『完璧を捨てた男は、魔王の隣に立つ』
『完璧を捨てた男は、魔王の隣に立つ』
✴︎『予定調和を外れたエリートと、並び立つための握手』
帝都を未曾有の絶望から救い出した、過酷な『東京霊脈戦線』から数日後。
その激闘の爪痕が、まるで血の滲むような痛みを伴いながら、少しずつ日常へと溶け込み始めた夏休み序盤のある日。
ジリジリと肌を焼くアスファルトの熱気の中、恋問持子は立花雪から持たされた大量の高級菓子折りを両腕に抱え、帝都を奔走していた。
「……ふむ。昨日は身内が中心であったが、今日は少しばかり厄介で、そして……酷く不器用な男のところだな」
持子は、黄金の瞳を伏せてぽつりと呟いた。
脳裏をよぎるのは、地下の三十メートル地点で、己の命とエリート官僚としての未来を投げ打って、血まみれになりながら道をこじ開けてくれたあの背中だ。
前世で裏切りと殺戮を味わった暴君・董卓の魂を持つ彼女にとって、自らの力不足で「味方」に修復不可能な傷と重すぎる代償を負わせたという事実は、腸が千切れるほどの重い枷となっていた。
持子が向かったのは、民間霊的組織【TIA】の新たな本部である。
分厚い防音扉の奥。静まり返った応接室の扉を、持子は少しだけ躊躇いがちに、しかし意を決して押し開けた。
ガチャリ、と重い金属音が鳴る。
そこには、デスクに積まれた書類の山に目を通している、一人の青年の姿があった。
「邪魔するぞ、霞! ……生きておるか」
持子の声に、青年――霞涼介がゆっくりと顔を上げた。
「……ええ。おかげさまで、しぶとく生きていますよ。持子さん」
霞は、手元の書類をコトリと置き、静かに微笑んだ。
今日の彼は、いつもの血の通わない漆黒の高級スーツではなく、機能性を重視したTIAのラフな制服に身を包んでいた。激闘で粉々に砕け散ったはずの銀縁眼鏡は真新しいものに変わっているが、その奥の左目周辺や首筋には、生々しい傷跡と白い包帯が痛々しく巻かれている。
超重力を顔面で受け止め、両腕の骨を砕いてまで死線を越えた、紛れもない激戦の証。
だが、痛々しいはずのその傷跡は、今の霞に不思議なほどの「漢としての箔」をつけていた。
「ほれ、雪からの見舞いの品だ。美味いメロンとゼリーが入っておる」
ドスンッ! と、持子が特秀品のマスクメロンが入った桐箱をテーブルに置く。
霞はそれを見て「相変わらず、極端な差し入れですね」と小さく息を吐いて笑った。
持子は、その霞の顔を見つめたまま、スッと姿勢を正した。
そして、王としての傲岸不遜な態度を一切捨て去り、深く、深々と頭を下げた。
「……霞よ。貴様には、あの地下で死線を越えさせた。わしの力が足りなかったばかりに、貴様の完璧だったはずの人生を狂わせ、無茶をさせて……すまなかったな」
沈黙が、応接室に落ちる。
国家の暗部『彼岸花』の超エリート官僚。常に勝率とリスクを天秤にかけ、完璧な予定表通りに生きてきた男。
(……わしは最初、こやつのことを「真面目すぎてからかい甲斐のある、面白い道化」くらいにしか思っておらんかった)
頭を下げながら、持子は内心で独りごちた。
時価数万円のパフェやジャンクバーガーという「規格外の日常」に巻き込んでも、文句を言いながらも自分のワガママに精一杯付き合ってくれる。その真面目ゆえに振り回される姿が、ただ滑稽で、面白くて、好きだった。
(だが……違った)
あの時。天から絶対の死の光が降り注いだ時。
霞は誰よりも早く、己の命と計算を投げ捨てて、持子を突き飛ばそうとした。
ただの道化などではない。その胸の奥には、狂おしいほどの熱い男気が隠されていたのだ。そして今、国家の枷を外れて目の前に座る霞は、一皮も二皮も剥けた、底知れぬ凄みを纏った「いい漢」にしか見えなかった。
霞は、持子の謝罪を聞いて、腹の底からこみ上げてくるおかしさを堪えきれないというように、クックッと肩を揺らして笑い始めた。
「……ふっ、はははっ。頭を上げてくださいよ、持子さん。あなたらしくもない」
「なっ……何がおかしいのだ、わしは大真面目に……!」
顔を上げた持子に対し、霞は真新しい銀縁眼鏡を中指でクイッと押し上げ、あの日のように獰猛で、それでいて清々しい笑みを浮かべた。
「謝る必要なんて、どこにもありませんよ。……そもそも、俺の完璧だったはずの予定表(人生)は、あの日、新宿の路地裏であなたに時価五万円のパフェを前菜代わりに食い尽くされた瞬間に、とっくにバグっちまってたんですから」
「あ……」
「昨日付けで、俺は正式に『彼岸花』を、いや、国家の官僚という肩書きを完全に捨てました。これからは、表の世界の人間として、このTIAで生きていくことにしたんです」
霞は、制服の胸ポケットから真新しいプラスチックのカード――TIAの所属を示す『IDカード』を取り出し、指で弾いた。カチャリ、と乾いた音が室内に響く。
「これでも、超優秀な頭脳を持つ元エリートですからね。TIAの事務処理から現場の戦術指揮まで、完璧にこなしてみせますよ。……まあ、一番の難題は、あなたの底なしの食費をどうやって経費で落とすか、という計算式でしょうがね」
冗談めかして肩をすくめる霞。
その、あまりにも迷いのない、自分の意志で地獄を歩くことを決めた男の顔を見て。
持子の胸の奥で、心地よい熱風が吹き抜けた。王として、一人の強者として、目の前の男の成長がたまらなく嬉しかったのだ。
「……ふっ、ふははははっ!」
持子は豪快に笑い声を上げると、黄金の瞳を細めて、心底嬉しそうに霞を見つめた。
「たった数日で、お前はずいぶんと良い男になったな、霞!」
魔王からの、最大級の賛辞。
それを受けた霞は、少しだけ照れくさそうに、しかし自信に満ちた笑みを浮かべて立ち上がった。
「……男子、三日会わざれば刮目して見よ、と言いますからね」
霞は、まだ生々しい傷跡が残る右手を、持子に向かって真っ直ぐに差し出した。
かつての、計算ずくで握手を求めていたエリート官僚の手ではない。己の魂で、大切なものを護り抜くと決めた男の、分厚く熱い手だった。
「待っていてください、持子さん。……俺は、あなたの横に並び立つ男に、すぐになりますよ」
その言葉には、一切のハッタリも嘘もない。超優秀な頭脳と、狂気すら孕んだ覚悟を持つ彼なら、必ずその高みへと至るだろう。
「……ふははっ! 言ったな! よかろう!」
持子は傲岸不遜な笑みを浮かべ、自身の白く細い手で、霞の差し出した右手をガシィッ! と力強く握り返した。
「ならば、死に物狂いで這い上がってこい! 貴様がわしの隣に立つその日を、この極黒の魔王が楽しみに待っててやるわ!」
「ええ。せいぜい、俺の計算式をぶっ壊し続けてくださいよ。……魔王様」
応接室に、力強い握手と、二人の屈託のない笑い声が響き渡る。
完璧な予定表を捨てた男と、予定調和を許さない規格外の魔王。
夏の眩しい陽射しが差し込む中、二人の間に結ばれた確かな絆は、どこまでも熱く、そして力強く輝いていた。




