『極黒の魔王とひよっこ達の夏合宿 ―― 二日目・仄光の禊』
極黒の魔王とひよっこ達の夏合宿 ―― 二日目・光の禊
季節は夏。照りつける太陽がアスファルトをじりじりと焼く、夏休み直前の私立聖ミカエル学園。
その喧騒から遠く離れた、東京の端に位置する氷川神社の秘境。周囲を深い森に囲まれたこの神聖な土地で、合気武道部の波乱に満ちた夏合宿が幕を開けてから、一夜が明けた。
合宿二日目、早朝。
木々の間から差し込む清々しい朝日と、チュンチュンと鳴く小鳥たちのさえずり。絵に描いたような美しい大自然の朝の風景とは裏腹に、宿泊棟の広間からは、まるで地獄の釜の蓋が開いたかのような、おぞましい呻き声が響き渡っていた。
「うぅ……あ、あぁ……っ」
「動かない……腕が、俺の腕じゃないみたいだ……」
ズリ……ズズズ……。
畳の上で、いもむしのように蠢いているのは、昨日から合気武道部の過酷な洗礼を受けた一年生たち、五人の「ひよっこ」である。
「くそっ……! こんなところで、完璧な型が……崩れてたまるか……!」
プライドが高く努力家の高橋玲央 は、ギリギリと歯を食いしばりながら、両腕を床に突き立てて上体を起こそうとしていた。ブルブルと激しく痙攣する両腕は自らの体重を支えきれず、無情にもバタン! と畳に突っ伏してしまう。
「あ、あかん……筋肉の繊維が、全部ブチブチに千切れてる気がするっす……」
いつもは明るくお調子者の佐藤陽翔 も、得意の受け身 を取る余裕すらなく、涙目で床を舐めるように這っている。
「筋肉の、超回復メカニズムを考慮しても……現在の私たちの肉体は、完全に限界値を超えています……」
冷静で知的な南原紗良 は、虚ろな目で天井を見つめながら、自身の身体状況を的確に、かつ絶望的に分析していた。
持ち前の高い身体能力を誇る無口で真面目な門蒼真 も、異常な体の柔らかさを持つ阿部凛花 も、立ち上がることすらできずに荒い息を吐いている。
しかし、彼らには「合気武道部の一員である」という強い矜持があった。どれほど体が痛もうと、今日の朝稽古に出なければならない。
「いくぞ……みんな、這ってでも、道場に……!」
玲央の悲痛な声に導かれ、五人の新入生たちは、まるでゾンビ映画のワンシーンのように、ズルズルと床を這いずりながら襖の方へと向かっていった。
ガラッ!
その時、勢いよく襖が開け放たれた。
そこに立っていたのは、身長175cmの長身を誇り、神が計算し尽くした「黄金比」のプロポーションを持つ絶世の美少女、三年生の恋問持子 であった。白磁のような肌と黄金の瞳 が、凄まじい威圧感を放っている。
その魂には、三国志の時代に天下を恐怖で支配した暴君・董卓が宿っている 持子だが、目の前の惨状にはさすがの魔王も目を丸くした。
「な、なんだこの地獄絵図は!?」
「も、持子……せん、ぱい……おはよう、ございま……」
青白い顔で挨拶をしようとする玲央の頭を、持子は慌ててガシッと掴んで床に押し戻した。
「馬鹿者! 貴様ら、何をしておる! その体で道場に行く気か!」
「はい……俺たちは、合気武道部の……」
「阿呆! その状態で稽古などしたら、筋肉が崩壊して一生武道ができなくなるわ! 今日は絶対に休め! 一歩でも部屋から出たら、わしが直接引導を渡してやるからな!」
持子の強烈な怒声と、決して逆らえない「極黒の魔力(覇気)」 を前に、一年生たちはついにピンと張っていた緊張の糸が切れたように意識を手放し、泥のように眠りに落ちた。
「……というわけなのだ。あやつら、這ってでも道場に来ようとしておったぞ」
昼前。静まり返った板の間の道場の片隅で、三年生三人による「緊急会議」が開かれていた。
持子の前には、合気武道部の主将である千手美貴 と、副主将の森盛夫 が正座している。
小柄で童顔の千手 と、長身で細身の筋肉質である森。二人は昨日の地獄のような基礎稽古を一年生と共にこなしたにもかかわらず、疲労の色など微塵も見せず、むしろ清々しいオーラすら放っていた。
「えーっ、そうなんだ! みんな真面目だねぇ。でも、筋肉痛で動けないなんて、まだまだ体ができてない証拠だね!」
千手はケラケラと笑いながら言う。
「うむ。気合は認めるが、肉体が伴っていない。鍛錬が足りんな」
森も真面目な顔 で、静かに頷いた。
その二人の様子を見て、持子の黄金の瞳がスッと細められた。
(おかしい……。わしは二年生の途中から入部した から、一年生の時の合宿を知らんが……いくらなんでも、あんな状態になるまで追い込むのは異常ではないか?)
