『不可侵の聖域と、夜の王の盟約』
【神聖なる不可侵と、錬金術の盟約】
パリの裏社会が、血と破壊の嵐に吹き荒れた長い一夜が明けた。
人狼の群れ、歴史の怨霊、数百万の死霊の軍勢、そして反逆の吸血鬼クラン。エティエンヌの不在を突いて玉座を狙った巨大な闇の勢力は、極東の魔王の威光を背負った混成部隊によって、たった一晩で文字通り『塵一つ残さず』完全粉砕された。
その圧倒的で理不尽なまでの武力による蹂躙劇は、未だ静観を保っていた残りの勢力にとって、これ以上ない冷水にして、最悪の牽制となったのである。
もはや、剣や魔法で彼らに勝てる見込みはない。
だからこそ、最後の決着は『血』ではなく、『政治』と『金』によってつけられることとなった。
* * *
パリ中心部、セーヌ川を見下ろす荘厳な大聖堂の奥深く。
ステンドグラスから差し込む冷たい朝の光の中、ヴァチカン秘密結社『第十三長槍騎士団』の団長である枢機卿は、ギリッと奥歯を噛み鳴らしていた。
「……パリの地下を、我らが『聖なる炎』で吸血鬼もろとも浄化する絶好の機会であったというのに。忌々しい……!」
彼の前に座っているのは、世界的ブランド「リュクス・アンペリアル」の若き女帝エレーヌ・リジュ、そしてヨーロッパ最強の異端審問官傭兵軍団を率いる『聖女』ベアトリスであった。
「お戯れを、枢機卿閣下」
リジュは、最高級の紅茶を優雅に啜りながら、冷徹な微笑を浮かべた。
「あなた方の『聖なる炎』とやらで、あのエティエンヌと……彼女が連れてきた極東の化け物たちを焼き尽くせると、本気でお思いですか? 昨夜の惨劇……ノスフェラトゥの群れが一瞬で蒸発したという報告は、すでに耳に入っているでしょう?」
「ぐっ……」
枢機卿の顔が、屈辱で歪む。
狂信的な暗殺部隊である彼らとて、情報収集は怠っていない。神話級の光の爆発、超重力による圧殺、怨念の完全浄化。自分たちが束になっても到底敵わない規格外の暴力が、今のパリには集結しているのだ。
「それに、閣下」
ベアトリスが、白銀の戦槌を床にトン、と軽く突き、静かに、しかし絶対的な威圧感を込めて口を開いた。
「我ら教会の人間同士で、無益な血を流す必要がどこにありましょう。私はリジュの莫大な資金援助の元、すでに多くの異端を祓いました。……これ以上、教会の名を騙ってパリを無闇に戦火に巻き込むのであれば、私自身があなた方を『異端』として粛清せねばなりません」
「……ッ! ベアトリス、貴様、ヴァチカンの直属たる我らを脅す気か!」
「脅しではありません。事実であり、ご提案です」
リジュがスッと、分厚い書類の束をテーブルに滑らせた。
「バチカン銀行が抱えている不良債権の肩代わり、および、修復が必要な歴史的建造物への莫大な寄付。リュクス・アンペリアルが、これらをすべて無償で引き受けましょう。……その代わり、あなた方はパリの裏社会から手を引きなさい」
圧倒的な『金』による恩恵と、背後に控える絶対的な『武力』の脅威。
飴と鞭を完璧に使いこなすリジュの政治力に、枢機卿は反論の言葉を完全に失った。
「……条件は、一つだ」
長い沈黙の末、枢機卿は搾り出すように言った。
「我ら第十三長槍騎士団は、エティエンヌの眷属、および極東の退魔師たちと『不可侵条約』を結ぶ。我らから手は出さない。だが、奴らが我らの聖域を侵せば、協定は破棄されるものと思え」
「ええ、それで結構ですわ。賢明なご判断に感謝いたします」
リジュは優雅に微笑み、不可侵条約の書類にサインを求めた。
武力を使うことなく、最大の宗教的暗殺部隊を封じ込めることに成功したのである。
* * *
一方、パリ郊外の重工業地帯。
魔術と現代兵器を融合させた巨大な地下工房――『錬金術師の末裔(ヘルメス結社)』の本拠地には、かつてないほどの張り詰めた空気が漂っていた。
