「魔王、初恋に敗れ泣く。」
四日目3
ザァァァァァァァァッ!!
天然の岩風呂に降り注ぐ激しい雨音は、依然として衰える気配を見せない。もうもうと立ち込める白い湯気の向こうで、極黒の魔王・恋問持子の破天荒すぎる恋愛遍歴(下僕収集録)を聞かされた女子部員たちは、完全に魂を抜かれた状態で固まっていた。
「……恋愛のスケールがバグりすぎてて、全く参考になりません……」
高橋玲央が、豊かな胸元を手で隠しながら、遠い目をして呟く。
「法と倫理と生物学の壁を全て粉砕しています。恋愛というより、カルト教団の教祖と信者の関係ですね」
南原紗良が、冷静な毒舌と共に、お湯をピシャリと持子の方へ跳ね返した。
「もう、持子ちゃんってば本当に規格外なんだから! あははははっ!」
主将の千手美貴だけがお腹を抱えて爆笑している。
そんな混沌とした状況の中。
ただ一人、阿部凛花だけは、ボフンッ! と顔から火が出るほど真っ赤になり、目をきらきらと輝かせて持子を見つめていた。
「す、すごいです持子先輩……っ! 国境も性別も、国家権力さえも超えて、すべてを愛とカリスマでひれ伏させるなんて……っ! やっぱり持子先輩は、世界一カッコいいですぅぅぅっ!!」
「ふはははは! そうであろう、そうであろう! 凛花よ、お前もわしの下僕になるか!?」
「ええっ!? そ、それは……心の準備が……っ!」
「おい凛花、やめとけ! そこに取り込まれたら人間として終わるぞ!」
玲央が必死に凛花の肩を揺さぶって止める。
ドタバタ劇が続く中、凛花がふと、何かに気づいたように表情を真面目なものに変えた。
「……あの、持子先輩。一つ、真面目な質問をしてもいいですか?」
凛花の純粋な眼差しに、持子は「ん? なんだ、改まって」と首を傾げる。
「持子先輩は……女の人が好きなんですか? それとも、男の人は……?」
ドッキォォォォォンッ!!
温泉の空気が、一瞬にして凍りついた。雨音さえも消え失せたかのような、重苦しい沈黙。
(……あ、阿部さん、なんてことを……っ!)
玲央と紗良が、顔を青ざめさせて固まる。千手も笑いを止め、真剣な顔で持子を見つめた。
絶世の美女であり、世界的モデルであり、そして内側に三国志の暴君・董卓の魂を宿す恋問持子。そのセクシャリティという、あまりにも核心に触れる質問。
「…………うーむ」
持子は黄金の瞳を細め、腕を組んで、湯船の中で真剣に悩み始めた。
ブクブクブク……。口元をお湯に沈め、複雑な表情を浮かべる。
(……前世の董卓時代は、間違いなく女好きであった。酒と肉と美女を愛し、後宮を築くのが魔王の嗜み。男など、利用するか殺すかの対象でしかなかった……)
持子の脳裏に、血と欲望に塗れた前世の記憶が微かに蘇る。
(……しかし、今世はどうだ? 恋問持子として生まれ、女子高生として生きる今。わしの心は、間違いなく男(董卓)だ。女子を愛おしく思い、キスをし、下僕(恋人)にする。これは、前世の感覚に近い……)
持子はそこまで考えて、ふと、自身の内側で警鐘が鳴るのを感じた。
(……だが! 最近、少し風向きが変わってきた気がするのだ。エティエンヌの奴め、女体化してまで追ってきた執念には呆れるが、男だった頃のあいつの情熱的なアプローチに、わしの心は微かに……ドキッとしたのではなかったか? それに、朔夜からの告白も、保留にしておるが……悪い気はせんかった……)
(いや、それだけではない……っ!)
ズキュゥゥゥンッ!!
持子の脳裏に、一人の青年の顔が鮮明にフラッシュバックした。
風間洋助――楓の兄であり、あらゆるモノを絶死の兵器に変貌させる「武器の天才」。極めて誠実な性格でありながら、無自覚に女性を口説き落とし狂わせる「天性のタラシ体質」を持つ危険な男である。
(……あいつだ。あの洋助め、激戦の中でわしを庇い、さらりと『俺がお前を護る』などと甘い言葉を吐きおって……っ! あの時、わしの心臓は確かに『ドッキン!』と跳ねた! それだけではない、ことあるごとにあの無自覚なタラシスマイルと甘いセリフを浴びせられ、わしの胸は何度も『キュンッ』と締め付けられたのだ!)
持子はお湯の中でブルブルと身を震わせた。
(……しかし、その度に、洋助の婚約者である葉室桐子が現れ、『私の洋助様に近寄るな、この闇の魔王!』と絶対浄化の光を放って突っ込んできたせいで、有耶無耶になっていたが……)
(……冷静に分析すれば、わかる。わしの魂は董卓だが、この身体は間違いなく『女』なのだ! だから、女としての好みにドストライクな男に甘い言葉をかけられると、女性ホルモンが暴走して胸がキュンとしてしまう! そうだ、これは生物学的な抗いがたい反応!)
