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~ 弐ノ刻   嗜好 ~

 N大学付属病院。


 その日、芹沢初美せりざわはつみは珍しく疲れた顔をして実習部屋を後にした。無理もない。昨晩、ほぼ徹夜で遺体の検案書を作成したあげく、今日は午前中から研修医相手に実習だ。大学付属病院勤務の法医学者の仕事は、決して楽なものではない。


 それにしても、昨日の遺体は本当に酷かった。死亡してから既に二カ月ほど経っているというのは間違いないが、その損傷具合が物凄い。腹を裂かれて内臓の一部が失われ、全身の皮膚もあちこち剥げていた。眼球は二つともなく、初めて見た時は野生動物に食われたのではないかと思ったほどだ。


「さて……。そろそろ、岡田さん達が来る頃ね。昨日の検案書、早く取りに行かないと……」


 壁にかかっている時計を見て、もうそんな時間になったのかと思ってしまう。午前中を解剖実習で使ってしまったため、いつもよりも時間の経つのが早く感じられてならない。


 自分の机が置かれた部屋に戻り、その中から昨晩に仕上げた検案書を引っ張り出す。再び部屋の外に出て病院の待合室まで行くと、そこには既に岡田と工藤の姿があった。


「よう、初美ちゃん。今日は、実習だったんだってな」


「ごめんなさい、岡田さん。待たせちゃったかしら」


「いや、俺も今しがた到着したばかりだ。それよりも、昨日頼んでおいた検案書、仕上がってるか?」


「問題ないわ。あちこち損傷してて、ちょっとまとめるのに手間取ったけど……」


 そう言って、初美は自分の口に手をやりながら欠伸を飲み込んだ。いつもは凛々しく引き締まった顔が、この時だけは緩む。仕事のできる女が見せる一瞬の隙は、ともすればその女性に可愛らしい印象を与えるものだ。


「ところで……亡くなった女性、短大生だったのね」


 こちらを見ている岡田と工藤の目が気になったのか、初美はすぐにいつもの顔に戻って話を続けた。後ろで工藤が何故か少しがっかりした表情を浮かべていたが、岡田は気にしない。


「ああ、そうだ。鑑識の連中が見つけた遺留品から身元が割れた。県内の短大に通っている短大生で、八月の半ば辺りから行方不明になってやがった」


「なるほど。それが変死体で見つかるなんて、穏やかじゃないわね」


「まあな。遺体の損傷が激しいんで、変態野郎による殺人の線でも捜査を進めているんだが……初美ちゃんは、どう思う?」


「そうね……。監察医の立場から言わせてもらうなら……これは、何らかのフェティシズムに囚われた人間の犯行である可能性が高いわね」


「フェティシズム?」


 岡田と工藤が、互いに示し合わせたように顔を見合わせた。


 二人とも、刑事としては決して無能な方ではないのだが、医学用語にはさっぱり弱い。こと精神医学における用語に至っては、殆ど知らないことの方が多い。アメリカのFBIが使っているようなプロファイルなどは、仮に作ったところで、彼らの役には立たないことの方が多いかもしれない。


「二人とも、相変わらずね。もう少し、簡単に説明しようかしら?」


「ああ、すまんが頼む」


 岡田が頭の後ろを書きながら言う。前科何犯もの凶悪犯を黙らせてきたベテラン刑事も、こうなっては肩なしだ。


「フェティシズムって言うのは、性的倒錯癖のことよ。人体の一部とか、服装とか、あとは匂いとか声とか……とにかく、そういった類の物に、異様な執着を示すことね。なんとかフェチ、なんて言うのは、あなた達も聞いたことぐらいあるんじゃない?」


「ああ、それなら僕にも分かりますよ。巨乳フェチとかメイドフェチとか、そういうやつですね」


 咄嗟に思いついたような顔で、しかし得意気に工藤が言った。が、そんな工藤の頭を、岡田がすかさず警察手帳で叩く。


「痛っ! ちょっと、何するんですか、岡田さん!?」


「馬鹿野郎! 初美ちゃんだって、立派な女なんだぞ! いくら医者相手だからって、言うに事欠いて巨乳フェチとはなんだ! セクハラで訴えられても、俺は知らんぞ!!」


「あ……」


 岡田に突っ込まれ、初めて自分の失言に気づく工藤。口を手で押さえて何かを隠そうとするも、もう遅い。


 自分の言った言葉を改めて思い出し、工藤は途端に恥ずかしさが込み上げて来るのを感じた。勢いに任せて言ってしまったが、初美に変な目で見られたりしていないだろうか。


「ありがとう、岡田さん。でも、別に気にしてないわよ。フェティシズムに関する誤った知識が氾濫していることは、私も十分に知っているから」


 工藤の心配を他所に、あくまでさらりと流すような口調で初美は話す。さすがは百戦錬磨の監察医。日頃から、死体を相手に格闘しているだけはある。目の前で巨乳がどうのという話をされたくらいでは、まったく動じない。


