『水に学び、欲に敗れ、魔王に救われる』
✴︎三日目
季節は夏。照りつける太陽がアスファルトをじりじりと焼く、夏休み直前の私立聖ミカエル学園。その喧騒から遠く離れた、東京の端に位置する氷川神社の秘境。
深い森に囲まれた極秘で神聖なこの土地で、合気武道部の夏合宿は、いよいよ本格的な地獄の三日目を迎えていた。
「ふははは! 貴様ら、腰が高いぞ! 丹田に気を落とせ!」
早朝。まだ朝霧がうっすらと残る禊場の川の側で、三年生の恋問持子の怒号が響き渡った。
身長175cmの長身と、神が計算し尽くした「黄金比」のプロポーションを持つ絶世の美少女。その白磁のような肌と黄金の瞳からは、かつて三国志の時代に天下を恐怖で支配した暴君・董卓の覇気がビリビリと放たれている。
一年生たちは横一列に並び、木刀の素振りを繰り返していた。
持子の手には、鋭い切先を持つ木製の短刀が握られている。彼女は鷹のような鋭い視線で一年生たちの間を練り歩き、少しでも姿勢や型が崩れた者の喉元へ、ピタリと短刀を突きつけた。
「そこまで! 陽翔、手首が浮いておる! 貴様は強制終了だ!」
「ひいっ!? す、すんません持子先輩!」
お調子者で技は鈍いが、受け身だけは天才的な佐藤陽翔が、早々にリタイアを宣告された。
持子の指導は苛烈を極めた。一度でも型が崩れれば、その場でお終い。強制終了である。
「次は四股だ! これも軸がブレた瞬間に終了とする!」
「うおぉぉっ……!」
無口で真面目、身体能力の高い門蒼真が、太い汗を流しながら深く腰を落とす。しかし、パワーに頼りがちな彼の筋肉はすぐに悲鳴を上げ、グラリと上体が揺れた。
「蒼真、終了! 次!」
「くっ……! 美しくない……私の完璧な型が……!」
プライドが高く、型の再現が完璧な高橋玲央も、疲労による足の震えを隠しきれず、膝から崩れ落ちて終了となった。
異常な体の柔らかさを持つ阿部凛花も、冷静で知的な毒舌家の南原紗良も、次々と持子の短刀によってリタイアを宣告されていく。
結局、誰も長く続けることはできなかった。
「ふはは! なまら情けないぞひよっこ共! 基礎鍛錬を長くやりたかったら、型を崩すな! 終わった者から朝食の準備と道場の掃除に回れ!」
持子の容赦ない言葉に、一年生たちは「はいっ!」と声を振り絞り、這うようにして台所と道場へ向かっていった。
***
午前九時。
太陽が容赦なく照りつけ始める頃、氷川神社の敷地内にある板の間の道場は、完全なサウナ状態と化していた。
クーラーなどという文明の利器は存在しない。窓を開け放っても、生温かい風が埃を舞い上げるだけだ。
「はぁっ、はぁっ……!」
「せいやっ!」
道場内に、裸足が板の間を擦るキュッ、キュッという音と、重たい打撃音、そして荒い息遣いが充満する。
稽古が始まって一時間。全員の道着は、絞れるほどの大量の汗でぐっしょりと濡れていた。
ここで、深刻な問題が発生する。
「くっ……! 汗で、滑る……!」
玲央が蒼真の手首を掴もうとするが、ヌルリと汗で滑り、すっぽ抜けてしまう。
「ダメだ……! 汗で教科書通りの型が再現できない! こんなの美しくない!」
玲央が苛立ちに声を荒らげる。
その横で、フラフラになった紗良が膝に手をつきながら、息も絶え絶えに分析した。
「はぁ……はぁ……摩擦係数が、低下しすぎています。現在の手首取りの技の成功率は、およそ三パーセント以下……これでは、合気殺しです……」
その惨状を見て、道場の奥にふんぞり返っていた持子が立ち上がった。
「ふははは! なまら甘いぞ貴様ら!」
持子の一喝に、一年生たちの肩がビクッと跳ねる。