持子は思い出した。
担任で合気武道部の顧問の影安に誘われて、その当時は合気武道同好会に入会した。持子は、二年生の時、この二人と卒業した岩田先輩の地獄のような基礎稽古を始めに行なわされた。
当時からチート能力 を持っていた魔王たる持子でさえ、動けなかった、まともに稽古ができるようになるまで一週間かかったのだ。しかも、魔力で無理やり肉体を回復させて、である。
「なあ、千手、森。お前たちは、一年生の時の夏合宿、どうだったのだ?」
持子が恐る恐る尋ねると、二人は顔を見合わせてパァッと明るい笑顔を浮かべた。
「私たち? 私たちはねー、一年生のこの夏合宿で、基本稽古は1日で、できるようになったんだよ!」
「ああ。その後もひたすら受け身と入り身を千回だ。まあ、その千回の基本稽古以外は、体が限界で何もできなかったがな」
「そうそう! だから一年生たちも、続ければ壁を越えられると思うんだよね!」
サラリと言ってのけた二人に、持子は開いた口が塞がらなかった。
(……千回、だと?)
「ちなみに」と、千手は少しだけ寂しそうな顔をした。
「去年も数名、新入部員が入ってくれたんだけどね。この合宿の基本稽古で、全員いなくなっちゃったんだよねー。みんな根性がなかったのかなぁ?」
「じゃーだめだろ!!!」
静寂な神社に、持子の渾身のツッコミが響き渡った。
「貴様ら、頭が湧いておるのか! どこの世界に、入部したての一般人に一日千回の基礎稽古を課す馬鹿がおる! だから去年も全員辞めたのであろうが!」
持子は普段、他人を「雑兵」や「下郎」と見下し、自身の規格外の能力を振りかざす暴君である。
しかし、そんな持子から見ても、目の前の二人は「本物の狂気」であった。
千手と森は、自身の異常なスピードや日本刀のような鋭い合気 を生み出すスペックを「普通」と錯覚しているのだ。自分たちという超人の基準を、そのまま一般人に当てはめようとしている。
持子の背筋に、ゾクリと冷たいものが走った。
(思い出したぞ……わしはあの日、あまりの基本稽古の厳しさに……漏らしたのだ! この絶世の美女たるわしが、失禁するという耐え難い屈辱を味わったのだ!)
思い出したくもないトラウマが蘇り、持子の顔が青ざめる。
あの地獄を、あの可愛いひよっこ達に味わわせるわけにはいかない。あやつらのプライドがへし折られ、心が壊れてしまう。
バァン! と、持子は道場の板の間を強く叩き、二人に頭を下げた。
「頼む! この合宿のメニューは、わしに任せてくれ! わしの完成された合気 の理を以て、あやつらを徐々に育て上げる! 貴様らのペースでやったら、部員が全滅するわ!」
滅多に頭を下げることのない技術最強 の持子の懇願に、千手と森は驚いたように目を瞬かせた。
「う、うん……持子がそこまで言うなら、今年の指導は任せるよ」
千手が優しく微笑み、森も深く頷いた。
「だが、条件がある」
森が鋭い視線を向ける。
「お前が時々見せる、あの『魔王のようなヤバい力』……あれを暴走させたり、一年生に危険が及ぶような真似をしたら、俺たちが全力で止める。その時は、俺たち主将と副主将の命令に従え」
「……分かっておる。約束しよう」
持子が力強く頷くと、三人の間に確かな信頼の絆が結ばれた。
「よし! じゃあ、私と森は、一年生たちの食事の用意や身の回りの世話に専念するね! お母さんみたいに甘やかしちゃうぞー!」
こうして、合宿二日目は急遽「完全休養日」と定められたのである。
昼食の時間。
