『夜の王、帰還前夜 ――ヨーロッパ崩壊序章』
第一章:仮初めの平穏と、影で蠢く狂気
ヨーロッパの裏社会――それは、数百年もの長きにわたり、一人の絶対的な『夜の王』によって恐怖と暴力で支配されてきた漆黒の領域である。
真祖の吸血鬼、エティエンヌ・ド・ロシュフォール=ノクティス。約500歳となるその無敗の化け物が、あろうことか一人の極東の少女に狂信的な恋をし、あろうことか自らの肉体を女体化させて日本へと出奔してしまったという事実は、大陸全土の闇の住人たちを大いに揺るがせた。
現在、ヨーロッパの闇は『嵐の前の静けさ』を保っているように見えた。
エティエンヌが残した優秀な吸血鬼の部下たち。そして、世界的ブランド「リュクス・アンペリアル」の若き女帝であり、持子の前世(董卓)の忠臣・李儒の生まれ変わりでもあるエレーヌ・リジュが私財を投げ打って呼び戻した、ベアトリス・ド・ロシュフォール率いる異端審問官の傭兵軍団である。
本来ならば、闇の眷属たる吸血鬼と、神の光を掲げる聖女の武闘集団が手を組むなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことである。だが、リジュという類稀なる知将の仲介と、彼女がばら撒く莫大な資金の力によって、この呉越同舟の共闘関係は辛うじて維持され、反乱の火種を強引に押さえ込んでいた。
だが、それも限界が近づいていた。
『夜の王が不在』という事実は、虎視眈々と覇権を狙う人狼の群れや、他国の吸血鬼のクラン、悪魔憑きたちの野心を日増しに肥大化させている。エティエンヌ本人が戻り、その圧倒的な力で再び恐怖の楔を打ち込まない限り、ヨーロッパ全土が血の海に沈むのは時間の問題だった。
一方、極東の島国、日本の首都・東京。
かつて特級怨霊や神話級の古竜が暴れ回り、異界の門が開きかけた帝都の地下は現在、奇跡的なほどに霊脈が安定していた。
その結果、何が起きたか。
民間霊的組織【TIA】をはじめ、陰陽庁、八咫烏、そして無数の退魔クランに所属する実力者たちが、軒並み『仕事にあぶれる』という事態が発生したのである。
退魔の仕事がないということは、彼らにとって死活問題――つまり、金にならないということだ。
そこに目をつけたのが、他ならぬエレーヌ・リジュだった。
『莫大な報酬を約束する。フランスへ飛び、裏社会の鎮圧に協力せよ』
リジュから発せられたその一攫千金の依頼は、退屈と金欠を持て余していた日本の退魔師たちを熱狂させた。各クランから腕に覚えのある希望者たちが、次々と海を渡る準備を始めていたのである。
【社長の密命と、泥棒猫の試練】
同じ頃。芸能事務所「スノー」の社長室。
重厚なマホガニーのデスク越しに、冷徹な美貌を持つ社長・立花雪は、目の前に座る花園美羽を静かに見据えていた。
「……というわけで、美羽。あんたも今回のヨーロッパ鎮圧部隊に混ざり、フランスへ飛んでもらうわ」
「……はにゃ? フランス、ですかぁ?」
美羽は大きな瞳を瞬かせた。持子への重すぎる愛を歌うカルトシンガーとして活動しつつも、彼女の戦闘力は、楓から譲り受けた五行と「聖」「闇」を宿した『七牙』の短刀を駆使してようやく上位に食い込める程度。神話級の力を持つ者たちに比べれば、まだ発展途上である。
「リジュから直々に相談が来ているのよ。事態は思った以上に切迫しているわ。……美羽、あんたにはこの実戦の嵐の中で、徹底的に武者修行をしてきなさい」
「む、武者修行……持子様はお留守番なのに、私一人で行くですにゃ……?」
「ええ。その代わり……」
スッ、と。
雪は一枚の分厚い小切手と、契約書をデスクに滑らせた。そこに記されたゼロの数を見て、美羽は息を呑んだ。
