『永遠を引き止めた朝』
✴︎『永遠を引き止めた朝』
帝都・東京をかつてない絶望の底へと叩き落とした『東京霊脈戦線』――怨念の泥に塗れた魔界の最深部での死闘が終わりを告げ、世界は再び、何事もなかったかのように白々とした朝の光を取り戻していた。
東京の高級マンションの最上階。
その広々とした寝室の、雲のようにふかふかとした特大のキングサイズベッドの上で、恋問持子はゆっくりと重い瞼を開いた。
「……んむ……」
窓から差し込む柔らかな春の陽射しが、彼女の白磁のような肌と、神が計算し尽くした「黄金比」のプロポーションを優しく照らし出している。
身体の節々には、まだ微かな鈍痛が残っていた。そして何よりも、何十年もの間、帝都の呪いをその身一つで濾過し続けてきた哀れな少年・御影を救うため、底なしの胃袋で彼の魂ごと呪いを喰らい尽くした『死の接吻』の代償である。
「……目が覚めたのね、持子」
ふと、ベッドの傍らから、静かで、しかしどこまでも深い慈愛を帯びた声が響いた。
持子が視線を巡らせると、そこには見慣れた姿があった。
持子が所属する芸能事務所『スノー』の社長であり、彼女を芸能界へと導いた絶対的なプロデューサー、立花雪である。
完璧に仕立てられたスーツに身を包み、理知的な眼鏡の奥の瞳で持子を見つめる彼女の姿は、いつものように隙がない。しかし、今日の彼女が纏う空気は、普段の「頭痛薬と胃薬を手放せない苦労人の社長」のそれではなく、ひどく静謐で、どこか人間離れした、途方もなく長い時間を生き抜いてきた者の重みを漂わせていた。
「おお、雪ではないか! !」
持子はいつもの傲岸不遜な、それでいて無邪気な笑みを浮かべ、勢いよくベッドの上で上体を起こした。前世で天下を恐怖で支配した暴君・董卓の魂を宿す絶世の美少女は、己の恩人であり母代わりでもある雪の姿を見るなり、目を輝かせた。
「昨日はなまら疲れたぞ! さあ、目覚めのエネルギー補給だ! わしは猛烈に腹が減っておる! 今すぐ出前でラーメン二郎の『ニンニクアブラカラメ増し増し』と、食後の特大ショートケーキを頼んでくれ!」
朝から規格外のカロリーを要求する「暴食の魔王」の言葉に、普段の雪であれば「朝からそんなもの食べるんじゃないわよ、このバカ娘!」と容赦のないツッコミとハリセンが飛んでくるはずだった。
だが。
雪は怒ることも、呆れることもなく、ただ静かに、ベッドの脇のサイドテーブルに置かれていた温かいハーブティーのカップを持子へと差し出した。
「二郎とケーキは後よ。まずはこれを飲んで、喉を潤しなさい。……あなたに、すべてを話さなければならないから」
「……む?」
持子はハーブティーを受け取りながら、黄金の瞳を瞬かせた。
雪の声音があまりにも真剣で、そして、どこか悲壮な決意に満ちていたからだ。
「すべて、とはなんだ? わしに隠し事でもあったというのか?」
持子が小首を傾げると、雪は静かに息を吐き、眼鏡の位置を直しながら、ゆっくりと語り始めた。
「ええ。今回の霊脈暴走事件……あなたが御影に攫われ、TIAや裏社会のクランが入り乱れて地下で戦争を起こしたこと。私はそのすべてを裏から把握し、コントロールしていたわ。政府の極秘軌道兵器をハッキングして射線を逸らしたのも、フランスにいるエレーヌ・リジュに連絡を取って裏社会の資産を動かしたのも、私よ」
「なっ……!?」
持子はカップを持ったまま硬直した。
雪はただの優秀な一般人のビジネスウーマンだと思っていた。裏社会のドンパチや、呪術、怨霊といったオカルトの世界とは無縁の、光の当たる世界(芸能界)の住人だと。
だが、雪から語られた真実は、持子の想像を遥かに超えるものだった。
「驚くのも無理はないわ。……私はね、持子。ただの人間ではないの」
雪は己の細い指先を見つめながら、遥か遠い過去の記憶の底へと手を伸ばすように言葉を紡いだ。
「私の正体は……遥か昔、八百比丘尼の伝承にある『人魚の肉』を喰らい、不老の肉体を持ってしまった怪物なのよ。千年以上という途方もない時間を、たった一人で生き続けてきたわ」
「ふ、不老の……怪物、だと……?」
持子の声が微かに震える。
雪は構わず続けた。
「ええ。六十年ほど前までは、あなたを助けるために動いてくれた『TIA』という組織に所属し、この国の霊的防衛を担っていたこともあった。今のTIAのトップである風間助平は、当時私が『坊や』と呼んで可愛がっていたただの若造よ」