「手首が滑るだと? 実戦を舐めるな! 戦場では、敵が返り血や油、泥に塗れていることなどザラだ! 汗で滑るなら、手首など掴むな!」
持子の言葉には、董卓として血で血を洗う戦場を駆け抜けた圧倒的な説得力があった。
「肘だ! 肩だ! 当身(打撃)を入れて相手の重心を強制的に崩してから、深く入り身を行え! 手首を掴む以外の応用技に切り替えるぞ!」
持子の号令により、稽古はさらに過酷な実戦形式へとシフトした。
バァン! と容赦のない当身が飛び交い、汗だくの肉体と肉体がぶつかり合う。
小柄で童顔ながら技のスピード最速を誇る主将の千手美貴が、「はい、隙だらけー!」と笑いながら玲央の懐に消え、強烈な当身のフェイントから肩を制して投げ飛ばす。
長身で細身の筋肉質である副主将の森盛夫は、寡黙なまま、日本刀のように鋭い崩しで蒼真の肘関節を正確に捉え、床に叩きつけた。
「ぎゃああぁぁっ!」
けたたましい悲鳴と共に、陽翔が板の間に派手に転がった。彼は天才的な受け身の技術だけを使って、ノーダメージで床にへばりついている。
「もうダメっす……! 俺、この冷たい床と結婚します……」
陽翔は完全にサボりモードに入り、床のわずかな冷気を全身で味わおうと大の字になった。
「こら陽翔! 起きんか!」
持子は怒鳴りつけようとしたが――実は、彼女自身も限界を迎えていた。
(あ、あかん……! なまら暑すぎる! このままでは、絶世の美女たるわしが茹でダコになってしまうではないか!)
持子は極黒の魔王の威厳を必死に保ちながらも、額から滝のように流れる汗を拭った。
「ええい! ここでの稽古は終わりだ!」
持子はパンッ! と手を叩き、強権を発動した。
「全員、水着に着替えい! 川へ行くぞ!」
「「「えっ!?」」」
「汗だくになった袴以外の道着と帯は、川で軽く揉み洗いして、木々の枝にかけておけ! この強烈な日差しと山風だ、夕方にはカラカラに乾く手筈よ!」
その言葉に、一年生たちの顔にパッと希望の光が差し込んだ。
***
午後。
氷川神社分社の奥を流れる、清冽な川。
部員たちは全員、水着姿に着替えていた。玲央や蒼真はサーフパンツ、凛花と紗良はスポーティな水着。そして持子は、彼女の暴力的なまでに完璧なプロポーションを惜しげもなく披露する、黒いビキニ姿だ。
「わぁーっ! 冷たくて気持ちいい!」
「生き返るぅ……!」
冷たい川の水に膝まで浸かり、歓声を上げる一年生たち。
しかし、持子は岸の岩の上に仁王立ちになり、腕を組んで冷酷に言い放った。
「遊ぶとは言っておらんぞ、ひよっこ共」
「「「……え?」」」
「ここからは、川の中での組手稽古だ! 陸上とは勝手が違う。課題は二つだ!」
持子は指を二本立てた。
「一つ! 川底の石があるため、合気武道の基本である『すり足』は一切禁止とする! 足を上げて踏み込め!」
「二つ! 水の抵抗だ! 陸上のように動けば、水が体にまとわりつき、技のスピードは完全に殺されるぞ!」
持子の悪魔のような宣告に、一年生たちは絶望の表情を浮かべた。
「さあ、始めい!」
川の中での、前代未聞の沢稽古がスタートした。
「うおおぉぉっ!」
蒼真が、持ち前の高い身体能力とパワーに頼った投げを打とうと、水中で強引に踏み込む。しかし、その瞬間。
ザバァァァッ!!
水の圧倒的な抵抗によって力が四方八方に分散し、彼はバランスを崩して自ら水没してしまった。
「……怪力だけじゃ、水には勝てない……」
ずぶ濡れになった蒼真が、真面目な顔でポツリと呟き、深く落ち込む。
「そりゃっ!」
今度は玲央が陽翔を投げようとする。
ザッパーン!!
