『束の間の休息と、死神の微笑』
パリの陽光が、豪奢なホテルのスイートルームに降り注いでいた。
昨夜までの血と魔力に塗れた死闘が嘘のような、穏やかなヨーロッパの午後。
『カタカタカタカタッ……ターン!』
静寂な部屋に、乾いたタイピング音だけが正確なリズムで響き渡る。
元・政府機関「彼岸花」であり、現在はTIAに所属する霞涼介は、銀縁メガネの奥の理知的な瞳をノートパソコンの画面に向け、一切の無駄のない動作で事後処理のレポートを作成していた。
スーツのように着崩しの一切ない制服姿の彼は、休暇中であっても「人間の形をした戦略AI」としての本分を忘れることはない。
『バンッ!!』
突如、部屋の重厚なドアが乱暴に開け放たれた。
「オーッホッホ! 霞、いつまでそんな陰気な箱とにらめっこしていますの!」
「そうですにゃぁ……せっかくのパリですのに、もったいないですぅ」
踏み込んできたのは、へそ出しのギャルファッションに身を包んだ「大和撫子×ギャル」という異質な融合を果たした葉室鶴子と、ふわふわの茶髪ボブを揺らす小柄な花園美羽だった。
「……非効率ですね」
霞は画面から目を離さず、冷淡に言い放つ。
「現在、私はTIA本部に提出する被害状況と消費弾薬の概算データを――」
「あーもう、御託はいいからさっさと立ちなさいな! わたくしたち、これからシャンゼリゼ通りに繰り出しますのよ! 当然、荷物持ちが必要ですわ!」
「……お断りします。私は――」
『ピタリ。』
霞の言葉が、喉の奥で凍りついた。
鶴子と美羽も、一瞬にしてカエルのように肩を跳ね上がらせ、息を呑む。
霞の背後――先ほどまで誰もいなかったはずの空間の温度が、急激に零下へと叩き落とされていた。
「……付き合いなさい、霞先輩」
振り返るまでもない。
そこに立っていたのは、美しい紺色のパーティドレスを身に纏い、漆黒の長髪を靡かせた風間楓だった。
学年で言えば彼らの一つ下の後輩。しかし、この場においては命殺与奪を握る絶対的な上司にして、最高戦力である。
「か、風間……殿」
「これは、上司からの命令です」
能面のような無表情のまま、楓は氷のような瞳で三人を順に見据えた。
「今日は休暇です。遊びなさい」
「しかし、データの報告が――」
「明日には、死ぬかもしれないのですよ」
その言葉に、三人は息を呑んだ。
凄惨なヨーロッパ戦線を生き抜いた彼らにとって、それは比喩でも何でもない、残酷な真実だった。
楓の氷のような眼差しが、ほんのわずかに――本当にわずかに、柔らかく歪む。
それは、彼女が見せた極めて珍しい、不器用な微笑みだった。
「……ッ!!」
「「「了解しました(ですわ/にゃ)!!」」」
絶対的な死神の微笑みに、三人は逆らうことなどできるはずもなく、弾かれたようにホテルを飛び出していった。
* * *
パリの街並みは、どこを切り取っても絵画のように美しかった。
焼きたてのクロワッサンとバターの甘い香りが漂い、テラス席では人々が優雅にエスプレッソを傾けている。
「これも! あ、そっちのバッグも包んでくださる!? マジで全部買いますわよ!」
『ガサガサッ!』『ドサッ!』
高級ブランドが立ち並ぶ大通りで、鶴子の爆買いが止まらない。
両手、さらには首にまで無数の紙袋を提げさせられた霞が、忌々しげにメガネを押し上げる。
「……いい加減にしてください、葉室。あなたのその浪費は、精神衛生上の逃避行動としては極めて非効率だ。根本的な解決には至りません」
「う、うるさいですわね! わたくしは今、失恋の痛みをユーロで焼却している最中ですの!」
鶴子は扇子で霞をビシッと指差し、ギリッと唇を噛む。風間洋助への叶わぬ初恋――その未練を断ち切るために、彼女は自分自身を壊してでも前に進もうと必死だった。
その横で、美羽はショーウィンドウに飾られた豪奢なアンティークの髪飾りを、じっと見つめていた。
(……可愛いですにゃぁ。持子様に買って行ったら、似合うだろうなぁ……)
だが、そっと伸ばしかけた手を、美羽は力なく下ろした。
今回のパリ遠征で得た莫大な報奨金。だが、彼女には大家族を一人で養わなければならないという重い現実がある。
どんなに「奪う側」の執着を持っていようと、家族の生活費をブランド品に溶かすような真似はできなかった。
「はぁ……」
150センチの小さな身体から、年齢に合わない重いため息が漏れる。
「――ため息をつくと、運が逃げますよ」
『ヒッ!?』
背後から掛けられた声に、美羽は文字通り心臓が止まりかけた。
いつの間にか――本当に無音の歩法で、楓がすぐ後ろに立っていたのだ。
「か、楓ちゃん……!?」
「昨日は、よくやりましたね、美羽先輩」
楓は冷徹な表情のまま、スッと右手を差し出した。
その指先に挟まれていたのは、鈍い光を放つ漆黒のブラックカードだった。
「私からのボーナスです」
「え……? ええっ!?」
「楽しみなさい。明日の朝には回収します。それまで好きに買い、精一杯遊びなさい」
無機質な声だった。だが、そこに込められた感情は、紛れもなく共に死線を潜り抜けた仲間への「労い」だった。