持子は黄金の瞳を限界まで見開き、自身の内なる感情の正体に気づいてしまった。
(……ということは、わしは男も好きなのか? いや、女としてのわしは、間違いなく風間洋助のような男が好み……ということになるのではないか!?)
(……待て。待て待て待て。洋助には、桐子という婚約者がおる。八咫烏の次期代表という巨大な権力を持ち、嫉妬深く闇の魔力を絶対殺すあの女が!)
ガガガガガガーーーンッ!!!
持子の脳内で、巨大な雷が落ちた。
(……そうすると、なんだ? わしは、好きになった男がすでに別の女のモノであったという、あの八咫烏の葉室鶴子と全く同じ状況……!)
(……絶世の美女であり、天下を支配すべきこの魔王たるわしが……女としての『初恋』に、戦う前から敗れていたというのかぁぁぁっ!?)
!!!
持子の表情が、かつてないほどの凄まじい衝撃に歪んだ。口から魂が抜けかけ、白目を剥きそうになりながら、お湯の中でワナワナと震え続ける。
そして、次の瞬間。
「う、う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
「「「ええええええっ!?」」」
女子たちの悲鳴が重なった。
今まで、暴君として、魔王として、常に上から目線で傍若無人に振る舞ってきた恋問持子が、顔をくしゃくしゃにして、子供のように大声を上げて泣き出したのだ。
「うわぁぁん! ぐすっ、ひっく……! わ、わしの……わしの初恋がぁぁぁっ! 戦う前から終わっておったぁぁぁ!! 洋助のバカヤローーッ!! 無自覚タラシのくせに婚約者なんか作りおってぇぇぇっ!!」
バシャバシャバシャッ!!
持子は大きな手でお湯を叩き、ポロポロと大粒の涙を流しながら号泣し始めた。その尊大で威厳のある態度は微塵もなく、ただの失恋した思春期の女子高生そのものであった。
「も、持子先輩!? ど、どうしたんですか急に!?」
玲央がパニックになりながら持子に駆け寄る。
「……心拍数と血圧が異常値です。精神的なショックにより、感情の防波堤が決壊した模様です!」
紗良も毒舌を忘れ、慌てて持子の背中をさすり始めた。
「あ、あの葉室鶴子の気持ちが……っ! 今なら、痛いほどわかるぞぉぉっ! 好きな男が別の女のモノだと分かった時の、この胸が引き裂かれるような痛み……っ! ううっ、鶴子ぉぉぉ……わしも、わしも同じだぁぁっ!」
持子は自身の豊かな胸をぎゅっと掴み、息も絶え絶えに泣き叫ぶ。魔王の心臓に、失恋という名の特級呪物が突き刺さった瞬間であった。
「持子ちゃん、よしよし、泣かないで! 大丈夫、持子ちゃんならもっといい男が絶対に見つかるから!」
千手が、まるで迷子をあやすお母さんのように、持子の頭を優しく撫でる。
「そ、そうです! 持子先輩は世界一の美女なんですから! あの風間洋助っていう人が見る目ないだけです! 私たちがついてますから!」
凛花も涙ぐみながら持子の手を握りしめる。
「うぅぅ……お前らぁ……ひっく、ぐすっ……! わし、わしは……っ!」
持子は四人の後輩と仲間に囲まれ、その優しさに触れてさらに涙を溢れさせた。雨音に混じって、しばらくの間、魔王の大号泣と女子たちの慰める声が響き渡った。
***
十数分後。
「……ズズッ。チーンッ!」
持子は千手から渡された手ぬぐいで盛大に鼻をかむと、深呼吸を一つした。
泣きはらした黄金の瞳は少し赤くなっていたが、その表情には、すっきりと毒気が抜けたような清々しさがあった。
「……コホン。取り乱したな、ひよっこ共」
バサァッ!
持子は濡れた髪を後ろにかき上げ、再び岩風呂の縁に腕を乗せ、あの尊大な「魔王スタイル」を完璧に復活させた。
「「「(切り替え早っ……!)」」」
女子四人が心の中で同時にツッコミを入れる。
「……正直に言おう。女は、好きだ。わしの心は男だからな。女子を愛おしみ、護りたいと思うのは当然の理。……しかしだ」
持子は、黄金の瞳を揺らし、先ほどの号泣の余韻を残しながらも、言葉を紡ぐ。
「……最近、自分でもよくわからんのだ。男も……好きかも知れん。身体が女ゆえか、好みの男に甘い言葉を囁かれると、胸がキュンとしてしまう自分がおるのだ。……あかんな。魔王たるわしが、己の女としての初恋に敗れていた事実に今更気づいて、大泣きするとは」
「「「…………(まあ、あれだけ泣けばスッキリもするか)」」」
凛花は、持子の葛藤と失恋の痛みを真摯に受け止め、さらに続けて質問を重ねた。
「……では、もう一つ。持子先輩は、女の子が好きで、心がおじさ……いえ、男の人なら、性転換とかも考えているんですか? 身体も男の人になりたい、とか……」
ゴクリ……。
温泉の緊張感が、再び高まる。
「それはない」
持子は、即座に、そして断固とした口調で言い切った。
「え……?」
「わしは、この身体(恋問持子)を気に入っている。性転換など、微塵も考えたことはない」
持子は、力強く、自身の想いを語り始めた。
(……わしの内側には董卓がおるが、同時に『オリジナル持子』の魂も、確かに存在しておる。この身体は、オリジナル持子が人生を賭けて、愛する立花雪(母であり姉のような存在)のために、モデルとしての成功を夢見て磨き上げてきたものだ……)
(……オリジナル持子は、人に愛されて生きてこなかった。孤独の幼少期の中で、雪への愛と、モデルという夢だけを心の支えにしてきた。わしは、そんなオリジナル持子の想いを、恩義を、夢を、絶対に引き継ぎたいのだ。雪を母として敬い、愛し、オリジナル持子が叶えられなかったモデルとしての頂点を、この身体で掴み取ってやる……!)