投げられた陽翔は、水面を跳ねるようにして豪快な水飛沫を上げ、天才的な水上受け身を披露した。
「プハッ! すげえ! 俺、水上スキーになれますよ持子先輩!」
「ふはは! 阿呆か貴様は!」
そんな中、一際輝きを放ったのが阿部凛花だった。
彼女は「異常な体の柔らかさ」を持っている。彼女は水の抵抗に力で逆らうのではなく、川の淀みや流れに自身の体を同調させるように、柔らかく回転した。
クルリ、ザバッ!
「わぁ! お水と一緒に回ると、すごく楽に投げられます!」
凛花の美しい回転系の投げが見事に決まり、紗良が水面へ綺麗に倒れ込んだ。
「凛花ちゃん、筋がいいね!」
そこへ、三年生たちが手本を見せるために動いた。
バシャッという音が、全くしなかった。
スピード最速の主将・千手は、水の抵抗すらも置き去りにする「見えない入り身」で、水飛沫を一切上げずに紗良の懐に潜り込み、ふわりと水中に沈めた。
「えっ……いつの間に……」
「これが、合気の入り身だよ」
続いて、副主将の森が動く。
彼はストイックな努力で培った日本刀のような鋭い合気で、腕を真っ直ぐに振り下ろした。
シュパァン!!
森の手刀が、文字通り「水を斬る」ように抵抗を裂き、蒼真の体勢を一瞬で崩して制圧した。
「受け身を取らないと、水底の石で骨が折れるぞ」
寡黙な森の言葉に、蒼真は息を呑んだ。
「最後はわしだ。蒼真、かかってこい」
技術最強を誇る持子が、川の中心で手招きする。
蒼真は気合を入れ、真っ直ぐに持子へと突進した。
持子は力を使わなかった。ただ、川の流れに身を任せるようにスッと半身を開き、蒼真の突進する力を、背後を流れる水の勢いと完全に同化させた。
「合気とは、自然の理だ。川の抵抗を敵と思うな。己の一部として巻き込め!」
その瞬間、蒼真の視界がグルンと回転した。
何が起きたか全く分からないまま、蒼真はふわりと宙を舞い、全く水飛沫を上げずに、背中から綺麗に水面へと投げ落とされていた。
完成された合気。
その圧倒的な美しさに、一年生たちは言葉を失い、ただただ見惚れるしかなかった。
***
夕暮れ。
山の端に夕日が沈みかける頃、川から上がった部員たちは、枝にかけておいた道着を回収した。
夏の強烈な太陽と風に晒された道着はすっかり乾き、お日様のいい匂いがしている。
「……なるほど」
道着の帯を締め直しながら、紗良が感心したように呟いた。
「最初からこれを狙って、川での稽古を指示したんですね」
「ん? どういうことだ?」
陽翔が首を傾げる。
「足場の悪い川底と、水の抵抗という『不自由さ』です。私たちはそれを身体で強制的に感じさせられたことで、逆に『無駄な力を行き場のない方向へ逃がす』……つまり、力を受け流すという合気武道の本質を、肌で理解し始めています」
紗良の解説に、一年生たちはハッとして自身の両手を見つめた。確かに、午前中のガチガチだった力みが、今は嘘のように抜けている。
「持子先輩……ただの暴君じゃなかったんですね。全て計算尽くだったなんて……!」
玲央が尊敬の眼差しを持子に向ける。
持子はふんぞり返り、自慢げに胸を張った。
「ふははは! 当然よ! わしの完璧な指導メソッドを舐めるな!」
しかし。
持子の背後で、千手と森が顔を見合わせてクスクスと笑っていた。
(絶対嘘だよねー。持子、ただ単になまら暑かったから水に入りたかっただけだよねー)
(ああ。分かりやすすぎる)
二人の無言のツッコミに気づくことなく、持子は「ふはは!」と高笑いを響かせていた。
***
夕食の時間。
宿泊棟の広間には、レトルト食品を工夫した食事が並べられていた。
持子の胃袋は、底なしのブラックホールである。脂っこい肉やジャンクフードを愛し、特にラーメン二郎の「ニンニクアブラカラメ増し増し」を貪り食うのを至上の喜びとする「暴食の魔王」だ。
(くっ……! 腹が、腹が減った……! どんぶり十杯の白米と、豚の角煮を山ほど食いたい……!)