雪の口元に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「でもね……長すぎる年月は、確実に私の魂を摩耗させていった。愛した者たち、大切だった仲間たちが、皆私の前を通り過ぎて、老いて死んでいく。戦って死んでいく。私だけが、この決して変わることのない永遠の牢獄に取り残される。……心が完全に折れ、すべてを放り出して世界を放浪する世捨て人になったわ」
雪の言葉には、千年以上という絶望的な孤独の重みが込められていた。持子はただ黙って、その言葉の刃を心で受け止めることしかできなかった。
「そして……あてのない放浪の末に日本へ戻ってきた時、かつての恩人である『高倉』の死を知り、札幌へ足を運んだ。そこで、あなたに出会ったのよ、持子」
雪の理知的な瞳が、ふわりと、熱を帯びたように揺らいだ。
「愛する者を失い、誰にも心を開けず、孤独に震えてうずくまっていたあなたを見た瞬間。……永い年月で凍りつき、死んだも同然だった私の心に、唐突に、激しく『母性』に目覚めたの。あなたを抱きしめた時……救われたのはあなたじゃない。他ならぬ、私自身の魂だったのよ」
雪は持子の頬にそっと手を伸ばし、その白磁の肌を愛おしそうに撫でた。
「だから私は、この会社を立ち上げ、あなたをトップモデルに育て上げた。あなたという光を輝かせることが、私のすべてになったの。……初めの予定では、あなたがモデルとして立派に成功し、華やかな世界で普通の絶世の美少女として生きていけるようになったら、それで満足するはずだったのよ」
雪はそこで一度言葉を切り、深く、ひどく冷ややかな溜息をついた。
その瞬間、先ほどまでの慈愛に満ちた空気が一変し、事務所の絶対的権力者としての、鋭く厳しいプレッシャーが寝室を支配した。
「……ええ、そう。ただの『普通のモデル』として、ね」
「む……? ゆ、雪……?」
持子は、空気が変わったことを本能で察知し、ビクッと肩を揺らした。
雪は腕を組み、冷徹な目で持子を上から下まで値踏みするように見据えた。
「私はずっと黙って見ていたけれど、言わせてもらうわよ、持子。……前世の董卓だの貂蝉だのという魂が覚醒するのは百歩譲って仕方ないとしても、あなたの周りの惨状は一体なんなの?」
「うっ……」
持子は思わず言葉に詰まり、視線を泳がせた。
「気がつけば、あなたの周りには頭のおかしいハーレムができあがっているじゃない。トップモデルの仕事をしながら、裏で何をやっているのよ」
「そ、それは不可抗力というやつだ! わしが望んで集めたわけではないぞ!」
持子が慌てて言い訳を口にするが、雪の追及は止まらない。
「いいえ、あなたが無自覚に甘やかして、業の深い人間たちを手懐けた結果よ。自分を神と崇めて踏まれたがる変態インテリの鮎に、あなたの靴の裏まで舐めようとする重度の依存症の泥棒猫である美羽。神話の神の生まれ変わりで殺気ダダ漏れの後輩である楓に、あまつさえあなたに愛されるためだけにわざわざ女体化した究極のドM吸血鬼のエティエンヌまで……。どいつもこいつも、あなたへの愛が重すぎて異常だわ。少しは自分のカリスマ性のタチの悪さを自覚しなさい」
「ぐぬぬ……っ! だが、あいつらが勝手に懐いてきたのだ! でもでも楓はハーレム関係なかろう。あいつには手を出していないぞ!。わしはただ、美味い飯を共に食って、少しばかり面倒を見てやっただけで……!」
「『少しばかり』ですって? 裏社会の各陣営から送り込まれてきたエリート工作員たちまで、完全に骨抜きにして懐柔しているじゃない」
雪の眼鏡の奥の瞳が、ピクリと光る。
「挙句の果てには、自衛隊や国家機関を巻き込んで地下で戦争を始めるし、世界を滅ぼそうとする男の子に連れ去られて、地下五十メートルで囚われる……どこのお姫様よ。どう見ても、普通?のトップモデルの日常からは、あまりにもかけ離れているわ。私がどれだけ胃薬と頭痛薬を消費して、裏から手を回して事後処理をしてきたと思っているの?」
「そ、それは正当防衛だ! 降りかかる火の粉を払っただけで……! わ、わしだって、ちゃんとモデルの仕事は一度も手を抜かずに完璧にこなしておるだろうが!」
持子は必死に抗弁した。いかに周囲が狂気と非日常に染まろうとも、彼女は決して「光の世界」であるモデルとしての本分を捨てなかった。それは、雪への絶対的な恩義と愛の証明でもあったのだ。
