六、おやごころ
あらあら、まぁまぁ、くるくると目が回りますよ。知らないところは嫌かしら?
まぁ、笑ったわ!あら駄目よ!ふくふくのほっぺは吾のものです!なんて柔らかいのかしら!つきたてのお餅みたいだわ!真っ白……ふふ、照れてしまったかしら、ほんのり赤いわ。
仕方がないわね、あなたたちも触ってみてもいいわよ。ね、しっとりとふんわりして気持ちがいいわねぇ。
なんてかわらしいのかしら。吾も姫をお産みしたかったわ。お二人で精一杯だったのだもの。こんなにも幸せが続くだなんて。
姫、吾の姫。
今日から吾がお母様なのですよ。
雛遊びも、貝合わせも、五目並べもいたしましょうね。あら嬉しそう。
たくさんお父様に絹をいただきましょうね。どうせ寝ているだけだもの。どれだけでも縫って差し上げるわ。あなたの単も、汗衫も、さすがに袿は難しいけれど。
もう少しあなたが慣れたらお兄様にもお会いしましょうね。お二人よ。お兄様にあなたをまもっていただきましょう。やんちゃだけれど頼もしいお兄様ととっても頭の良いお兄様よ。すぐに大好きになるはずよ。
きっと、きっとおうつくしい姫にお成りになるわ。ねぇ、くちなし姫。
そっと、足を踏み出す。重ねた衣に足がもつれそうだからだ。 今日は母様のところへご挨拶に向かうことになっている。母様はお身体が弱くて、何人も子をなしたのが不思議だと言われているけれど、お元気な時はとてもお身体に何かあるとは思えないほど。近ごろはすっかり銀杏の君のお邸に入り浸っていて、男の童になったかのような姿ばかりしていたから、今は動きにくくて仕方がない。
髪を結っていたのをさらりと流して何度も櫛を通され、女の童に戻る。その女の童の支度をこんなふうにしてたかな、と梔子の君は首を傾けた。もうおぼろになっている。すぐにぐいっと首を上へと向けられて、女房たちはずんずん支度を進めていく。梔子の君のためにあつらえられたのが勿体ないと思われるようなうつくしい絹をそっと撫でる。そのうちに支度が終わって、梔子の君は母様のところへ行くために廊下へ出た。
今日は小雨が降っていて、なんだか衵が重い。梔子の君の知っている母様は、それはもう、お優しい方。信じられないくらいお身体が弱いのに、兄弟を育ててくださった。特に梔子の君は女だったから、とても厳しくて、どこに出しても恥ずかしくないように、だそうで。
「母様、梔子がまいりました」
御簾の間から母様の女房が出てきて、梔子の君の手をとって中へと誘う。几帳を整えてもらって、その隙間から梔子の君は母様の寝所へとすべり込む。顔に触れる空気はぬるく、母様が横になっていたことが窺えた。
単の母様は前よりもほっそりとしていた。たおやかな白い手が吾を手招きしている。導かれるように母様の褥の脇へと座り込む。見上げると母様はにっこりとした。
ぱぁん、と高い音がして、梔子の君は横を向いていた。あれ、何が起こったの、などと思ううちに、梔子の君の頬が熱くなってきた。
「あなたは何をしていたのかおわかりですか、梔子!」
「え……」
白い手を宙に浮かせにっこりした顔のまま声を荒げる母様に吾は目をぱちくりさせた。
「な、何です母様?」
「それはあなたでしょう!?なんですかはしたない姿で銀杏邸へお伺いしていただなんて!」
「はしたない?」
「あなたは女の童なのですよ!半尻なんて!」
首を傾げる。
「白鷹様ははしたないのですか?」
「白鷹様は男の童です!あなたとは違います!先ほどあなたの二人の兄上にも申し上げました。女の童として銀杏の邸へ行けないのであれば行くことは認めませんよ!あなたは大納言家の大姫なのですから!」
あぁ、しばらく聞いていなかったが、これは母様の口癖だ。大納言家の大姫。梔子の君の身の丈をあらわす言葉だ。そんなにも強く言わなくても、いずれはどこぞの貴公子とやらに身を任せるのだと知っている。