「フェチって言うのはね、本来の精神医学用語としては、単に深いこだわりっていうだけの意味なのよ。でも、俗語のフェチが性的嗜好の意味で使われているから、フェチと言えば、性的なフェティシズムに限定されるみたいに思われているけどね」


「へえ、そうなんですか。それじゃあ、今回の事件の犯人は、必ずしも性犯罪者じゃないってことですか?」


「いいえ、その辺が難しいところなんだけど……。そもそも、犯罪に走るようなフェティシストは、その殆どが性的倒錯者である可能性が高いわ。それこそ、目的の物を手に入れるためなら、殺人も平然と行うような人間よ」


「要するに、ただの変態ってことですよね。でも、それだったら、下着泥棒なんかと変わりないんじゃ……」


「まあ、根本的には同じようなものね。ただ、その嗜好が人体のパーツや死体その物になると、話は変わってくるわよ。ちなみに、さっき工藤君が言っていた巨乳フェチだけど、女性の胸はもともと性欲の対象だから、厳密には巨乳好きな人の全員を巨乳フェチとは言わないわ。胸の大きい女性相手にしか性行為ができないとか、女性の胸だけを切り取って鑑賞したいって言うくらいなら、話は別だけどね」


「それじゃあ、さっきのメイドフェチってやつも、誤用ってことなんですか?」


「狭義の意味ではね。可愛い顔をした女の子がメイド服を着ることで、その子がより可愛く見えるっていうだけならば、それは単なるメイド好きよ。そういった人は、どんなにメイド好きでも、中身が自分の好みと反していれば何も感じないの。あくまで洋服の中身が好きなわけであって、対象の中心は衣服ではなく女性そのものよ」


「そんなもんっすかねぇ……。それでも僕には、理解できない世界ですけど……」


「だから、線引きが難しいって言ったでしょ。今の例と比べるような形で説明するとしたら……使用済みのメイド服を自分で着て興奮したり、メイド服そのものに性的な魅力を感じてしまったりする人が、本物のフェティシストってことになるわね。これだったら、工藤君にも分かるかしら?」


「なるほど……。確かにそれなら、なんとなく分かったような気がします」


 傍から聞いていたらとんでもない話をしているようだが、そこはさすがの初美である。性に関する話をしているのに、まったくいやらしさを感じさせない。淡々とした口調とさばさばした性格が、そう見せるのだろうか。


「なんか、小難しい話になってきたなぁ。それで、初美ちゃんは、どうして今回の事件が変態野郎による犯行だって思ったんだ?」


 話が横道にそれていることを感じ、岡田が横やりを入れた。精神医学は専門外だったが、それでも医師の端くれとして、初美も少々知識をひけらかし過ぎたと反省する。


 口元に拳を添えてわざとらしく咳払いをすると、初美は気を取り直して口を開いた。ここからが、監察医としての真骨頂。検案書を渡すだけでも良いのだが、岡田に尋ねられた質問に答えないというのも、なんだか責任を放棄しているような気がしてしまう。


「えっと……。それで、私が今回の犯人をフェティシストだと思った理由なんだけど……。それは、身体の失われていた部分の状態に、ちょっとした特徴があったからよ」


「特徴? 何か、変態の犯行って証拠でも残ってたのか?」


「そうね。ところで岡田さん。あなた、解剖の経験はあるかしら?」


 口元に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、初美が岡田に向かって聞き返した。相手の真意が分からず、岡田も訝しげな顔をしながら答える他にない。


「解剖ねぇ……。まあ、小学生の時にフナの腹を開けたくらいだが……」


「高校の時はどう? 豚か牛の目玉を解剖したりしなかった?」


「そういやあ、そんな実験をしたこともあったな。だが、それと今回の事件と、何か関係があんのか?」


「まあ、ちょっとね。岡田さん、解剖をした時のこと、詳しく覚えているかしら。特に、目玉を切る前にやらなくちゃいけないことなんだけど……」


 初美が相変わらず思わせぶりな口調で尋ねて来る。岡田も記憶を総動員して思い出そうとするが、なにしろ、三十年以上前の話だ。そう簡単に聞かれても、すぐには思い出せそうにない。


