っていたが、彼女自身も陽翔の急成長に焦りを感じ、「私だって負けません!」と、いつも以上に鋭い崩しの技を連発していた。

陽翔はメキメキと上達した。

頭で考えるのをやめ、ひたすらに「身体で感じた理」を再現する。その貪欲な姿勢は、周囲の部員たちにも強烈な刺激を与え、道場内の稽古の熱量は、かつてないほどに高まっていった。


***


正午。

凄まじい熱気の午前の稽古を終え、部員たちは昼食の準備にとりかかっていた。

今日の昼食は「カレーうどん」である。

台所でうどんを茹でていた門蒼真が、隣で野菜を(相変わらず不器用に)切っている陽翔に声をかけた。


「……陽翔。お前、すごいな」


「え?」


陽翔が包丁を止めて振り返る。


「さっきの稽古。お前の受け身からの反撃、全く無駄がなかった。あの短時間で、あそこまで感覚を掴むとはな。……お前のその、強さへのモチベーションはなんだ?」


寡黙で真面目な蒼真からの、純粋な称賛と疑問。

普通なら「合気武道の奥深さに気づいたからだよ」とか「お前に負けたくなかったからさ」とカッコつけるところだろう。

しかし、陽翔は根っからの正直者であり、隠し事ができないバカであった。


「えへへ……実はさ」


陽翔は周りをチラチラと気にしながら、蒼真の耳元に顔を寄せた。


「……持子先輩がさ。『俺が誰よりも強くなったら、おっぱい見せてやる』って約束してくれたんだよ!」


「…………」


蒼真の包丁の動きが、ピタリと止まった。


「……冗談だろ?」


蒼真は、高倉健のような渋い無表情のまま、低い声で問い返した。


「マジマジ! マジなんだって! あの絶世の美女の、しかもあの豊満なおっぱいだぜ!? あんなの見れるんだったら、俺、腕の一本くらい折れてもいいね! だから俺、死ぬ気で強くなるっすよ!!」


陽翔は鼻息を荒くして、カレーの鍋をかき混ぜ始めた。

蒼真は、無言のまま玉ねぎを切り続けた。

しかし、その胸の内では、大嵐が吹き荒れていた。


(……持子先輩の、おっぱい)


合宿三日目の夜、川の中で陽翔に無理やり双眼鏡を押し付けられ、湯気の向こうに薄っすらと見てしまった、あの神々しいまでの黄金比のプロポーション。あの凄まじい破壊力。

無口で真面目、硬派を絵に描いたような門蒼真だが、彼もまた健全な男子高校生である。

あの時の光景は、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。それが、強くなれば合法的に見せてもらえるだと……!?


(……いや、落ち着け。俺は武道を志す者。そんな煩悩で動いていいはずがない。だが……!)


昼食の配膳中。

蒼真は、広間の隅で麦茶を飲んで休憩していた持子のもとへ、スッと音もなく近づいた。


「……持子先輩」


「ん? なんだ蒼真」


持子が湯呑みを下ろす。

蒼真は、周囲に誰もいないことを確認し、極限まで声を潜めて尋ねた。


「……先ほど、佐藤が『自分が強くなったら、持子先輩がおっぱいを見せると約束してくれた』と言っていたのですが……。あれは、本当ですか?」


真面目すぎる顔で、真剣に「おっぱい」について尋ねる蒼真。そのギャップに、持子は思わず吹き出しそうになるのをこらえた。


「うん。本当だぞ」


持子はニヤリと笑った。


「……そう、ですか」


蒼真は深く頷き、無表情のまま立ち去ろうとした。

しかし、魔王の黄金の瞳は、蒼真のその無表情の奥底に燃え盛る、熱い煩悩の炎を見逃さなかった。


「おい、蒼真」


「……はい」


持子は、蒼真の耳元に顔を寄せ、悪魔の囁きを落とした。


「お前も……見たいのか?」


「…………っ!」


蒼真の肩が、ビクッ! と大きく跳ねた。

顔は無表情のままだが、耳の先が茹でダコのように真っ赤に染まっている。真面目ゆえに、嘘がつけないのだ。彼の中で、武道家のプライドと男子高校生の根源的欲望が激しく激突し、沈黙という答えを弾き出していた。


「ふははは! 良いぞ、蒼真。お前も男だな!」


持子は蒼真の肩をバシッと叩いた。


「よかろう! お前がこの合宿で極限まで強くなり、わしを唸らせるほどの合気を身につけたら……お前にも、おっぱい見せてやる!」


「…………っ!!!」


蒼真の目が見開かれた。

彼は無言のまま、深く、深く、祈りを捧げるように一度だけ頷くと、踵を返し、かつてないほどの鋭い殺気……いや、気迫を漂わせて自分の席へと戻っていった。


(ふはは! これで蒼真も覚醒間違いなしだな! わしのおっぱい一つで、部員たちの実力が底上げされるなら安いものよ!)