「あんたの大家族、幼い兄弟たちが全員成人するまでの養育費と生活費。……そのすべてを、スノーが前払いで面倒を見てあげる。あんたがフランスで生き残り、強くなって帰ってくることへの『対価』よ」
「しゃ、社長……っ」
「それだけ過酷な試練だということよ。……やれるわね、美羽?」
美羽の瞳から、ポロポロと涙がこぼれた。修学旅行先の小樽で高額なアンティークを壊し、三百三十万の借金を背負い、人生が破滅しかけた自分を救ってくれた持子。そして、家族の未来まで保証してくれる雪。
「……やります! 泥棒猫の意地を見せて、絶対に強くなって帰ってくるですにゃ! 家族のためにも、持子様の隣に立つためにも!」
「いい返事ね」
雪はふっと口元を緩めると、手元のスマートフォンを操作し、TIAの代表である風間助平へと電話をかけた。
『――おお、雪くんか! 君からの電話とは珍しいな!』
「助平さん、単刀直入に言います。今回のフランスへの派遣、TIAから風間楓と、それからTIAに所属となった霞涼介……あの眼鏡の男を助っ人として貸してちょうだい。美羽のサポートと、事態の確実な収拾のためにね」
『ふむ。東京の霊脈も落ち着いておるし、楓の修練にも丁度良いじゃろう。霞の小僧も、持子くんへの恩返しなら喜んで行くはずだ。……よかろう、手配しておこう』
雪の冷徹な手腕により、最強の布陣が着々と整えられていく。
だが、最大の問題は――フランスの闇の絶対的支配者である、あの『極度のドM吸血鬼』を、どうやって持子の側から引き剥がして帰国させるか、であった。
【魔王の寝室、甘美なる余韻】
――代官山、超高級マンションの最上階。
真夏の強烈な日差しを遮光カーテンで完全に遮断した、恋問持子の寝室。
そこには、世界の危機など微塵も感じさせない、甘く、そして退廃的な空気が漂っていた。
「んんっ……持子様ぁ……。貴女の指先、とても気持ちが良いですわ……」
「ふはは。お前もだ、エティエンヌ。その白磁のような肌は、何度撫でても飽きんな」
キングサイズの巨大なベッドの中。
極黒の魔王たる恋問持子を中央にして、右にプラチナブロンドの長髪を持つ真祖・エティエンヌ、左にピンク色の髪を揺らす第一下僕・本多鮎が、肌と肌を密着させてシーツに包まれていた。
「持子様、私のことも撫でてくださいよぅ……。さっきの持子様、とっても激しくて、私……」
「よしよし、鮎。お前もなまら可愛かったぞ。あのインテリぶった顔が、快楽でだらしなく崩れる瞬間は最高だからな」
「あぁんっ……ご主人様ぁっ……♡」
チュッ、チュルッ……。
持子は、甘える鮎の唇に軽くキスを落とし、反対側のエティエンヌの豊かな胸を愛おしそうに揉みしだいた。185cmの長身と黄金比の完璧なプロポーションを持つエティエンヌの肌が、快感でほんのりと桜色に染まる。
先ほどまで、このベッドの上では、三人の少女たちによる、魔力と愛欲が複雑に絡み合った狂乱の儀式が行われていたのだ。
嫉妬深い鮎と、究極のドMであるエティエンヌ。本来ならば相容れないはずの二人が、持子という絶対的な太陽を中心にして、今では奇妙な連帯感と愛情を共有し、こうして事後の甘い余韻を楽しんでいる。
「ふふっ。鮎、あなたのあの声……とても可愛らしかったですわよ?」
「うっさいですね! エティエンヌこそ、持子様に踏まれてあんなに嬉しそうな顔をして……変態吸血鬼!」
いがみ合いながらも、二人の表情は多幸感に満ちて緩み切っていた。
持子はそんな二人を両腕で抱き寄せ、満足げに目を細めた。
外の暑さなど関係ない。愛する美しい下僕たちを侍らせ、永遠にこの甘美な時間を貪っていたい。そう思っていた、その時だった。
ガチャリッ!!