持子は内心で血の涙を流していた。
しかし、本多鮎が用意してくれた食料は、全員で一週間分キッチリと計算されている。ここで自分が暴食すれば、可愛いひよっこ達が餓死してしまう。
(我慢だ、董卓……! わしは慈悲深き王! 下々の者の食糧を奪うなど、三流のやることだ!)
持子は自戒の念を込め、プルプルと震える手でおかゆを少しだけ口に運び、圧倒的な飢えに耐え抜いた。
食後。
「よし、全員うつ伏せになれ! わしの魔法のマッサージの時間だ!」
今日は一年生だけでなく、昨日指導を譲ってくれた千手と森にも、持子は魔力を込めたマッサージを施した。
他者に魔力を「与える」行為は、持子の体力を激しく消耗させる。しかし、彼女の指先から放たれる温かな力は、確実に部員たちの肉体を癒し、明日への活力を生み出していた。
***
三日目・夜の部:極黒の魔王と湯けむり決死隊
過酷な合気武道部の夏合宿において、一日の汗と疲労を洗い流す「お風呂タイム」は、部員たちにとって砂漠のオアシスに等しい。
氷川神社の敷地内に作られた野趣あふれる浴場は、男女別ではなく一つしかないため、時間分けでの入浴ルールとなっていた。
「前半の一時間は男子、後半の一時間は女子だ」
長身で細身の筋肉質、かつ生真面目な副主将の森盛夫が、寡黙なトーンで告げる。
「俺は明日の食事の下準備があるから、先に湯を使わせてもらった。一年男子の蒼真と陽翔は、もう休んでいていいぞ」
真面目でストイックな努力家である森の言葉に、無口で真面目、そして優しい性格の門蒼真がハッと顔を上げた。
「いえ、森先輩。俺も手伝います」
「いや、いい。明日はさらに過酷になる。お前たちは少しでも肉体を回復させておけ」
「しかし……」
蒼真が行こうとするその横で、お調子者でずる賢い性格の佐藤陽翔が、ピコーン! と脳内で悪魔の閃きを受信していた。
(……よしっ!! 森先輩は厨房から動かない。蒼真も真面目に部屋で休むだろう。つまり……俺の自由時間だ!!)
陽翔は「お疲れ様っす!」と元気に一礼すると、誰もいない闇夜の森へと、凄まじいスピードで姿を消した。合気の技は鈍いが、こういう時の逃げ足と受け身だけは天才的である。
***
時刻は午後八時半。
女子たちの入浴時間が始まってから、十数分が経過していた。
「ひゃっこいっ……! くそっ、合宿の疲れも、この川の冷たさも、今の俺の情熱の前ではただのスパイスに過ぎねえ!」
深い森に囲まれた氷川神社の奥を流れる、清冽な川。
陽翔は水着のまま、首まで凍てつくような川の水に浸かりながら、音もなくバタ足で上流へと進んでいた。
彼の目指す先は、浴場を囲む竹垣の裏手。
実は陽翔、今日の昼間に行われた地獄の沢稽古の最中、ただ天才的な水上受け身でサボっていたわけではない。彼は川の真ん中に鎮座する「巨大な岩」の存在を、事前にしっかりと確認していたのだ。
(あの岩の影からなら……角度的に、女湯の竹垣の隙間から中が完璧に覗ける……ッ!)
陽翔の目は、完全に血走っていた。
(見たい……! 俺は、どうしても女の裸が見たいんだぁぁぁっ!!)
