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『極黒の魔王、仲間を語る夜と海を越えた感謝』

✴︎『極黒の魔王、仲間を語る夜と海を越えた感謝』


茜色に染まった帝都の美しい夕景を背に、持子は最高級マンションの最上階へと帰還した。

重厚なドアを開けると、そこにはいつものように、完璧なスーツ姿の立花雪が待っていた。


「おかえりなさい、持子。お疲れ様。お礼参りは無事に済んだかしら?」


理知的な眼鏡の奥から、雪の優しい瞳が持子を迎える。


「うむ、ただいま戻ったぞ、雪。言われた通り、回ってきたわい」


「そう。さあ、着替えてきなさい。今日はあなたの好きな、三ツ星フレンチの『極上シャトーブリアンのロースト』を予約してあるわ。頑張ったご褒美よ」


「おお、肉か。それは重畳だ」


持子は言葉では喜びを示したものの、その足取りはどこか重く、ひどくゆっくりとしたものだった。


数十分後。

都内を一望できる超高級フレンチレストランの個室。

テーブルには、芸術品のように美しく盛り付けられたシャトーブリアンが、芳醇な香りを漂わせていた。

だが、持子はナイフとフォークを握ったまま、珍しく動きを止めていた。いつもなら、運ばれてきた瞬間に猛獣のように食らいつき、またたく間に平らげてしまうはずの「暴食の魔王」が、ただ静かに皿を見つめている。


「……どうしたの、持子。珍しく貪るように食べていないじゃない。お昼にお菓子でも食べ過ぎたの? それとも、どこか具合でも悪いの?」


雪が静かにワイングラスを置き、心配そうに尋ねる。

「……いや、腹は減っておるのだ。ただ、少し胸がいっぱいでな」


持子は、ゆっくりとナイフを入れ、一口サイズの肉を口に運んだ。


「……美味いな。なまら美味い。……雪よ、聞いてくれ。わしは今日、色々な奴らに会ってきた」


持子は銀の皿へナイフとフォークを静かに置き、薄暗い間接照明に照らされた極上のフレンチから視線を上げ、静かに語り始めた。その黄金の瞳には、かつて天下を恐怖で支配した暴君の覇気ではなく、ひどく人間らしく、揺れ動く感情の波が渦巻いていた。


「地下の最深部で……わしは御影の呪いに呑まれ、完全に理性を失っておった。その時だ」


持子は、己の両手を強く握りしめた。


「本多鮎は、わしの全力の拳を、その細い腕で真正面から受け止めたのだ。両腕の骨が粉々に砕け散る無惨な感触が、今でもわしの両手にこびりついて離れん。常人ならば発狂するほどの激痛のはずだ。それなのに、あやつは血を吐きながら、わしを逃がすまいと笑っておった。……どれほど狂信的であろうと、わしのために骨を砕かせるなど、あってはならんことだ」


雪は何も言わず、ただ静かに傾聴している。持子は止まらない。


「そして、その影に潜んでいたルージュ。誇り高き吸血鬼の女王たるあやつが、わしの動きを封じるためだけに、己の左胸に鋭い爪を立てたのだ。自らの心臓を深く穿ち、真祖の血を代償にしてまで……わしを引き止めようとした」


持子の声が、微かに震えを帯びる。


「美羽……あの泥棒猫に至っては、わしを正気に戻すため、泣きながら双剣で斬りかかってきた。わしは無意識のうちに、あやつを冷たいコンクリートの壁に激しく叩きつけてしまったのだ。小さな、折れてしまいそうな背中が壁にめり込むのを見た時、わしの中で何かがひどく冷たく凍りついた……」


そこまで一気に語り、持子は深く、重い息を吐き出した。


「……今日、挨拶に行って思い知ったのだ。風間助平の翁もそうだ。巫女服を着せて嬉々としてカメラのシャッターを切っておったが……あの好色な老人がいなければ、TIAという組織はまとまらず、帝都は間違いなく沈んでいた。雪よ、お主が育てた坊やは、とんでもない化け物だったぞ」


「……ええ。そうね。あの子は昔から、いざという時だけは頼りになったわ」


雪の静かな相槌を受け、持子はさらに言葉を紡ぐ。


「楓は……本当に不器用で、だが誰よりも真っ直ぐな女だ。わしを止めるため、武器を捨てて懐に飛び込み、額に札を打ち据えた時の、あの白く細い手の震えと温もりが忘れられん。……そして、高子だ。あんな凄惨な戦いをナビゲートしたというのに、わしに手製のサンドイッチを作り、花が綻ぶような笑顔で『お姉ちゃん』と呼んでくれたのだ。あんな無垢な笑顔……わしのような業の深い魔王には、眩しすぎる」


持子は、ついに両手で顔を覆った。魔王としての威厳の奥底にある、孤独を恐れる一人の少女の素顔がそこにあった。


「そして……極めつけは、風間洋助と葉室桐子だ」


持子の口から、血を吐くような後悔の念が漏れ出る。


「あいつらは、わしのせいで……両腕を無惨に砕かれ、己の寿命を削って髪を真っ白に染め上げたのだ。それなのに……あいつらは今日、病室でわしを恨むどころか、笑って結婚式に呼ぶと言いおった。わしを『仲間』だと言って……!」