インテリタレントの本多鮎 が持ち込んだ常温保存のレトルト食品 を使って調理された食事が並ぶ。腕すら上がらない一年生たちのために、三年生三人がかりでの「介護」が始まった。
「はい、凛花ちゃん、あーんして!」
「あ、あーん……もぐもぐ。千手先輩、すいません……」
小柄で面倒見のいい千手 が優しく食事を運び、その隣では寡黙な森 が蒼真の口に無言で次々とご飯を放り込んでいた。
そして、午後。
三年生たちが後片付けをしている間、持子は一年生たちの寝ている部屋を訪れた。
「特別に、わしが直々にマッサージをしてやろう。お前たちのその強張った筋肉を、ほぐしてやる」
持子は玲央の背中に大きな手を置いた。
普段、本多鮎などの下僕に対しては、魔力を通じて激しい快楽を与え、同時に生命力を奪い取る という行為を行っている。だが、今日は違う。
(ここは、邪念を完全に捨てよ、董卓……。純粋な『肉体の回復』のみに、魔力を変換して流し込むのだ)
「……っ!」
ビクッと震えた玲央の体に、持子の掌から信じられないほど温かく、力強いエネルギーが浸透していく。
「これ……すごいです。痛みが、氷が溶けるみたいに……スッと消えていく……」
「ふはは、当然よ。わしの掌は魔法の手だからな」
持子は陽翔、蒼真、凛花、紗良と、次々と一年生たちに触れ、純粋な魔力で彼らの筋繊維を修復していった。
だが、他者の治癒に自身の魔力を「与える」という行為は、暴食の魔王である持子にとって激しい消耗を強いるものだった。全員の治療を終えた時、持子は密かに(ふぅ……なまら疲れたわ……少し、眩暈がするな)と息を吐き、額の汗を拭った。
夕方。
持子の「魔法のマッサージ」のおかげで、一年生たちはようやく自力で立ち上がれるまでに回復していた。
すっかり汗と埃にまみれた体を洗うため、部員たちは神社の敷地の奥にある、川の水を引いた岩風呂 へと向かった。
しかし、秘湯の趣がある岩風呂は一つしかない。
「よし! 温泉は一つだから、時間を分けるぞ! 女子の方が髪を乾かしたり時間がかかるから、男子が先に入れ!」
持子の号令により、まずは森、蒼真、陽翔、玲央の男子陣が風呂へと向かった。
「森先輩、俺、自分で洗えますから……!」
「動くな蒼真。背中の筋肉の張りがまだ残っている。俺が流す」
「俺の背中も流してくださいよ森先輩! ギャッ! 力が! 皮が剥けるぅ!!」
「やかましい陽翔! 貴様は受け身の天才 だろうが、タオルとの摩擦くらい受け流してみせよ!」
男湯からは、賑やかな声が響き渡った。
男子が上がり、日が暮れ始めた頃、いよいよ女子陣の番となった。
岩風呂の温度は、冷たい川の水を引いたことで心地よい適温になっている。
「はぁ〜……生き返るぅ……」
「千手先輩、背中流しますね」
「凛花ちゃんありがとう! 紗良ちゃんもこっちおいでよー!」
女子たちはキャッキャと明るい声を上げ、お湯を楽しんでいた。
しかし、持子だけは岩風呂の端で、静かに湯船に身を沈めていた。
(……いかん。魔力を放出しすぎたせいか、体が鉛のように重い。だが、ここでひよっこ共に心配をかけるわけにはいかんな)
持子は黄金の瞳を伏せ、気丈に振る舞いながらも、静かに呼吸を整えていた。
風呂上がり。
ポータブル電源に繋がれたLEDランプ の柔らかな光の下、部員全員が円になって座り、雑談に花を咲かせていた。
先輩たちの失敗談を聞き、一年生たちの緊張が完全に解けていく。
ふと、玲央が真剣な表情になり、正座の姿勢を正した。
「……俺たち……絶対に、合気武道部を辞めませんから」