その言葉を聞き、雪は少しだけ目を伏せ、責めるような口調をふっと和らげた。
「……ええ。その通りよ、持子。あなたはどんな我が儘を言おうとも、私の用意したステージで完璧に輝いてくれた。世界中があなたの美しさにひれ伏すほどの、最高のトップモデルに成長してくれたわ」
雪は顔を上げ、持子の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
だが、その表情には、ひどく寂しげな、どうしようもない「別離」の気配が漂っていた。
「……だからこそ。私の『初めの予定』は、もう達成されたのよ」
「……む? 予定、だと?」
持子の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「私の不老の命は、人間社会の中で長く留まることを許さない。私がこのまま年を取らずにあなたの傍に居続ければ、いずれ世間は不審に思い、あなたにまで特異な目が向けられることになる。……私は、あなたを『普通の世界の光』の中で生かしてあげたいのよ」
雪は、自らの膝の上でギュッと拳を握りしめた。
「初めの予定では、あなたがモデルとして成功し、一人で生きていけるようになったら……私はあなたの前から『消える』つもりだった。不老の私は、長い期間、人とは暮らせないのだから」
「なっ……!?」
持子の喉から、声にならない息が漏れた。
「あなたはもうすぐ、高校を卒業するわ。モデルとしても、世界的なブランドである『リュクス・アンペリアル』のエレーヌ・リジュから直々のオファーが来ている。彼女は莫大な財力と権力を持っている。……高校卒業のタイミングで、あなたの身の回りの世話やマネジメントは、すべてリジュに任せる手筈になっているわ」
雪の言葉は、淡々と、事務的な報告のように続いた。しかし、その声の裏には、己の身を引き裂くような激しい痛みが隠されていることを、持子は本能で感じ取っていた。
「私は、あなたの前からいなくなる。……だから、持子。私が去るその日までは、これまで通り、一緒に楽しく過ごしましょう?」
雪が無理に作った、引き攣ったような笑顔。
その表情を見た瞬間。
持子の中で、これまで「魔王」として保ち続けてきた傲岸不遜な理性が、音を立てて崩壊した。
董卓としての前世の記憶。最も信頼していた呂布に裏切られ、すべてを失って殺された死のトラウマ。
そして今世。両親を知らず、孤児院で孤独に震え、唯一の光だった高倉老人を失った、幼馴染の高倉竜もアメリカに渡り消えた。どうしようもない寂しさ。
そのすべてを埋めて、光の当たる場所へと引っ張り上げてくれたのが、目の前にいる雪だったのだ。
その雪が、自分のために、自分を置いて消えると言っている。
「……ふざけるな」
持子の声は、地を這うような低い唸り声だった。
彼女はベッドの上から雪の前に飛び降りると、その長い腕で、雪の華奢な肩をガシィッ! と乱暴に掴んだ。
「ふざけるなァァァッ!! 何が初めの予定だ! 何がリジュに任せるだ! わしの許可なく、勝手にそんなことを決めるなァァァッ!!」
持子の黄金の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
天下を恐怖で支配した魔王の威厳も、トップモデルとしての洗練された美しさも、そこにはない。ただ、大好きな母親に見捨てられそうになってパニックに陥り、必死に縋り付く、一人の不器用な子供の姿だった。
「わしは、リジュの世話になんかなりたくない! どんなに金があろうが、権力があろうが関係ない! わしの傍にいて、わしの我が儘を聞いて、わしを叱ってくれるのは……世界でただ一人、雪、貴様だけでなければ絶対に嫌だァァァッ!!」
「持子……! 手を離しなさい、これはあなたの未来のための……っ」
雪が持子の手を振り解こうとするが、持子の馬鹿力はビクともしない。それどころか、持子は雪の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくり始めた。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だァッ! 貴様が年を取らなくたって、そんなこと知ったことか! 世間がなんだというのだ! 誰かが文句を言うなら、わしが魔王の力で全員黙らせてやる! 記憶だって消してやるわ!」