「……ちょっと、あんたたち」
突如として寝室の扉が開かれ、スーツ姿の立花雪が、氷のように冷たい視線を向けて立っていた。
第四章:不純異性交遊の言い訳と、迫る決断
「ひゃああっ!?」
「しゃ、社長!?」
鮎とエティエンヌが慌ててシーツを引き寄せ、自分たちの裸体を隠す。
しかし、持子は全く動じることなく、堂々と175cmの美しい体を晒したまま、むすっとした顔で雪を睨み返した。
「なんだ、雪か。ノックくらいせんか。わしは今、愛する下僕たちと至福の時間を過ごしておったのだぞ」
「仲が良いのは結構だけどね。……もうお昼よ! 夏休みだからって、昼間からベッドで何やってるの。一応言っておくけど、持子も鮎も、まだ未成年なんだからね!」
雪が呆れたようにため息をつく。
すると、持子は心外だとばかりに鼻を鳴らし、バシッとシーツを叩いた。
「何を言うか! 誤解するな雪。これはな、わしがただ下僕たちに『魔力』を与えていただけだ! 決して不純異性交遊などではないと言い切るぞ!」
「……はあ?」
持子の堂々たる(そして斜め上の)言い訳に、雪の眉間がピクッと引きつった。
そもそも全員女である時点で『異性交遊』ですらないのだが、持子の前世が男である董卓だという自負が、そんな頓珍漢な言葉を口にさせたのだ。
すかさず、鮎も真っ赤な顔で必死に同調する。
「そ、そうです! 私は持子様から魔力をいただいていただけで……っ! 私たち下僕は、持子様の魔力がないと死んでしまうんですから!」
「そうですわ! 持子様の魔力を直接粘膜から摂取する、これは神聖な生存のための儀式でしてよ!」
エティエンヌもうんと力強く頷き、持子の言葉を全肯定する。
ベッドの上には、どう見ても事後の生々しい匂いと、乱れ切ったシーツ、そして紅潮した少女たちの姿がある。
(……明らかに嘘だけど。これ以上突っ込むと話が進まないわね)
雪はこめかみを押さえ、小さく息を吐いた。
「……まぁいいわ。その話は置いておくとして。今日は、あんたたちのバカ騒ぎを止めに来たわけじゃないの。別件で伝えることがあって来たのよ」
雪の纏う空気が、一瞬にして冷徹なプロデューサー、そして裏の世界を知り尽くした支配者のそれへと変わった。そのただならぬ雰囲気に、持子たちも表情を引き締める。
「エティエンヌ。……あんた、フランスに帰りなさい」
ピタリ、と。
寝室の空気が凍りついた。
「……か、帰る……?」
エティエンヌの真紅の瞳が見開かれ、プラチナブロンドの髪が震えた。
「フランスをはじめ、ヨーロッパの闇の世界に、今、また非常に不穏な空気が流れているわ。あんたが不在の間に、各勢力が暴発寸前になっている。このままじゃ、裏社会全体を巻き込む大戦争になるわよ」
「そ、そんなこと! 私の部下たちと、ベアトリスの傭兵軍団が協力して抑え込んでいるはずですわ! わざわざ私が戻る必要など……っ!」
エティエンヌは必死に反論した。愛する持子の側を離れるなど、彼女にとって死ぬよりも辛い拷問なのだ。
「エティエンヌ。……『エレーヌ・リジュ』から、直々に助けを求められているのよ。限界だってね」
雪のその一言が、エティエンヌの言葉を完全に塞いだ。
リジュの情報の精度、そしてその頭脳の恐ろしさを、エティエンヌはよく知っている。そのリジュが『限界』だと言って助けを求めてきたということは、事態は本当に取り返しのつかない所まで来ているということだ。
「っ……!」
エティエンヌは俯き、ギリッと唇を噛み締めた。
反論できない。真祖としての責任、そして何より、リジュの要請を無碍にすることは、持子との絆に泥を塗ることにもなりかねない。
「……エティエンヌ」
沈黙を破ったのは、持子だった。
持子はベッドからゆっくりと立ち上がり、エティエンヌの顔を両手で真っ直ぐに包み込んだ。
「わ、わたくし……持子様と、離れたく……っ」
「泣くな。お前は、五百年間ヨーロッパを恐怖で支配してきた夜の王だろう。自分の庭の火事くらい、サクッと消してこい」
持子の黄金の瞳が、力強く、そしてどこまでも深くエティエンヌを射抜いた。
「お前は、わしの最強の下僕だ。わしの女が、ヨーロッパの雑兵どもに舐められたままなど、絶対に許さん。……行って、すべてを蹂躙してこい」
「持子、様……」
「それでこそ、わしの下僕だ。存分に暴れてこい」
持子の絶対的な肯定と、王としての命令。
その言葉を聞いた瞬間、エティエンヌの瞳に宿っていた迷いが消え、かつての冷酷無慈悲な真祖としての『狂気』が、愛の炎と共に燃え上がった。
「……はいっ。このエティエンヌ、持子様の御名にかけて、ヨーロッパの愚物どもを一人残らずすり潰し、必ずや貴女様の元へ帰ってまいりますわ!」
【餞別の儀式、そして血塗られた戦場へ】
決意を固めたエティエンヌの元へ、雪が歩み寄り、数枚の古びた『呪符』を差し出した。
「これを持って行きなさい。私の特製の呪符よ。いざという時の防御と、緊急の通信に使えるわ。……美羽や楓たちも向かわせる。死ぬんじゃないわよ」
「雪社長……。ええ、ありがとうございますわ」
エティエンヌは呪符を受け取り、恭しく頭を下げた。
そして、持子がベッドの上に再び座り、胡座をかいた。
「おい、鮎、エティエンヌ。座れ」
「はい、ご主人様」
「なんでしょうか、持子様」
持子の指示に従い、鮎とエティエンヌが持子の正面に座る。
持子は、右手で鮎の左手を、左手でエティエンヌの右手を強く握りしめた。鮎もまた、空いた手でエティエンヌの左手を握る。
三人の少女が、ベッドの上で手を繋ぎ、『三角形』の陣形を作った。
「目を閉じろ。……今から、わしと鮎の魔力を、お前に渡す」
その時だった。
ズブォッ……!