(……それに、わしは今のこの生活が、仲間たちが、愛おしくてたまらんのだ。オリジナル持子は愛されなかったが、今の持子は、みんな(合気武道部の仲間や愛してくれる人たち)に愛されている。だからこそ、わしもみんなを、大切に愛するようにしているのだろう……)
(……過去の前世(董卓時代)の失敗は、繰り返さん。力と恐怖で支配し、結果として誰からも愛されず、仲間に裏切られ、破滅した。……今のわしには、合気武道部の仲間がおる。家族のような、かけがえのない仲間たちが。……わしは、みんなと、この場所(合気武道部)を、大切に護り抜きたいのだ……!)
持子の黄金の瞳が、湯気の中で、かつてないほど真摯で、温かい光を帯びていた。
「わしは、心は男かも知れんし、身体の反応に戸惑うこともある。初恋に破れて泣くこともあるだろう。……だが、恋問持子としてのこの人生を、この仲間たちを、愛しておる。……だから、身体を変えるつもりなど、毛頭ない。わしは、わしのままで、雪への恩を返し、みんなを大切に護り、愛していくのだ。……そう、みんなに伝えておこう」
持子の、魂からの独白。
激しい雨音さえも、彼女の真摯な声を邪魔することはできなかった。
「……………………」
温泉の中は、深い感動に包まれていた。
玲央と紗良は、持子の秘められた想いの深さと、初恋に敗れてなお前を向く強さに、目頭を熱くして俯く。千手も、持子の仲間に向けられた愛の大きさに、温かい笑みを浮かべた。
凛花は、持子の言葉を一つ一つ、噛み締めるように聞いていた。
そして、顔を上げ、かつてないほど晴れやかで、誇らしげな笑顔を浮かべた。
「……持子先輩。ありがとうございます。心の整理が、出来ました」
「うむ。よろしい」
持子は、黄金の瞳を元のニヤリとしたものに戻し、岩風呂の縁に片腕を乗せ、ドヤァッ! と濡れた髪をかき上げた。
「凛花、お前は本当に良い質問をするのう。己の心に向き合い、わしの真意を引き出すとは。ふははは! 褒めて遣わす! わしの下僕になる資格は、十分にあるぞ!」
「はいっ!! 持子先輩!! 喜んで下僕になりますぅぅぅっ!!」
凛花が、ボフンッ! と顔から火が出るほど真っ赤になり、うるうるした目で持子を拝み始めた。
「ちょ、ちょっと待ったぁぁぁっ!!」
すかさず玲央が凛花に飛びつき、ヘッドロックをかけるようにして止めた。
「凛花、目を覚ましなさい! 感動的な雰囲気にごまかされてるけど、持子先輩の恋愛観は完全に狂ってるから! 取り込まれたら人間として終わるわよ!」
「そうですよ阿部さん。論理的思考を放棄してはいけません。洗脳の第一段階に入っています」
紗良も冷静に、しかし必死に凛花の腕を引っ張る。
「あはははは! 凛花ちゃん、持子ちゃんの下僕になるのは、合気武道の稽古よりキツいと思うよー!」
千手がバンバンとお湯を叩きながら大笑いした。
「ええーっ!? でも、持子先輩なら私、すべてを捧げても……っ!」
「ダメ絶対!!」
「ふはははははっ!! なまら面白い奴らめ! 苦しゅうない、苦しゅうないぞ!」
女子たちのドタバタなやり取りを見て、持子は腹の底から愉快そうに笑い飛ばした。
ザァァァァァァッ!
大自然の猛威が降り注ぐ中、秘境の天然温泉には、極黒の魔王の豪快な高笑いと、それに抗うひよっこ女子たちの賑やかな声が、いつまでもいつまでも響き渡っていた。
合気武道の稽古は休みとなったが、彼女たちはこの嵐の一日で、武道よりもはるかに混沌とし、そして温かい「魔王の愛の理」をしかと魂に刻み込んだ。
初恋の痛みも、規格外の恋愛遍歴も、すべてを笑い飛ばして受け入れる。合気武道部の絆は、この雨の日の温泉で、また一段と深く、強固なものへと変わっていくのだった。