「……まさか、夜の王ご自身が、単騎で我が結社に足を運ばれるとは」
防弾ガラスと魔術防壁で何重にも守られたボスの執務室。
そこに座るマフィアのボス――全身の半分を機械化(サイボーグ化)した初老の男は、葉巻を燻らせながら、目の前に立つプラチナブロンドの絶世の美女を見上げていた。
「ごきげんよう、錬金術師の末裔。……随分と物騒な玩具を並べていらっしゃるのね」
エティエンヌ・ド・ロシュフォール=ノクティス。
彼女の周囲には、魔力駆動のガトリングガンを構えた重装甲のサイボーグ兵士たちと、試験管の中で培養された不気味なホムンクルス(人造人間)たちが、一斉に殺気を向けて配置されていた。
だが、エティエンヌは微塵も動じることなく、ただ呆れたように鼻を鳴らした。
「夜の王よ。貴女の女体化には驚いたが……昨夜の派手な立ち回りは見事だった。だが、我がヘルメス結社の近代兵器と魔術の融合は、古臭い吸血鬼や人狼の牙とは次元が違う。……いくら貴女でも、無傷では済まないぞ」
ボスが葉巻の煙を吐き出しながら、牽制する。
「ふふっ……アハハハハハッ!」
エティエンヌは、突如として腹の底から歓喜の笑い声を上げた。
「無傷で済まない? ……それがどうしましたの? この肉体が傷つき、痛めつけられることなど、今の私にとっては何の脅威でもありませんわ」
ズゥゥゥゥゥンッ!!
エティエンヌの真紅の瞳が怪しく輝き、極黒の魔力が執務室の重力を急激に歪ませる。
「ガガッ!? システムに異常発生……魔力防壁、出力低下……ッ!」
サイボーグ兵士たちが、不可視の重圧に耐えきれず、次々と膝をつき始めた。
「私はね、愛する持子様のために、このヨーロッパの雑草を刈り取らねばならないのです。……あなたたちをここで皆殺しにして、そのガラクタの山をスクラップにするのは、息を吐くより簡単なことですわ」
エティエンヌの言葉には、一切のハッタリがない。彼女は本気で、この結社を一人で壊滅させるだけの力を持っている。
ボスの顔から、余裕の表情が完全に消え失せた。
「だが……」
エティエンヌはふっと殺気を収め、魅惑的な笑みを浮かべた。
「持子様は、新しいものや面白いものがお好きですの。あなたたちのその『魔術と現代兵器の融合』という技術……壊してしまうには、少し惜しいと思いましたわ」
「……何が言いたい?」
「協力しなさい、錬金術師。私に忠誠を誓い、あなたたちの技術と生産力を、私……ひいては極東の魔王・持子様のために提供するのです。そうすれば、リュクス・アンペリアルの販路を使い、あなたたちの兵器をより高値で裏社会に流通させて差し上げますわ」
武力による圧倒的な脅威を突きつけた上での、極めて現実的で旨味のあるビジネスの提案。
自分たちを「敵」として滅ぼすのではなく、「有用な道具」として取り立てるというのだ。
「……我々を、傘下に収めるというのだな」
ボスは深く息を吐き、葉巻を灰皿に押し付けた。
彼らマフィアにとって、金と権力が保証されるのであれば、誰の傘下に入るかは問題ではない。ましてや相手は、たった一夜でパリの裏社会を制圧した完全無敗の怪物たちなのだ。
「……悪くない取引だ。我らヘルメス結社は、これより『夜の王』の協力組織として、その技術を惜しみなく提供しよう」
ボスが立ち上がり、エティエンヌに対して深く頭を下げた。
「ふふっ。賢明な判断ですわ。……持子様も、きっとお喜びになります」
エティエンヌは満足げに微笑み、洋館の窓からパリの朝焼けを見つめた。
武力による徹底的な粉砕。
そして、政治力と金と権利による、無血の平定。
極東の魔王の威光を背負ったエティエンヌとリジュたちの手により、長らく混乱の中にあったヨーロッパの裏社会は、再び絶対的な『夜の王』の支配下へと収まったのである。
血塗られた一夜は明け、新しい、そして狂気に満ちた平和な朝が訪れようとしていた――。