「そう言えば、目玉の周りの肉を先に取り除かなきゃいけないんじゃないっすか? 僕も、高校の授業でやったのを思い出しました」


 岡田に代わり、今度は工藤が答えた。そう言われると、今まで靄のかかっていたような記憶が急に鮮明になってくる。


 目玉の解剖をする前に行うこと。それは、眼球の周りについている筋肉を取り除くことだ。筋張っていて切り取り難いのだが、これを取り除かないと、上手く目玉にメスを入れられないと注意を受けた記憶がある。


「なんだ、二人とも習ってるんじゃない。それなら、話は早いわね」


「そうは言われてもなぁ……。俺には、話の方向がさっぱり見えねえぜ」


「今度は横道にそれてないから大丈夫よ。それで、目玉の話なんだけど……解剖の時に肉片がついた眼球を渡されたことから分かると思うけど、あれって、そう簡単に外れるようなものじゃないのよね」


「そりゃ、そうだろう。義眼じゃあるまいし、後ろから頭を叩かれたくらいですっぽ抜けちまったら困るってもんだ」


「まるで漫画みたいな例えね。でも、確かに岡田さんの言う通りよ。私達に限らず、生物の目玉は、見た目よりもしっかりと身体にくっついているの。表からじゃ見えないけど、裏では視神経や目の周りの筋肉がしっかりと押さえつけていて、よほど強い衝撃が加わらない限りは眼球が飛び出すようなことはないわ」


「だったら、昨日の死体はどうだったんだ。まさか、綺麗にすっぽりと抜けちまってたって言うんじゃ……」


「ご名答。さすがは岡田さんね」


 適当に答えたつもりだったが、岡田の答えは奇しくも初美の言いたいことを先に当てていた。これには、言った本人もびっくりである。


「昨日の遺体の短大生だけど……目玉が綺麗に無くなってたのよね。獣につつかれたわけでもないし、それこそ、最初から抉り取られたみたいにね」


「なら、その目ん玉を抉り取ったのが、今回の犯人か?」


「その可能性は高いわ。だから、私は犯人が、一種のフェティシズムの持ち主じゃないかって言ったのよ。人体のパーツに異常な執着を持つ人間なら、殺害した相手の一部を持ち去ったとしても不思議じゃないもの」


「なるほど、そういうことか。ようやく俺にも、話が見えて来たぜ」


 点と点が、線ではっきりと繋がった気がした。初美の言いたいことが分かり、今度は岡田も納得した様子で頷く。


 女性を殺害し、その目玉だけを取り除くという異常な殺害方法。他にも皮膚や内臓が荒らされていたことが気になったが、それが人の手によるものなのかどうかは、さすがの初美にも分からなかったのだろう。


 とにかく、後はもらった検案書に目を通せば話は早いはずだ。捜査本部では対人関係のトラブルという方向からも捜査を続けているが、初美の意見を考慮した場合、異常者による犯行という線も考えられる。


「それじゃあ、とりあえず、この検案書は頂いていくぜ。初美ちゃんの言ってたことも、捜査の参考にはさせてもらうよ」


「ありがとう。でも、私だって、まだ確信に至っているわけじゃないわ。それを調べるのが、岡田さんと工藤君の仕事でしょ?」


「そいつは、こっちだって百も承知だ。まあ、また何かあったら連絡するぜ」


「願わくば、検死解剖の仕事以外の話でお願いしたいわね。今の仕事が解決したら、久しぶりに一杯やりましょうか」


「そいつはいい。場所は、また例の焼き肉屋でいいか?」


「ええ、もちろん。私はいつだって、準備OKよ」


 先ほどまで、性的倒錯者や死体について話をしていたとは思えない発言である。法医学者という仕事に就いているとはいえ、やはり初美は精神的にタフだ。


 受け取った検案書を片手に、岡田はそんなことを考えながら病院を後にした。工藤もそれに続く。


(しっかしなぁ……。これが変態の仕業となると、犯人を見つけるのがますます難しくなるな……)