その言葉に、蒼真も力強く頷いた。
「今朝は心が折れかけましたけど……先輩たちの優しさに触れて、絶対に失望させたくないって思いました。俺たちには、俺たちのプライドがあります。どんなに厳しい稽古でも、絶対についていきます!」
玲央の力強い宣言に、千手も森も、目を細めて頷いた。
持子も気怠さを隠しながら「ふはは……明日からは地獄だぞ。覚悟しておけ」と笑い返した。
―― 二日目深夜・禊と仄かな光
深夜。
時計の針が午前二時を回った頃、氷川神社の敷地内にある合宿所の宿泊棟は、深い静寂に包まれていた。
昼間の「魔法のマッサージ」によって地獄の筋肉痛から解放された一年生たちも、彼らを手厚く介護した千手美貴と森盛夫も、今は畳の上で健やかな寝息を立てている。
その静寂の中、スッと音もなく立ち上がる影があった。
絶世の美貌と黄金の瞳を持つ魔王、恋問持子である。
「……ふぅ」
暗闇の中で、持子は小さく、ひどく重たい息を吐き出した。
自身の内側、丹田のあたりを探ってみるが、いつもなら底なしのブラックホールのように渦巻いているはずの「極黒の魔力」が、今は乾いた井戸のようにすっからかんになっていた。
(……いかん。想像以上に、魔力を放出しすぎたようだな。体が鉛のように重い)
持子の本質は「暴食」である。
他者の絶望や呪詛、あるいは忠犬である本多鮎のような存在から生気を『奪う』ことで、その絶大な力と黄金比のプロポーションを維持してきた。
しかし今日、彼女は一年生たちの千切れた筋繊維を修復するため、一切の邪念を封印し、純粋な「肉体の回復」のみに自身の魔力を『与え』続けた。
他者から奪うことに特化した魂を持つ彼女にとって、自らの命を削って他者に与える行為は、想像を絶する疲労と反動を伴うものだったのだ。
持子は音を立てずに宿泊棟を抜け出すと、月明かりだけが頼りの深い森へと足を踏み入れた。
ザクッ……ザクッ……。
草を踏みしめる音が、静まり返った境内に響く。
(このままでは、明日の稽古でわしが倒れてしまう。少し、この森の木々から生命力を『もらう』とするか……)
持子は立ち止まり、天高くそびえる樹齢数百年の御神木へと、スッと右手を伸ばした。
彼女の魔力をもってすれば、この森の木々から少しずつ生気を吸い上げるなど造作もないことだ。そうすれば、すぐにでも魔王としての全盛の力が戻ってくる。前世の董卓であれば、迷うことなく森を枯らしてでも己の力を取り戻しただろう。
しかし――その右手は、御神木の樹皮に触れる数センチ手前で、ピタリと止まった。
『先輩。あそこは東京の端にある極秘で神聖な土地ですから、絶対に悪さはしないように。いかがわしい事や、悪さはしないでくださいね?』
ふと、脳裏に後輩である風間楓の顔が浮かんだ。
氷川神社の巫女であり、凛とした美貌を持つ彼女の、冷徹だがどこか心配そうな声。
そして、今日マッサージをした時の、一年生たちの安らいだ寝顔。
『持子先輩の、手……大きくて、すごく温かいです……』という、阿部凛花の無邪気な声。
「……ふっ」
持子は伸ばしかけた手を下ろし、自嘲気味に笑った。
「ひよっこ共の体を癒しておいて、その直後に神社の森から命をかすめ取ろうなど……董卓としては大正解でも、恋問持子としては三流もいいところだな」
手軽な略奪を諦めた持子は、再び森の奥へと歩き出した。
遠くから、微かに水音が聞こえてくる。
(そうだ。以前、楓の修行に付き合って、この近くの滝で禊を行ったことがあったな)
ザアァァァァァァッ……!!