彼の情熱の根源。それはただの性欲を超えた、もはや執念であった。
(特に、三年生の恋問持子先輩! 絶世の美女で黄金の瞳を持ち、神が計算し尽くした『黄金比』のプロポーションを持つ世界的トップモデル! 将来的には本当に世界一のモデルもあり得るお方だ! 初日の禊ぎの時に見えたあのシルエットもヤバかった……! あのお方の全裸を拝めるなら、俺は殺されても本望だ!)
さらに陽翔の欲望は留まるところを知らない。
(方向性は違うが、小柄で童顔なのに体脂肪率5パーセント以下という、バッキバキに鍛え上げられた主将・千手美貴先輩の身体も見たい! 同級生の阿部凛花だってそうだ! 明るくて社交的で努力家で、異常な体の柔らかさを持つあの細く長い手足……いつも俺にも優しくしてくれる凛花ちゃんの裸、もう大好き! 絶対見たい!)
そして、彼の顔にドス黒い復讐の笑みが浮かぶ。
(高橋玲央……! 芸能科で確かに可愛いが、プライドが高くていつもいつも俺を見下すような態度が気に入らねえ! 俺なりに合気頑張ってるってのに! その完璧完璧って言い誇る裸、拝んでやるぜ!
それに南原紗良! お前もだ! いつも冷静で知的なフリして、俺の心にグサッとくる毒舌ばかり吐きやがって! 何ですか、俺が何か悪い事したってんですか!? とにかく、お前らの裸を見なければ俺の腹の虫が治まらねえ!)
「フフフ……俺をただの阿呆だと思うなよ……」
陽翔は川の真ん中にある大岩の裏に到達すると、防水バッグから「ある秘密兵器」を取り出した。
それは、彼が趣味のバードウォッチング用にたまたま持ってきていた、高倍率の小型双眼鏡である。
「神よ……この日のために、俺は鳥を愛してきたのですね。いただきます!」
陽翔は岩の隙間から双眼鏡を構え、竹垣の奥、湯気が立ち込める女湯へとフォーカスを合わせた。
ジーーーーッ……。
ピントが合った瞬間。
「……っっっ!!??」
陽翔の心臓が、ドクンッ! と大きく跳ねた。
レンズの向こう側。分厚い湯気の向こうで、女子たちが話をしながら盛り上がっている姿が薄っすらと見える。
そして、その中心。
湯気が一瞬晴れたその先に、白磁のような肌と暴力的なまでに完璧なプロポーションを持つ、持子の裸身が……見えた気がした。
「……おおぉぉ……」
美しすぎる。もはや芸術だ。国宝だ。
陽翔は、15年の人生で初めて、真剣に神という存在に感謝した。
(あぁ……神様、ありがとうございます。持子先輩がモデルポーズネタで女子たちの笑いを取っている……あぁ、尊い……最高だ……!!)
陽翔が口元をだらしなく緩め、至福の時を過ごしていた、その時である。
「……佐藤、お前という奴は」
「ひゃああっ!?」
背後から突然、低い声が響いた。
驚いて振り返ると、そこには無口で真面目な門蒼真が、呆れ果てたような冷たい目をして川の中に立っていた。身体能力が高い彼は、陽翔に全く気付かれることなく背後まで接近していたのだ。
「蒼真っ!? お前、なんでここに……っ!」
「森先輩の手伝いが早く終わったから、お前を探しに来たんだ。まさかこんなふざけた真似をしているとはな。戻るぞ」
蒼真は真面目な顔のまま、陽翔の首根っこを掴んでズルズルと引っ張り返そうとする。
「や、やめろバカ! 離せ!」
「ダメだ。これ以上、部の規律を乱すな」
蒼真のパワーは凄まじい。このままでは強制送還されてしまう。
焦った陽翔は、狂気の瞳で蒼真を睨みつけた。
「……大声、出すぞ」
「は?」
「ここで俺が大声を出せば、女湯にいる先輩たちに丸聞こえだ! そうなれば、俺だけでなく『お前も一緒に覗きをしていた』と誤解されて、確実に社会的に殺される! お前も道連れにしてやる!」
「なっ……! お前、本気か!?」
蒼真の顔が青ざめる。