ただ、仲良しになった白鷹と一緒にいることは決めたから、これは母様に話しておかなければならない。
今ごろになってひりひり痛くなってきた頬に叩かれたのだと気付いて、手のひらでこすっておいた。
「ごめんなさい、母様」
「これからは女の童の姿でいるのよ?」
「はい」
これはごめんなさいが正しい答えだ。母様の身体のことがあるから抗ってはいけない。特に今日は横になっていたことがよくわかる。それに、母様がやっとふわんと微笑んでくれた。
うれしくなって、白鷹との約束を母様へと告げる。
「母様!吾は三日の餅をする方をお決めしました!」
「え?」
きょとんとした母様を見るのははじめてだ。女房たちも物音を立てずに耳をそばだてている。
「どなたとも契れないとおっしゃっていたし、大切な友なのですもの」
「ま、待ちなさい、梔子」
焦ったような母様に口を閉じて見つめる。母様は胸を押さえるようにすると、一語ずつ確かめるように丁寧にたずねた。
「お願い、どなたと、契りを、結ぶのか、母様に、教えてちょうだい?」
「はい!白鷹様です!」
途端にふらりと母様が後ろに倒れてしまった。女房たちが抱き止めて寝かせる頃には、母様の顔色は青くなっているのがよくわかった。恐くなる。
「母様、母様」
「だい、大丈夫、驚いてしまったのよ」
「母様……」
「……梔子、今からお伝えすることは白鷹様にもかかわることです。よおくお聞きになって」
頷く。すでに涙目になり、髪が頬にかかっていても梔子の君は払うことをしない。驚かせるつもりはなかったし、そこまで驚くとは思っていなかったのだ。
「白鷹様にはきっと良い姫君が添われることでしょう、梔子は白鷹様の友としてその姫君のお心をわずらわせないようにしておかねばならなくなります」
「どなたかお相手が決まっているのですか?友なのに姫君はお心がわずらうのですか?」
「お相手はたぶん……左大臣家の辰子姫でしょう」
「たつこ様……」
梔子の君はその名に聞き覚えがあった。左大臣家の末姫様だ。ただ、あまり勉学はお得意ではないらしく、下の兄である緋景が連れてくるような学者たちの評判は芳しくない。苦手なら仕方がないのだか、どうもそういうものでもないらしいが、学者たちは口をつぐむから梔子の君にはよくわからなかった。
「あなたは女の童です。そのうち裳着もすませましょう、大人となるのです。いくら友と言えど、夫の隣に他の女がいることは要らぬ妬みを呼び起こします」
「しかし……もうお約束をしてしまいました。本で読んだ通りに、口吸いとお胸を揉みました」
「……く、え?今……」
言葉を失うのと同じく、女房に支えられたまま気を失う母様に、梔子の君ははらはらと涙を流した。何も確かめずに約束をしてしまったために、母様がそうなったのだとわかったのだ。女房に退出するように言われてそのまま廊下へ出た。
しばらく中の様子を伺っていたが梔子の君にはどうすることもできず、涙を流したまま帰ってきているはずの父である大納言のところへと足を向ける。
父様のところで女房に取り次ぎを願う。すぐに通された。
「久しいな」
書き物をしながら父様はちらりと梔子の君を見た。何故かいつも父様は懐かしそうに言うのを梔子の君は知っている。そんなにも長い間会っていなかったかしら、と不思議に思うのだ。
「はい」
「母様にもお顔を見せねばならんぞ?」
「それなら先ほどお伺いして参りました。そのせいで今は臥せっておられます」
恐くて最後の方の言葉は息を吐くように小さくなったが、父様はきちんと聞こえていたようだ。筆をおき、身体を梔子の君へと向けて座り直す。
「聞こう」
「ごめんなさい、父様!」
がばっと梔子の君は手をつき、頭を下げた。
「勝手に三日の餅のお相手を決めてしまいました!」
「……なんだそれは」
呆れたような声が上から降ってくる。頭は恐くてあげられない。