持子は顔を上げ、涙で潤んだ黄金の瞳で、真っ直ぐに雪を見つめた。


「雪よ。わしは魔王だ。かつてはすべてを奪い、裏切られ、恐怖だけで世界を支配した。……だが、今、わしの周りにいる者たちはどうだ。己が傷つき、骨を砕き、寿命を削ってまで……わしに『光』をくれようとする。……わしは、あやつらに一体、何が返せるというのだ!?」


それは、圧倒的な愛と自己犠牲を浴びた者が抱く、どうしようもない無力感と感謝の爆発だった。

雪は、静かに立ち上がると、持子の隣へと歩み寄り、その大きな背中を優しく、母親のように抱きしめた。


「……持子。あなたはもう、十分すぎるほど返しているわ」


「雪……?」


「あなたが笑って、たくさん食べて、明日を生きようとしてくれること。それが、彼女たちにとって何よりの『光』なのよ。……それにね」


雪は優しく微笑むと、胸元から薄型のスマートタブレットを取り出し、テーブルの上で起動させた。


「あなたにすべてを捧げようとしているのは、東京の人間だけじゃないわよ」


短い電子音と共に、タブレットの画面に暗号化された国際通信の回線が開かれた。

画面の向こう側に映し出されたのは、夜のパリ。豪奢な執務室のデスクに座る、世界的ブランド『リュクス・アンペリアル』の若き女帝――エレーヌ・リジュの姿だった。


『――我が王。ご無事で何よりですわ』


前世で董卓に仕えた忠臣「李儒」の魂を持つ親友の声に、持子は息を呑んだ。


「リジュ……。お主、わざわざパリから……」


『ええ。雪からすべて聞いておりますわ。東京の裏社会を動かすための資金と、異端審問官やエティエンヌの手配……我がリュクス・アンペリアルの全資産を懸けて、王の道を切り開く手伝いができたこと、臣下としてこれ以上の誉れはありません』


画面越しのリジュは、心底安堵したように、そして誇り高く微笑んだ。


『王よ。あなたがどれほど自責の念に駆られようとも、私たちはあなたを愛しております。あなたがそこにいてくださるだけで、私たちの世界は意味立つのです。……どうか、顔を上げ、堂々とその肉を平らげてくださいませ』


リジュの海を越えた揺るぎない忠誠と愛の言葉。

そして、隣で優しく背中を撫でてくれる雪の温もり。

持子は、腕で豪快に目元の涙を拭い去った。

胸の奥に渦巻いていた重い泥のような感情が、彼女たちの言葉によって綺麗に浄化されていくのを感じていた。


「……まったく、どいつもこいつも、本当に底抜けの馬鹿ばかりではないか……」


持子は、テーブルに置かれたナイフとフォークを再び力強く握りしめ、黄金の瞳に『極黒の魔王』としての絶対的な光を取り戻した。


「よかろう。貴様らがそこまでわしを愛し、護ろうというのなら。この魔王、貴様らの想いを丸ごと胃袋に収めて、誰よりも光り輝いてやろうではないか」


持子は極上のシャトーブリアンを大きく切り分け、勢いよく口へと運んだ。その頼もしくも豪快な食べっぷりを見つめながら、雪とリジュは顔を見合わせ、呆れたように、けれどこの上なく愛おしそうに微笑み合う。

だが、肉を飲み込んだ直後、持子はふと動きを止めた。

黄金の瞳が、何か重要なことを思い出したかのように見開かれる。


「……いや、待てよ」


「どうしたの、持子?」


雪が不思議そうに首を傾げる。持子はナプキンで口元を拭うと、決意に満ちた表情で勢いよく立ち上がった。


「まだだ。本日のわしの『お礼参り』は、まだ終わっておらん」


「終わっていない? 東京の陣営にはすべて顔を出したはずだけれど……」


「日を改めて、霞、流星、朔夜、鶴子の順番で、己の誇りを懸けて道を切り開いてくれたあやつらにも、きちんとお礼に行かねばならん。組織を捨ててまでわしを救おうとしてくれたのだ、当然の義理であろう。……だが、その前にもう一人、今日中に顔を見ておかねばならない究極の馬鹿が残っておるではないか」


その言葉に、雪もタブレットの向こうのリジュも、すぐに誰のことか悟った。


「……エティエンヌね。彼女なら、今は都内の高級ホテルで戦いの傷を癒やしているはずよ」


「わしのために海を越え、己の性別すら捨てて駆けつけ、あまつさえ神話級の古竜を真っ向から斬り伏せた吸血鬼だ。それに挨拶は夜の方が良かろう。」


持子は一切の迷いなく踵を返し、夜の帝都へと続く扉へと向かった。


「雪、残りの肉は後で必ず食う。保温しておけ。……わしは今から、あの吸血鬼に会いに行く!」


己のために血を流した者たちすべてに、魔王としての不器用な感謝を届けるために。レストランを後にする彼女の力強い背中は、どんな暗闇をも切り裂くような確かな熱を帯びていた。


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