 初美の話を思い出しながら、岡田は難しい顔をして考え込んだ。


 性的な嗜好など、人の表の顔からは一見して分からないものである。見た目は品行方正な好青年に見えても、裏では変態的な性欲を持て余している者がいるかもしれない。それだけに、初美の推理が正しければ、犯人の特定がますます困難になる。


(まあ、悩んでいても仕方ねえか。俺自身が、妙な思い込みを持って捜査をするわけにもいかねえからな)


 かつて、若い頃に世話になった上司の言葉を思い出し、岡田は迷いを振り切るようにしてパトカーに乗った。どちらにせよ、今は情報が少なすぎる。犯人の目星をつけるにしても、まずは自分の足で証拠を集め、そこから推理を組み立てて行く他にない。


 病院を後にし、岡田と工藤の二人を乗せたパトカーが走り出す。もうじき午後になろうとしていたが、その日は妙に空が曇っており、車の中にいるにも関わらず肌寒く感じた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 図書室というところは、昼間の学校の中でも比較的静かな場所である。試験前にでもなれば話は変わるが、それ以外の日は比較的閑散としている。


 入口前のカウンターで、九条照瑠はお気に入りの本のページをめくりながら暇を持て余していた。彼女の仕事は図書委員。故に、本の貸し借りに関する手続きを任されているのだが、こうも人がいないと退屈の極みである。


 文化祭は、つい先日に終わってしまったばかり。定期試験までは、もう少し日がある。どうにも中途半端な時期ということも相俟って、妙な眠気が照瑠を襲う。


「ふぅ……。今日は、なんだか集中できないなぁ……」


 本のページを意味もなくめくって弄びながら、照瑠はぼんやりと呟いた。文芸部に所属している彼女ではあるが、それでも集中力が続かない時もある。いくら好きな本とはいえ、気乗りしないまま読んでも面白くない。


 昼休みは、後どれくらい残っているのだろう。ふと、そんなことを考えて、照瑠が壁にかかった時計に目をやった時だった。


「あっ、照瑠じゃない」


 突然名前を呼ばれ、照瑠はハッとした顔をして声のする方を向いた。見ると、そこには昨日のパーティーで出会った少女、天倉癒月が立っている。その手に数冊の本を抱えているところからして、貸出の希望だろうか。


「癒月? こんなところで会うなんて、奇遇ね」


「そういう照瑠こそ、図書委員だったなんて初耳よ。この学校、広いようで意外と狭いのかもね」


「それ、言えてるかも……」


 昨日に続き、こんなところでも意見が合う。癒月といると、妙な親近感が湧いてくる。こんな些細なことで楽しい気分になれるのだから、人間というのは不思議なものだ。


「ところで照瑠。この本、ちょっと借りたいんだけど……手続きしてくれない?」


「いいわよ。それじゃあ、ここのカードに日付と名前を書いて、そこの箱に入れておいて」


 本の裏表紙に備え付けられた貸出カードを抜き出して、照瑠はボールペンと一緒に癒月に渡した。どんな本を読んでいるのか気になり、そのタイトルに少しだけ目を通してみる。


 癒月の借りようとしている本は、照瑠の読んでいるような文学作品ではなかった。かといって、勉強に使うような参考書でもない。


「へえ……。≪夢見る頭脳≫、≪リラックスの勧め≫、それに≪楽しい夢を見る方法≫かぁ……。癒月、こんな本に興味があったの?」


「ちょっとね。最近、変な夢を見るようになって、あんまり良く眠れていないから……」


「そうなんだ。それじゃあ、ストレスも溜まるわよね」


「まあね。実は、今日も四限の英語、ちょっと寝ちゃったんだ。授業中に寝るのはよくないって、頭ではわかってるつもりなんだけどね」


「それなら大丈夫よ。私の知り合いで、朝から昼までずーっと爆睡してるようなのもいるくらいだから。四限でちょっと寝過ごしたくらい、かわいいものよ」 


 授業中に寝過ごすという話を聞いて、照瑠は紅のことを思い出しながら答えた。


 そういえば、今日も紅は朝から机に突っ伏して爆睡していたような気がする。それでいて、試験では決して赤点を取らないのだから不思議なものだ。いったい紅は、どうやって勉強をこなしているのだろうか。