「違う、大事にしないように静かに立ち去るだけだ! 頼むからやめろ!」
「ダメだ! 持子先輩だけじゃなく、俺は他の女子の裸も見たいんだよぉぉぉっ!!」
陽翔は暴れながら、強引に双眼鏡を蒼真の顔面に押し付けた。
「いいから一回だけ見てみろ! この絶景を!」
「や、やめ……っ!」
蒼真が双眼鏡を払いのけようとした、その瞬間。
偶然にもレンズが女湯の竹垣の隙間を捉え、蒼真の網膜に「その映像」が飛び込んでしまった。
分厚い湯気の先。そこには、持子の神がかり的なプロポーションの輪郭が、ほんのりと、だが確かに映し出されていた。
「…………ッ!!」
蒼真の動きが、ピタリと止まった。
「……な? ヤバいだろ?」
陽翔が悪魔のように囁く。
無口で生真面目な蒼真の脳内で、何かがショートする音がした。
「……すさまじい破壊力だ……美しすぎる……」
気がつけば、氷のように冷たいはずの川の中にいる二人の鼻から、タラーッと赤い一筋の血が流れていた。
川に浸かっているため、本来ならガタガタと震えるほどの寒さのはずである。
しかし、二人の男子高校生の身体は、燃え盛るマグマのように熱く火照っていた。特に下半身の一部は、大自然の冷気をものともせず、凄まじい熱と硬さを維持してしまっている。
シュウゥゥゥ……ッ!!
あまりの体温の急上昇により、二人の身体から立ち上った熱気が川の冷気とぶつかり合い、モウモウと白い湯気を発生させていた。
***
一方、その頃。女湯の内部。
「ふはははは! 違うぞ紗良、モデルのターンというのはもっとこう、骨盤から回すのだ!」
持子は豊かな胸を揺らしながら、おどけたモデルポーズを決めて一年生たちを笑わせていた。
傍若無人でガサツ、エロ本を読んで男子と爆笑するほどの俗物である持子にとって、後輩女子たちとの裸の付き合いなど造作もないことだ。
しかし――持子は、黄金の瞳を細めて、竹垣の向こう側の「気配」を正確に察知していた。
(……阿呆共め。あんな川の真ん中からモウモウと湯気を立ておって。丸分かりではないか)
持子は最初から、岩の影に陽翔と蒼真が潜んでいることに気付いていた。
彼女の魂に宿る、三国志の暴君・董卓。
その極黒の魔王たる董卓は、基本的に去勢されたような、欲望の薄い男を嫌う。
(ふん。バカな行為だが、男としての根源的な欲望に従うその姿勢、嫌いではないぞ。自分の裸くらい、可愛い後輩に見せてやっても構わんが……)
持子には、裏表がなく他者の業を丸ごと肯定する規格外の器の大きさがある。
しかし、問題があった。
そろそろ風呂から上がる時間なのだ。
しかも、竹垣の隙間から、陽翔の持っている双眼鏡のレンズが微妙に月明かりを反射してキラキラと光っている。
もし今、千手、あるいは毒舌で観察力の高い南原紗良あたりが川の方を振り向けば、一瞬であいつらの存在がバレてしまう。
(……いかん。ここで見つかれば、あいつらは間違いなく女子全員からの軽蔑を一身に浴び、合気武道部で社会的に死ぬことになる!)
可愛い後輩を無惨な死から救うため、持子は必死に頑張った。
絶対に女子たちの視線を川の方へ向けさせないよう、持子自身に注目を集め続けるしかない。
「さあ! 芸能科のひよっこ共! 貴様らもポーズを決めてみろ!」
持子は大声でバカ話を振りまき、芸能人脈の話や、自身に狂信的な忠誠を誓う「第一下僕」である本多鮎の話題をこれでもかと持ち出した。
「ふはは! あの鮎め、先日もわしに褒められたいがために、テレビ局の楽屋で……」
あんなドMな狂信者でも、今一番世間から注目を集めているインテリタレントなのだ。持子は内心で鮎を少し誇らしく思いながらも、必死に場を繋いだ。
だが。
(……ええい! いつまで経っても帰りおらん! あの阿呆共、限界まで粘る気か!)