持子が自分の策の完璧さに酔いしれていた、その時である。


「……あの、持子先輩」


「ビクゥッ!?」


またしても背後から声をかけられ、持子は変な声を出した。

振り返ると、そこには目をキラキラと輝かせ、頬を異常なほど紅潮させた阿部凛花が立っていた。


「り、凛花! お前、いつから……」


「最初から全部聞いてましたぁっ!」


凛花は両手で自分の頬を包み込み、身悶えするように身体をくねらせた。


「持子先輩っ! 私、持子先輩の美しさと強さに、心底惚れ込んでます! ですから……っ!」


凛花は異常な体の柔らかさを活かして、持子にスススッ! と蛇のように接近し、至近距離から熱い吐息を吹きかけた。


「私が誰よりも強くなったら……持子先輩のその完璧なおっぱい、私に、も……『揉ませて』くださいっ!!」


「はぁっ!?」


持子は思わず後退りした。


(見せるだけではなく、揉むだと!? しかも女子から!? なんという狂信的な百合の波動……!)


しかし、持子は魔王である。己に向けられる狂信的な愛と欲望を、拒絶するような真似はしない。


「……ふっ、ふはははは! 良いだろう、凛花! 貴様のその狂気、気に入った! 見事わしを超えるほどの美しい回転を身につけたら、存分に揉ませてやろう!」


「きゃあぁぁぁぁっ!! 持子先輩、一生ついていきますぅぅぅっ!!」


凛花は感極まって床に倒れ込み、バタバタと長く美しい手足をばたつかせて歓喜の舞を踊り始めた。


***


そして、運命の午後一時の稽古。

道場内の空気は、午前のそれとは完全に異なっていた。


「せいやぁぁぁぁぁっ!!」


「うおおおおおおっ!!」


「持子先輩ぃぃぃっ!!」


佐藤陽翔、門蒼真、阿部凛花の三人が、まるで鬼神が憑依したかのように、死に物狂いで稽古に励んでいたのである。

陽翔は、持ち前の受け身を極限まで活かし、投げられては瞬時に起き上がり、相手の懐に飛び込んでいく。その目は完全に血走り、「おっぱい……おっぱい……!」という呪文をブツブツと唱えている。

蒼真は、力任せを完全に捨て去り、無言のまま、ただひたすらに完璧な円運動を追求していた。その一挙手一投足から放たれる気迫は、まるで真剣での斬り合いをしている侍のようだが、その原動力は間違いなく「おっぱい」である。

凛花に至っては、その異常な身体の柔らかさを限界まで駆使し、もはや関節がどうなっているのか分からないほどの変則的な回転投げを繰り出していた。彼女の瞳には、持子の胸というゴールしか映っていない。


「……な、なんなのよアイツら! 急に覚醒したんだけど!?」


高橋玲央が、三人の凄まじい気迫に圧倒され、ドン引きしながら叫んだ。


「私だって……私の完璧な型が、あんな連中に負けるわけにはいかないわ! いくわよ!」


プライドの高い玲央も、三人の異常な熱量に完全に引っ張られ、負けじと自身の型を極限まで研ぎ澄ましていく。

そして、南原紗良。


「……バカみたい。どいつもこいつ、おっぱいに釣られたサルです。特に佐藤くん……あんな、わかりやすい誘惑に負けて鼻の下を伸ばして……っ! 腹が立ちます! とても腹が立ちます!」


紗良は、怒りと嫉妬で知的な瞳をギラギラと燃やしていた。


「佐藤くんなんかに、絶対に負けません! 私の完璧な重心崩しで、あのスケベザルの鼻っ柱をへし折ってやります!」


彼女もまた、別の意味で限界を突破し、冷酷無比な崩しの技を次々と炸裂させていた。


「……おい、持子」


道場の隅で、その狂乱の稽古風景を眺めていた副主将の森が、引きつった顔で持子に声をかけた。


「一年生たち、一体どうしたんだ? 午前の疲れもあるはずなのに、あの気迫……異常だぞ」


「あはは……みんな、なんか目がイッちゃってるよね……。私、あんな気迫で来られたらちょっと怖いかも……」


主将の千手も、ドン引きしながら苦笑いしている。


「ふっ、ふははははは!」


持子は、腕を組んで高らかに笑い飛ばした。

「気にするな! あれは、彼らが自身の殻を破り、新たな次元へと昇華するための『儀式』なのだ! 理由など何でも良い! 重要なのは、彼らが今、限界を超えて強くなろうとしているという事実のみ!」

持子は黄金の瞳を輝かせ、熱狂渦巻く道場を見渡した。


(ふはは! わしの色気一つで、これほどの軍勢(一年生)が覚醒するとは! やはりわしは、天下を統べる魔王としてのカリスマに溢れておるな!)


かくして、合気武道部の夏合宿五日目、午後の稽古。

「魔王のおっぱい」という、世界で最も不純で、しかし世界で最も強力なモチベーションを与えられた一年生たちは、疲労も限界も忘れ、死に物狂いで合気の理を身体に叩き込んでいくのだった。

道場の屋根を突き破らんばかりの若き欲望と気迫。

それは間違いなく、彼らが本物の武道家へと成長するための、カオスでコミカルな、忘れられない一日となったのである。


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