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『見えない神より、極黒の翼を』

✴︎『見えない神より、極黒の翼を』


霞との会話を終え、民間霊的組織【TIA】本部の長い廊下を歩いていた恋問こいとい持子は、ふと足を止めた。

窓から差し込む夏の眩しい西日が、床に長い影を落としている。その光の中に、静かに佇む一人の青年の姿があった。

対魔組織『聖三条騎士団』の元エースであり、天才的な聖拳術の使い手、天草・クリストファー・流星。

彼の右腕は、地下での死闘で完全に砕け散った影響により、いまだに分厚いギプスと白い包帯で重々しく固定され、首から提げられていた。


「……流星」


持子が低く声をかけると、流星は窓の外から視線を戻し、透き通るような碧眼を細めて、いつものような優しげな微笑みを浮かべた。


「持子ちゃん。霞との話は終わった?」


「うむ……」


持子は数歩近づき、流星の正面に立った。

彼から放たれる気配は、かつての『神の教義に縛られた騎士』のそれとは全く違っていた。厳格な冷たさが消え、代わりに、どこまでも深く温かい、そして揺るぎない芯の強さを感じさせる。

持子は、黄金の瞳に複雑な色を浮かべ、まずは深々と頭を下げた。


「まずは……わしを助けに来てくれて、礼を言う。ありがとう。貴様が道をこじ開けてくれなければ、わしは今ここにいなかった」


「顔を上げてよ。僕が君を助たくて、勝手にやったことだから」


流星の穏やかな声。しかし、持子は頭を上げたものの、その表情には深い苦悩と、どうしようもない「疑問」が渦巻いていた。

ギュッ、と。持子は自身の衣服の裾を強く握りしめた。


「……だが、わしにはどうしても理解できんのだ」


持子の声が、微かに震える。


「貴様はかつて、わしらが出かけたデートに、わしの在り方を否定した。神の教義に従う騎士として、極黒の魔王であるわしとは相容れないと、完全に袂を分かったはずだ」


あの日のデート。価値観の違いから、二人の道は完全に交わらなくなったと、持子自身も思っていた。

しかし、現実は違った。


「なのに……あの新宿御苑で、超高出力霊子レーザー兵器『天叢雲あめのむらくも』の極大の光が降り注いだ時、貴様は真っ先に飛び出し、わしを庇おうとした」


持子は、一歩踏み出し、流星の碧眼を真っ直ぐに射抜いた。


「その後もだ。貴様はわしを助けるために地下へ潜り……あんなに大切にして、肌身離さず持っていた『銀の十字架』すら汚水に捨てたと聞いた。教義を捨て、信仰を捨て、あまつさえ己の恩師と命懸けで戦って、その右腕を砕いてまで……ッ!」


持子の感情が堰を切ったように溢れ出す。

前世で董卓として裏切りを経験してきた彼女にとって、他者が自分に対して何の利益もなく、むしろ「己の人生の土台」を破壊してまで尽くしてくれる理由が、どうしても分からなかったのだ。


「なぜだ!? なぜそこまでして、わしのようなバケモノを助けようとした! 教えてくれ、流星……ッ!」


悲痛な叫びが、静かな廊下に響き渡る。

流星は、持子のその痛切な問いかけを、逃げることなく真っ直ぐに受け止めた。

彼は、痛むはずの右腕を庇うこともせず、ゆっくりと、持子の目の前まで歩み寄った。


「……確かに、あのデートの日。僕は君を否定し、君は僕から離れた。聖三条騎士団の騎士として、悪魔のような力を持つ君を受け入れることは、教義に対する背信行為だったからね」


流星の声は、懺悔するように静かだった。


「でもね、持子ちゃん。……あの日。新宿御苑で、天から理不尽な死の光が降り注いだ時」


流星の碧眼の奥に、あの日の光景が鮮明に蘇る。

本来なら敵であるはずの監視役の自分たちを、持子は力任せに抱き寄せ、その身を挺して庇った。


「君は、僕たちを護るために、自分の身体に三つも巨大な風穴を開けた。血まみれになって、内臓まで焼かれて……普通の人間なら即死しているような傷を負いながら。それでも君は、僕たちを背中で庇って、『震えて待っておれ!』と不敵に笑っていたんだ」