木々を抜けた先、月明かりに照らされた美しい滝が姿を現した。
岩肌を打ち据える水の音は、夏の夜の空気を震わせ、周囲にはひんやりとした清涼な空気が満ちていた。
持子は周囲に誰もいないことを確認すると、纏っていた衣服を無造作に脱ぎ捨てた。
白磁のような滑らかな肌が、月光を反射して妖しく、そして神々しく光る。
彼女は躊躇うことなく、凍てつくような滝の冷水が打ち付ける滝壺へと、その肢体を沈めていった。
「……っ!! つぅぅぅっ……!!」
脳天から容赦なく叩きつけられる激流。
夏の夜とはいえ、山の湧き水は氷のように冷たい。魔力が枯渇し、疲労困憊の肉体には、まるで無数の針を突き立てられているかのような激痛が走った。
ガチガチと奥歯が鳴り、体温が急速に奪われていく。
しかし、持子は目を閉じ、滝の真下で胡座をかいて合掌した。
(己の内に意識を向けよ。散散に散らばった魔力の残滓を、かき集めるのだ)
以前、楓と共に冬の禊を行った時のことを思い出す。
あの時、持子の体内に溜まった他者の呪いや「穢れ」が暴走しかけたのを、楓が自身の神術で祓うのを手伝ってくれ、命を救われた。あの時、楓は持子の極黒の魔力の流れを整え、美しい『光の柱』を作り出して見せたのだ。
持子は、自身の丹田の奥底で消えかかっている黒い霧を、ギュッと一点に圧縮した。
すると、彼女の体から、ジワリジワリと黒い泥のような「穢れ」が水中に溶け出し始めた。他者から奪い続けた業。そして今日、無理に魔力を変換したことで生じた淀みだ。
(……この穢れを、どうにかせねばならん。だが、わしの魔力は、本来『奪う』ためのものだ)
持子の内なる董卓の魂が、周囲の自然から強引に力を奪い取ろうと疼く。
しかし、持子はその衝動を必死に押さえ込んだ。
(違う! 今日、わしがひよっこ共に与えたのは、絶望ではない。呪いでもない。あやつらの痛みを和らげたいという、ただの……そう、ただの『祈り』のようなものだったはずだ)
持子は、滝の冷たさを忘れ、ひたすらに今日の昼間の感覚を思い出した。
自分の大きな掌の下で、玲央の強張った背中がホッと緩んだ瞬間の、あの柔らかな手触り。
自分の力が他者を癒し、彼らから向けられた、純粋な信頼の眼差し。
(奪うのではなく、与える……。わしの中から湧き出る、この温かい感情。これを、力に変える……!)
バチッ……。
不意に、持子の内側で、何かが弾けるような小さな音がした。
圧縮された極黒の魔力の中心。底知れぬ闇の奥底で、ごく僅かな、だが確かな『熱』が生まれた。
「……ん?」
持子が薄く目を開けると、彼女の体を包み込んでいた黒い穢れの泥が、淡い純白の光の粒子となって、シュワシュワと水に溶けて消えていくのが見えた。
カッ……、ポワァン……。
持子の胸の中心から、蛍の光のような、淡く儚い『光』が漏れ出していた。
それは、以前楓が作り出したような、天を衝く巨大な光の柱ではない。風が吹けば消えてしまいそうな、小さな小さな種火のような光だ。
しかし、その光が灯った瞬間、凍りつくようだった滝の水が、まるで春の陽だまりのように温かく感じられた。
「おお……」
持子は、水面を漂うその淡い光の粒子を、掬い上げるように手のひらで見つめた。
鉛のように重かった体が、少しだけふわりと軽くなる。枯渇していた魔力が完全に回復したわけではない。だが、彼女の魂にこびりついていた「穢れ」が、その小さな光によって確実に祓われていくのを感じた。
(なるほど……。少しだけ、わかってきたぞ)
持子は、滝の飛沫を浴びながら、黄金の瞳を細めてニヤリと笑った。
(他者から『奪う』力は、手っ取り早く強大だ。だが、その代償として魂に穢れが溜まる。……対して、他者に『与える』ことで生まれるこの光は、ひどく非効率で疲れるが……己の魂を浄化し、全く別の質を持ったエネルギーを生み出すのだな)
彼女はまだ、この光を自在に操れるわけではない。
気を抜けばすぐに消えてしまうような、未熟で小さな力だ。
しかし、暴食の魔王であった彼女が、「与えることで得られる力」の法則の尻尾を、確かに掴んだ瞬間だった。
「ふは、ふはは……! 面白い。実になまら面白いではないか!」
持子は、小さく灯る胸の光を確かめるように、自身を抱きしめて笑った。
(この小さな種火……この合宿中に、どこまで育てられるか試してみるのも一興だな。千手、森。そしてひよっこ共よ。貴様らのおかげで、わしはまた一つ、強くなるための欠片を見つけたぞ)
ザバァッ!
持子は滝壺から勢いよく立ち上がった。
まだ疲労は残っている。だが、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。
濡れた漆黒の髪を無造作にかき上げ、衣服を纏う。
「さて、少し冷えすぎたな。戻って、ひよっこ共の寝顔でも見ながら眠るとしよう」
月明かりの下、氷川神社分社の森を歩く持子の足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。
極黒の魔王の内に芽生えた、小さな光の種。
明日からの、さらなる地獄の、しかし笑いと絆に満ちた合宿の中で、その光がどう開花していくのか。
合気武道部の熱い夏は、まだ始まったばかりである。