小柄な美羽は、震える手でそのカードを受け取る。
最強の化け物であり、恐ろしい上司。けれど、彼女もまた、同じ戦場に立つ少女なのだ。
美羽の瞳に、ジワリと熱いものが滲んだ。
裏社会で生き、常に自分を偽って生きてきた彼女にとって、この不器用すぎる優しさは、どうしようもなく胸を打つものだった。
「……楓ちゃん」
「なんです」
『ギュッ!』
「――っ!?」
不意に、美羽が楓の右手首を両手でしっかりと掴んだ。
いかなる奇襲も許さないはずの楓が、目を見開き、わずかに動揺を見せる。
「じゃあ……一緒に遊んでくださいっ!」
美羽は涙目のまま、ニカッと満面の笑みを浮かべた。偽りの笑顔ではない。花園美羽という一人の少女の、本当の笑顔だった。
「なっ……離しなさい、私はただ様子を見に――」
「だーめーですぅー! ほら、鶴子ちゃん! 霞くん! 荷物持ち、もう一人追加ですにゃー!」
「ちょっ、美羽! あんた命知らずですの!?」
「非合理的だ……我が目を疑いますね」
美羽に引っ張られ、ズルズルと前へ引きずられていく楓。
その氷のような無表情の奥で、ほんのりと頬が朱に染まっていたことに、他の三人は誰も気づいていなかった。
明日、命を落とすかもしれない。
それでも今は――この美しいパリの空の下で、四人の不器用な戦友たちの笑い声が、どこまでも響いていた。
休暇
『ガサガサッ!』『カチャカチャ……!』
パリの高級ブティックに、煌びやかな喧騒が響き渡る。
風間楓という『絶対的な上司』から与えられた、魔法のような漆黒のブラックカード。それを手にした三人の歯車は、完全に狂っていた。
「きゃああっ!? こ、こんなヒラヒラのお洋服、私にはもったいないですにゃぁ……!」
「馬鹿言わないでちょうだい! 美羽は素材が良いんだから、もっと盛りなさいな! ほら、このシャネルの新作バッグも合わせるんですわ!」
「ひええぇぇ……!」
試着室から出てきた花園美羽は、普段の清楚な制服姿とは打って変わった、淡いピンクのフリルがあしらわれた高級ドレスに身を包んでいた。150センチという小柄な体格に、その愛らしいデザインが暴力的なまでに似合っている。
葉室鶴子は、大和撫子とギャルが融合した鋭い審美眼で、次々と美羽に服やバッグをあてがっていく。
「……葉室。私のネクタイやカフスまで見立てる必要性がどこに?」
「うるさいですわね! 霞も少しは見た目に気を使いなさいな! その無駄のない機能美の肉体に、ただの地味なスーツなんて宝の持ち腐れですわよ!」
「……非合理的ですが、否定はしません」
超合理主義の霞涼介でさえ、鶴子の勢いに押し切られ、最高級ブランドの仕立ての良いジャケットや小物を幾つも購入させられていた。
そして――標的は、最後に残った一人へと向かう。
「さあ! 次は楓さんの番ですわよ!」
「……私は結構です」
漆黒の長髪を揺らし、楓は氷のような無表情で即答した。
「衣服などは、機能性が満たされていればそれで良いのです。それに、私の普段着は地味なものばかりですから、こうした煌びやかなものは――」
「だーめーですぅー! 楓ちゃんは何を着ても絶対似合うんですにゃ!」
「そうですわ! さあ、さっさとこの中に入りなさいな!」
『ドンッ!』『バタンッ!』
抵抗する間もなく、美羽と鶴子によって試着室へと押し込まれる楓。
数分後。
静かにカーテンが開けられると、そこには息を呑むような光景があった。
洗練された漆黒のタイトドレス。楓の黄金比とも言えるプロポーションと、氷のように冷たく孤高な美しさが、その衣服のポテンシャルを何倍にも引き上げている。
「……す、すごいですにゃ……」
「マジでエモいですわ……完璧ですの」
圧倒的な美。
しかし、ここで鶴子がイタズラっぽく笑い、ディスプレイされていた高級なティアドロップ型のサングラスを手に取った。
『スッ……』
「はい、これ。着けてみてちょうだい」
言われるがまま、楓がそのサングラスを顔にかける。
氷のように冷たい視線――その目が、暗いレンズの奥に隠された瞬間だった。
『ピタリ。』
それまで冷静に二人を眺めていた霞が、不意に言葉を失った。
銀縁メガネの奥の理知的な瞳が、驚愕に見開かれている。
「……驚きました」
霞は、一切の感情を排した、純粋な『分析結果』を口にするように言った。
「こうして視線――目が隠れると、非常によく分かりますね。体格、顔の造作、そして髪型に至るまで……楓、あなたは恋問様にそっくりだ」
『――ッ!!』
その言葉に、その場の空気が一瞬で静まり返った。
「……お世辞を言うつもりはありません。客観的な事実として――あなたは、とても美しい」
霞涼介は、無駄を嫌う男だ。彼はお世辞など絶対に言わない。
だからこそ、その言葉の破壊力は絶大だった。鶴子も「確かに……!」と大きく頷き、深く納得している。
だが――その場にいたただ一人、花園美羽だけは違った。
(ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃッ!?)