トン、と。

流星の左手が、持子の肩に優しく触れた。


「……僕は、ずっと神様に祈ってきた。でも、僕の神様は姿が見えず、ただ教義という分厚い壁の中で、絶対的な服従を求めてくるだけだった。でもね」


流星は、愛おしいものを見るように、目を細めた。


「あの日、死の淵で僕たちを護ってくれた君の『極黒の翼』は……姿の見えない神様なんかよりも、よほど温かく、そして気高く、尊く見えたんだ」


ドクンッ、と。

持子の心臓が、大きく跳ねた。


「あの瞬間、僕の信じるべき『光』は、教皇座になんてないと気づいた。……だから、十字架は捨てたんだ。僕の祈りを捧げる対象は、もう天にはない」


流星は、かつて銀の十字架が提げられていた、今は何もない自身の胸元をギュッと握りしめた。


「異端審問にかけられようと、騎士の称号を剥奪されようと構わない。僕はもう、神様のためには戦わない。これからは……君の剣となり、君の盾として、君だけを護るために生きるよ」


その真っ直ぐで、重すぎる誓い。

持子は、黄金の瞳を僅かに見開き、流星の透き通るような碧眼をじっと見つめ返した。

彼がどれほどの覚悟を背負ってその言葉を口にしたのか、前世で天下を統べた王である持子には痛いほどに伝わってきた。だからこそ、生半可な気持ちで頷くわけにはいかない。


「……流星。お前は、さながらわしを護る『ナイト(騎士)』だな」


持子は、自身の弱さを完全に振り払い、いつもの傲岸不遜な、それでいてどこまでも威厳に満ちた『極黒の魔王』の顔つきへと戻った。そして、凛とした声で告げる。


「だがな。わしは、城の奥で大人しく護られているだけの、か弱き姫ではないぞ。自ら最前線に立ち、血に塗れ、そして……」


持子の瞳が、剣のように鋭く流星を射抜く。

他者の命を背負い、使い潰すことの重さを誰よりも知っているがゆえの、残酷なまでの最終確認。


「従うナイトに命を出し、死地へと送り出す『キング(王)』だ。わしの傍にいれば、必ずまた修羅の道を歩むことになる。お前のその命を、わしが理不尽に散らすことになるやもしれん。……それでも良いのか?」


ゴクリ、と。張り詰めた空気が廊下を支配する。

だが、流星は一切の躊躇を見せなかった。

彼は、右腕のギプスが擦れる音を立てながら、静かに、その場に片膝をついた。そして、持子の白い手を左手でそっと取り、中世の騎士が主君に絶対の忠誠を誓うように、深く首を垂れた。


「……我が王よ」


流星の、真面目で、狂信的なまでに澄み切った声が響く。


「あの新宿御苑で、君に命を救われた時から。……僕のこの命は、持子君のためだけに使おうと決めたんだ。君が死地へ行けと命じるなら、喜んでこの身を捧げよう」


それは、神の教義よりも重く、絶対的な『純愛(祈り)』の誓い。

持子は、自分の手に触れる流星の温かい体温と、その揺るぎない覚悟を感じ取り……ふっ、と短く息を吐いた。


「……わかった」


持子は、傅く流星の頭にぽん、と手を置き、優しく、しかし主君としての確かな重みを持って撫でた。


「大馬鹿者め。わしの盾になるなど、百年早いわ。……だが、貴様がそこまで言うのなら、勝手にするが良い。その代わり、その砕けた右腕が治るまでは、このキングが貴様を護ってやる」


「……ふふっ。ありがとう、持子ちゃん。頼もしいよ」


西日に照らされた廊下。

信仰を捨てた元騎士と、極黒の魔王。

二人は静かに寄り添い、確かな体温を交換し合いながら、新しい主従の、そして新しい絆の形を噛み締めていた。

流星の碧眼には、かつての冷たい教義の光ではなく、持子という唯一の王へ向けられた、眩しいほどの熱が宿っていた。


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