持子の忍耐も限界に達しつつあった。
仕方がない。実力行使だ。
持子は不自然にならないよう、スッと川とは反対側の茂みの方を指差した。
「おおっ! 見ろお前たち! あんな所に、なまら可愛いタヌキがいるぞ!」
「えっ!? タヌキですか!?」
「どこどこー!?」
純粋な凛花や玲央たちが、一斉に持子の指差した方向へ振り返る。
(今だ……!)
その一瞬の隙を突き、持子は足元にあった小石を足の指で器用に拾い上げると、凄まじい速度と正確さで、竹垣の隙間を通して川の岩陰へと弾き飛ばした。
パコーンッ!!
「ぐはぁっ!?」
「痛っ!」
岩陰から、くぐもった短い悲鳴が二つ上がった。
「ん? 持子先輩、今川の方で何か音が……」
紗良が振り返ろうとするのを、持子は慌てて両手を広げてブロックした。
「気のせいだきのせいだ!! さあ、もう時間だ! 身体が冷える前に上がるぞ貴様ら!」
「えぇー、タヌキ見たかったのにー」
「文句を言うな! ほれ、さっさと簡易脱衣所へ行けい!」
持子は強引に背中を押して、女子たちを浴場から追い立てた。
竹垣の向こうで、慌てて川を泳いで逃げていく二匹の阿呆な水しぶきの音を聞きながら、持子は「ふう……」と深くため息をついた。
***
深夜。
合宿所の全員が深い眠りについた後。
宿泊棟の裏手、鬱蒼と生い茂る木々の下で、持子は腕を組んで仁王立ちになっていた。
その前には、パジャマ姿の陽翔と蒼真が、正座をしてガタガタと震えている。
「……さて。貴様ら、何か言うことはあるか?」
黄金の瞳を光らせ、極黒の魔力(覇気)をビリビリと漂わせながら、持子が低くドスを効かせた声で問う。その姿はまさに、天下を恐怖で支配した魔王そのものであった。
「ひ、ひぃぃぃっ! す、すんません持子先輩!! 俺が、俺が全部悪かったんです!」
陽翔が土下座の勢いで頭をこすりつける。
「……俺も、同罪です。止めるべきだったのに、己の煩悩に負けました。切腹して詫びます……」
蒼真も、生真面目な顔のまま深く頭を下げた。
持子はそんな二人をしばらく見下ろしていたが、やがて「ふっ」と小さく笑みをこぼした。
「……ふはは。まあよい、面を上げい」
「えっ……?」
恐る恐る顔を上げた二人に、持子は腰に手を当てて言った。
「男子たるもの、女子の裸を見たいというその根源的な欲望、わしは嫌いではない。むしろ、それくらい血気盛んな方が武を志す者として見どころがあるというものだ」
「も、持子先輩……っ! 神様……っ!」
陽翔の瞳に感動の涙が浮かぶ。
しかし、持子の声が再び冷たく研ぎ澄まされた。
「だが! 獣のように欲望のままに動くな! 理性を持て、分かったな! 次に同じことをして見つかれば、貴様らは部内で確実に社会的に殺される。わしは、可愛い後輩がそんな無惨な最期を遂げるのを見たくはないのだ」
持子の言葉には、底知れぬ器の大きさと、後輩への不器用な優しさが詰まっていた。
「はいっ……! 深く、深く反省しております!」
「二度と、あのような愚行はいたしません……!」
二人は固く頷き、心からの反省を示した。
「うむ、よろしい」
持子は満足そうに頷き、くるりと背を向けて宿泊棟へと歩き出した。
しかし、数歩進んだところでピタリと足を止め、肩越しにチラリと二人を振り返った。
そして、絶世の美女の顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったのだ。
「……で? わしの裸は、どうだった?」
その瞬間。