鮎の足元に落ちていた影が突如として漆黒の泥のように広がり、そこから一人の絶世の美女が音もなく飛び出してきたのだ。
金糸のような金髪に、血のように赤い真紅の瞳。三百年間パリの地下を支配し続けてきた吸血鬼の元女王、ルージュである。
「あらあら。ヨーロッパの愚物どもの始末に、わたくしを仲間外れにするおつもりかしら?」
「ルージュ!?」
驚くエティエンヌをよそに、ルージュは気高く優雅な微笑みを浮かべた。彼女はマスターである鮎から毎日力強い生気を与えられたことで、吸血鬼の呪いを完全に克服しており、その肌は柔らかな温もりを帯びている。
「エティエンヌ様……いえ、元旦那様。わたくしも手伝って差し上げますわ。地下の迷宮で培ったわたくしの魔力、存分に使いなさい」
ルージュはそう言い放つと、何もない空中に黒い亜空間の裂け目――チート収納『ルージュ部屋』を出現させた。そこから、彼女が世界中から収集した財宝の一つである、純度100パーセントの「魔石」をゴトリと取り出し、それをエティエンヌの手の中に押し付けた。
「これはわたくしからの餞別ですわ。これを核にして、魔力を限界まで注ぎ込みますのよ!」
「ルージュ……あなた、そこまで……っ」
「ふんっ。勘違いなさらないで。マスター・鮎と、大好きな持子のためですわ!」
ルージュもまた陣形に加わり、自らの手を重ねた。
「いくぞ!」
持子の体からドス黒い『極黒の魔力』が立ち昇り始めた。同時に、生体バッテリーである鮎の体からはピンク色の生気が、そしてルージュの手からは真祖の血を色濃く引く鮮烈な紅の魔力が溢れ出す。
ゴゴゴゴゴォォォォッ……!!
「ああっ……! な、なんという……! 凄まじい力が、私の中に……ッ!」
持子の暴君としての圧倒的な呪詛と覇気、鮎の無尽蔵の生気、そしてルージュの膨大な魔術の知識と魔力が、手と魔石を通じて、エティエンヌの真祖の霊核へと直接注ぎ込まれていく。
それは、通常の魔力譲渡とは次元が違う、魂そのものを分け与えるような儀式だった。
「ひぎぃっ! あぁぁっ……持子様、鮎……っ! ルージュまで……あつ、熱いですわぁっ!」
「耐えろ、エティエンヌ! これはわしたちからの、極上の『餞別』ですよ!」
鮎が、汗を滲ませながらも力強く微笑む。
「ふははは! お前一人で十分だとは思うがな。ヨーロッパの雑兵どもに、極東の魔王の力を見せつけてやれ!」
ビキビキビキッ……!
エティエンヌの体内で、魔力回路が強制的に拡張され、悲鳴を上げる。しかし、究極のドMである彼女にとって、主と仲間たちから与えられるこの激痛は、至上の快楽であり、最強の鎧であった。
「アアアァァァァァァァッ!!」
数分間の、果てしない魔力の奔流。
儀式が終わった時、エティエンヌの放つ威圧感は、以前とは比べ物にならないほど禍々しく、そして神々しいものへと進化していた。
「はぁ、はぁ……。ありがとう、ございます……持子様、鮎……ルージュ……っ」
エティエンヌは、全身に満ち溢れる力に震えながら、深く頭を下げた。
持子は、自身の額の汗を拭い、ニカッと笑って見せた。
「……何かあれば、わしを呼べ。地獄の底だろうと、ヨーロッパの果てだろうと、すぐに飛んでいってやるからな」
「……はいっ!!」
エティエンヌの真紅の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
愛する主、愛する仲間、そして莫大な魔力。すべてを背負い、真紅の真祖は立ち上がる。
「行ってまいります。……我が愛しの王よ」
東京の安定した空から、戦火の燻るヨーロッパへ。
泥棒猫の覚悟、電脳の女神の監視、そして極黒の魔力と元妻からの餞別を宿した真祖の凱旋。
役者は揃った。