「あの、白鷹様が契る相手がいないと言うものですから、それなら吾でもよいかと思って、口吸いとお胸を揉んで、契りのお約束を立てたのです!」
「……あぁ、梔子は、あの子に似たのだな、なんと残念な……皇子に似れば良かったものの……いや、似ているかその知識については……あぁ、残念だ……」
「あ、あの、それで……」
ばさり、と扇が開く音がして、梔子の君は黙った。父様は何かぶつぶつ言い続けているけれども、梔子の君にはあまり聞こえずわからないが、とにかく残念だと繰り返しているのだけはわかった。きっと父様は先ほどの声からしても呆れ返っているのだろう。どんどん梔子の君は気持ちがしぼんでいく。
「はぁ、仕方がない。あとで母様には吾から心配しないように申しておく。だがな、梔子」
「はい」
「白鷹様と友でいるのも、白鷹様と契り、子をなすこともどちらの道もとても難しいことなのだ。本当に梔子が白鷹様と幾年もそばにはべりたいと言うのであれば、父は何も言わぬ」
「はい」
父様は見て見ぬふりをするということだろう。左大臣家の辰子様のこともあるだろうから、父様も応援はしてくれない。それくらい梔子の君もわかる。
「梔子、顔をあげなさい」
「はい」
「本当に……似てきたな」
「母様にですか?」
父様は目を細めるように笑うと、扇を閉じて腕を伸ばし、つん、と梔子の君の額をつついた。思わずのけぞり、目を瞑る。
「あまり暴れてくれるなよ?何かあれば蒼嗣や緋景を頼れ、吾にも話を通すように」
「は、はい父様」
「この話は一度吾が銀杏の君……だったか?にお話しておくから、しばらくはおとなしくしておれ」
「ありがとうございます父様!」
しばらくくらいおとなしくしていられる。梔子の君は知らぬふりをするものだと、大納言家に見放されるのだと思っていたから、父様の言葉にうれしくなって、額を押さえながらも微笑む。でも、しばらくってどれくらいだろう。
「それはそうと、着裳の儀をどうするかだな……」
「え?そんなに大変なのですか?」
「まだ自覚がないのか……大納言家の大君がそんなに大変ではないと考えているとは嘆かわしい」
父様はこめかみを扇でぐりぐりと押しはじめる。しまった、とそう思ったがもう遅い。貴族の姫だという思いは、どうしても育たなくて梔子の君も困っているのだ。こればかりは梔子の君だけのせいではないだろう。
二人の兄上がその原因だ。下の兄は勉学の楽しさを、上の兄は弓の面白さを教えてくれたが、これは弟にする教えらしい。それを陰陽寮の風星殿が教えてくれた。
もしも貴族の男の童ならば、神童と呼ばれただろうと。梔子の君は女の童だったので、大人たちは厭う。男と女の違いは勉学の出来や武術の出来で分けるものではないのに、と風星殿は首を振っていたから、梔子の君をどうも思っていなさそうだ。
しかし、今回は貴族の姫になりきらなければならない。大納言家の恥となる。梔子の君だけの話ではないのだから、困ることは避けなければならない。
「あ、元服もしよう」
にやあ、と父様の口が笑った。助けを求めようにも、梔子の君しかここにはいない。耳に聞こえた言葉も飲み込めないで、口にした。
「げんぷく?元服!?」
「そうだ、白鷹様と一緒にいたいのだろう?」
「え?それは」
確かにそのことについて相談を、いや、母様が倒れたことと、契る約束をしてしまったことを相談しただけだ。あ、契るから一緒にいたいとつながったのだろうか。
「蒼嗣と緋景も屋敷にいるな?呼んできてくれ」
戸惑う梔子の君に申し付けると、父様は座り直して筆を取り直してしまった。とりあえず、下がるしかない。なんと説明して父様のお呼びを告げればいいのだろう。涙は引っ込んだが、梔子の君の悩みは増えてしまった。相談をしたからといって、悩みが減るものではないとよくわかった。ため息は梔子の君にしか聞こえない。