陽翔と蒼真の脳裏に、湯気の向こうで見たあの神々しいまでの黄金比のプロポーションがフラッシュバックした。
二人は直立不動の姿勢を取り、最高級の敬意を込めて小声で叫んだ。
「「美しかったです!! ありがとうございまし
た!!」」
「ふはははは!」
持子は「うむ」と機嫌良さそうに頷くと、月明かりの下、極黒の魔王らしい高笑いを響かせながら、闇の中へと消えていった。
残された二人。
夜風が、火照った身体を心地よく冷やしていく。
「……すげえ人だな、持子先輩。マジで一生ついていくわ……」
蒼真が、深い尊敬の念を込めて呟き、陽翔の肩を叩いた。
「ほら、俺たちも寝室に帰るぞ」
しかし。
陽翔はその場から一歩も動こうとしなかった。
「……蒼真」
「ん? どうした?」
陽翔は、かつてないほど真剣な、まるで悟りを開いた修行僧のような顔つきで蒼真を見つめ返した。
「俺は……ここでオナニーしてから帰る」
「…………は?」
蒼真の生真面目な顔が、能面のように無表情になった。
「頼む、蒼真。この燃え盛る情熱を、今ここで解放しなければ、俺は今夜眠れる気がしないんだ……!」
陽翔の目は血走り、両手はすでにパジャマのズボンの紐にかかっていた。
「…………勝手にしろ」
蒼真はゴミを見るような目を向けると、一切の未練なく踵を返し、足早に寝室へと戻っていった。
深夜の静まり返った森の中。
一人残された陽翔は、月を仰ぎ見ながら、熱い吐息とともに声を殺して呟いた。
「……持子先輩……」
合気武道部の、熱く、過酷で、そして限りなく阿呆な夏合宿の夜は、こうして更けていくのだった。
***
まだまだ深夜。
全員が深い眠りについた後。持子は一人、宿泊棟を抜け出して森の奥へと向かった。
昨日訪れた、あの冷たい滝壺である。
「……ふぅっ!」
衣服を脱ぎ捨て、凍てつくような激流の中に身を沈める。禊の始まりだ。
持子は目を閉じ、自身の丹田の奥底へと意識を集中させた。
昨日、ひよっこ達の痛みを和らげた時に感じた、あの温かい感情。他者から奪うのではなく、他者に『与える』ことで生まれる、全く新しい光の魔力。
(来い……! わしの中から湧き出る、慈しみの光よ……!)
持子が祈るように集中すると、彼女の体を包み込んでいた極黒の魔力の奥底から、ポワァンと淡い純白の光の粒子が浮かび上がってきた。
昨日よりも、ほんの少しだけ輪郭がハッキリしている。
「おお……」
その光が灯った瞬間、滝の冷たさがスッと引き、柔らかな温泉のような温もりが持子を包み込んだ。
持子の魂の奥底にある「董卓としての裏切りのトラウマ」や、魔力にこびりついた「穢れ」が、その光によってジワリジワリと浄化されていくのを感じる。
(……まだだ。まだ、風間楓が作り出したような強大な光の柱には程遠い。だが……)
持子は、水面を漂う光の粒子を愛おしそうに見つめた。
(昨日よりは、確実に分かってきたぞ。この力を完全に制御できた時、わしは……)
バチッ……。
集中が切れ、光の粒子がふっと虚空に溶けて消えた。
同時に、滝の凍てつく冷たさが一気に肌を刺す。
「ひゃうっ!? つ、冷たっ! 今日はここまでだ!」
持子は慌てて滝から飛び出し、体をブルブルと震わせながら濡れた髪を拭いた。
「ふはは……道のりは長いな。だが、なまら悪くない気分だ」
月明かりの下、極黒の魔王は不敵に笑う。
合気武道部の熱く、そして過酷な夏合宿。部員たちとの絆を深めながら、持子自身の魂もまた、確かな成長の階段を上り始めていた。
明日もまた、地獄の特訓が待っている。だが、今の持子には、それが何よりも楽しみで仕方がなかった。