美羽の背中を、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
『劣化持子』――かつて美羽は、楓のその絶対的な美しさに嫉妬し、陰でそう悪態をついたことがあった。そしてそれを楓本人に聞かれ、土下座をして、その上頭を踏まれたのだ。
トラウマがフラッシュバックし、美羽の顔面が引き攣っていく。
しかし。
「……そうですか」
『フワッ……』
サングラスを外した楓の口元が、ゆっくりと綻んだ。
自身の敬愛する『恋問持子』。
あの圧倒的な美女に自分が似ていると言われて、悪い気がするはずがなかった。
「ふふっ……」
それは、氷の彫刻が春の陽差しを受けて溶け出すような、極上の微笑みだった。
冷酷な死神がふと見せた、年相応の、とびきり美しい少女の笑顔。
『ドキンッ……!』
『トゥンク……!』
「……っ」
「な、なんですの、今の顔は……反則ですわ……!」
霞が思わず口元を手で覆って視線を逸らし、鶴子が顔を真っ赤にして胸を押さえる。
無機質なはずの楓の予期せぬ破壊力に、二人の心臓は大きく跳ね上がっていた。
その極上の笑顔のまま、楓は視線を美羽へと向ける。
「ひっ……!」
美羽は顔を引き攣らせ、ガクガクと震えていた。その怯えきった顔を見て、楓の脳裏にもかつての『劣化持子』という暴言の記憶が蘇る。
だが、今の楓は非常に機嫌が良かった。
己の最も敬愛する主に似ていると、他ならぬ彼らに認められたのだ。
震える小動物のような美羽の顔を見て――楓の喉の奥から、くすくすと声が漏れた。
「……ふふっ、あははっ」
「か、楓ちゃん……?」
「美羽先輩のその顔、本当に滑稽ですね」
殺意のない、純粋な笑い声。
楓が心から笑ったその事実に、美羽は安堵でへたり込みそうになった。
「――方針を変更します」
楓は凛とした声で宣言し、ショーウィンドウに並ぶ最高級の衣服の数々を指差した。
「私が着て似合うなら、それは持子先輩にも似合うということ。……ここから先は、私を持子先輩のマネキンに見立てなさい。持子先輩への貢ぎ物――お土産を、徹底的に選び抜きますよ!」
「「「了解しました(ですわ/にゃ)!!」」」
そこからは、まさに狂乱のファッションショーだった。
楓が次々とドレスやコートを試着し、それが持子に似合うかどうかを四人で真剣に議論する。楓自身も「持子先輩の影」としての役割を、これほど平和な形で全うできることに、密かな高揚感を抱いていた。
* * *
数時間後。
両手で抱えきれないほどの大量のブランド紙袋を霞に持たせ、四人はシャンゼリゼ通りの優雅なオープンカフェへと落ち着いた。
「ふぅー……買いましたわね!」
「もう、足がパンパンですにゃぁ……でも、楽しかったですぅ!」
遅めの昼食を兼ねたアフタヌーンティー。
テーブルには、色とりどりのマカロンや、焼きたてのクロックムッシュ、そして香り高いダージリンティーが並べられている。
「……これも、悪くないですね」
ティーカップを優雅に傾けながら、楓がポツリとこぼした。
その傍らには、愛する持子のために選ばれた最高級の衣服たちが、大切に置かれている。
西に傾きかけたパリの太陽が、石畳の街並みを黄金色に染め上げていく。
明日にはまた、血と硝煙に塗れた死闘が待っているかもしれない。
しかし、このひと時だけは――極黒の魔王の下に集った四人の若者たちは、ごく普通の学生のように、甘い紅茶の香りと穏やかな午後の余韻に浸りながら、滞在先のホテルへの帰路につくのだった。