「そんな無茶苦茶なこと、許されるわけがないでしょう! あなたは光の世界で生きることができる人間なのよ!」
「光の世界なんて、貴様がいなければただの暗闇だッ! 貴様がわしを東京まで連れてきて、ここまで育てたのだろうが! だったら、最後まで、わしが死ぬその瞬間まで、責任を持ってわしの面倒を見ろ! わしの傍から消えるなんて、絶対に許さんぞォォォッ!!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、持子はなりふり構わず雪のスーツを握り締め、子供のように泣きじゃくった。
そのあまりにも強烈で、純粋で、身勝手極まりない感情の爆発。
「消える」という己の論理的な計算など、持子の放つ圧倒的な「愛」と「執着」の熱量の前では、薄っぺらい紙切れのように燃え尽きていくのを、雪は感じていた。
(……ああ。私は、なんて馬鹿なのかしら)
八百年を生きてきた不老の陰陽師は、己の甘さと、この少女への断ち切り難い愛情の深さを思い知らされていた。
理屈ではわかっている。自分が傍にいれば、いつか必ず持子を苦しめることになる。別れは早い方がいいと。
しかし、胸元で「行かないで」と泣き叫び、自分を求めてくれるこの温もりを、どうして突き放すことができるだろうか。
突き放せば、この子は再びあの暗闇の中で、永遠に孤独に震えることになる。
それは、雪にとって、自分自身の魂を再び殺すことと同義だった。
「……っ……う、うぅっ……」
雪の理知的な眼鏡の奥から、堪えきれずに熱い涙が溢れ出した。
彼女は、持子を引き剥がそうとしていた手の力を抜き、代わりに、その大きな背中を、強く、強く抱きしめ返した。
「……本当に、あなたは……どうしようもないくらい、我が儘で、乱暴で、不器用な魔王ね……」
雪は泣き笑いのような声を漏らしながら、持子の艶やかな髪を優しく撫でた。
「……雪……?」
持子がしゃくりあげながら、恐る恐る顔を上げる。
「……負けたわ。私の完全敗北よ、持子」
雪は、涙で濡れた頬のまま、これまでで一番美しく、温かい笑顔を持子に向けた。
「あなたがそこまで言うのなら……世間がどうなろうと、どんな理不尽な事態になろうと、私がすべて計算し直して、揉み消してあげる。……だから、もう泣かないで」
「ほ、本当か……? どこにも、行かないか……?」
「ええ。行かないわ。あなたが光の世界で輝き続ける限り、そして、あなたが私の傍で我が儘を言い続ける限り……私は永遠に、あなたのプロデューサーであり、推しであり、そして……『家族』として、傍にいるわ」
不老の呪いも、世界の常識も、すべてを背負い込む覚悟を決めた絶対君主の宣言だった。
「……ゆ、雪ぃぃぃぃぃッ!!!」
持子は歓喜の雄叫びを上げ、再び雪に勢いよく飛びついた。今度は絶望の涙ではなく、心の底からの安心と喜びに満ちた涙だった。
ドサッ、と二人揃ってキングサイズのベッドに倒れ込む。
「ちょ、ちょっと持子! 苦しいわよ、離れなさい! スーツがシワになるでしょうが!」
「ふははははっ! 離さんぞ! わしはもう一生、貴様を逃がさんからな! さあ、そうと決まれば腹が減った! 契約更新の祝いに、今すぐ極上のオムライスとハンバーグを作ってくれ!」
「……さっきまで泣きじゃくっていたくせに、立ち直りが早すぎるわよ。それに、朝からそんな重いもの食べたら胃がもたれるわ。今日は特製のフルーツサラダとヨーグルトにしなさい」
「ええーっ!? そんな草食動物みたいな飯で、この魔王の胃袋が満たされるはずがなかろう! 肉だ、肉を食わせろ!」
「社長の命令は絶対よ。嫌なの?」
「ぐぬぬ……っ! わかった、わかったヨーグルトで我慢してやるわ!」
窓から差し込む朝の光の中、ベッドの上でギャーギャーと騒ぎ合う、不老の陰陽師と極黒の魔王。
そこには、裏社会の陰謀も、世界の危機も、そして数百年という時間の呪いすらも入り込む隙のない、ただただ平和で、騒がしくて、愛おしい「日常」があった。
こうして。
持子の力業の泣き落としにより、雪の「姿を消す」という悲壮な計画は完全に見直され、彼女はこれからも、持子の底なしの我が儘とカオスなハーレムに、胃薬を手放せないまま付き合い続けることになったのである。
帝都の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。