 だが、それ以上に照瑠が気になったのが、癒月の借りようとしている本の内容だった。


 癒月の話では、彼女は最近悪夢に苦しめられているという。それがどんなものかは知らないが、眠るべき時に眠れないというのは、やはり辛いことだろう。


 照瑠とて、安眠を妨害されればストレスは溜まる。連日、悪夢にうなされるようでは、気分も萎える。


「ねえ、癒月。あなた、今日は学校が終わったら、ちょっと時間ある?」


「えっ!? 別に、特に用事はないけど……。なんで?」


「癒月がよかったらでいいんだけど、今日、一緒に帰らない? 睡眠不足でストレス溜まってるみたいだし、たまには女の子だけで、羽目を外してみるのもいいかなって」


「羽目を外すかぁ……。まあ、照瑠のことだから、変な間違いはないよね。いいよ。授業が終わったら、一緒に帰ろう」


「ええ。それじゃあ、六限が終わったら、私がE組の教室に行くわ」


「うん、よろしく!!」


 三冊の本を借り受けて、癒月は照瑠に告げながら図書室を去った。何気ない日常の光景ではあったが、照瑠は新しく知り合った友人と一緒に遊びに行けることが、純粋に楽しみだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 五限と六限の授業が終わるまでは、思ったよりも短く感じた。いつもは終了時間を気にしながら時計とにらめっこをしているが、予定があれば話は別だ。先々のことを考えて時を過ごしていると、それだけで時間の流れが速く感じる時もあるから不思議である。


 ホームルームを終えた照瑠は、約束通り、E組の教室に急ぐことにした。今日は部活もないので、詩織にも一緒につき合うことにしてもらう。亜衣は面倒事を引き起こしそうなので、今日は黙って置いてきた。まあ、いつも騒がしい亜衣がいないというのも、たまには静かでいいかもしれない。


 教室の中に入ると、癒月の姿はすぐに見つけることができた。向こうもこちらに気づいたのか、鞄に荷物をまとめて駆け寄って来る。


「ごめん、照瑠。もしかして、待たせた?」


「大丈夫よ。私も、さっきホームルームが終わったばかりだから」


「そっか。ところで……今日、帰りにどこか寄ったりするの?」


「うん。詩織も一緒に三人で、私の行きつけのお店に行こうかなって思って」


 照瑠の行きつけの店と言えば、駅前の甘味屋である。女子高生が集まる場所としては、いささか古臭い印象を受ける店であるが、その辺のファミレスやファーストフード店などよりも、格別に美味しい物が揃っている。それも、どれもひじょうに良心的な価格で食べられるのだ。


 疲れた時は、甘い物が一番。ストレス解消にも最適だし、何よりも甘い物を食べていると、それだけで幸せな気分になれる。女の子にしか分からない、一種の特権のようなものである。


 癒月が夜も眠れずにストレスを溜めているのは、今日の昼休みにも聞いた。ならば、これで少しでも元気が出てくれればいい。そう考えてのことだ。


「それじゃあ、早く行こう。私の家、お店とは反対方向だから、あまり遅くなるとお父さんに怒られちゃうし」


 善は急げ。この場合、正しい使い方なのかは分からないが、とりあえずそんな言葉を思い出しながら、照瑠はE組の教室を出ようとする。


 だが、彼女が教室を出ようと振り向こうとした矢先、その腰回りに突然何かが絡みついてきた。思わず下に目をやると、そこには見覚えのある小さな手が見える。


「あ~き~る~……。ず~る~い~ぞ~」


 未だ声変わりしていないのではないかと思われるハスキーボイスを、強引に低音にしたような気持ちの悪い声。そして、こちらの腰をがっちりと捕まえ、腹を撫でまわす二つの手。


 間違いない。自分にこんなことをするのは、火乃澤高校広しと言えど一人しか思い浮かばない。


「亜衣……。これ、いったい何のつもり……?」


「あ~ま~い~も~の~……。わ~た~し~も~た~べ~た~い~……」


「ちょっ……気持ち悪いわね! どさくさに紛れて、変なとこ触らないでよ!!」


「つ~れ~て~け~……。わ~た~し~も~つ~れ~て~け~……」


「わかった、わかったから! お願いだから、これ以上身体を撫で回さないで!!」


 後ろから腰に張り付いて離れない亜衣を、照瑠は強引に引き剥がす。今日はあえて亜衣に告げずに教室を出たというのに、なんという勘の良さだろう。


 セクハラ紛いの行為を続ける亜衣からなんとか逃れ、照瑠はやれやれと言った表情で溜息をついた。


 先日、ハロウィンパーティーの会場でスカートを捲られた際には激昂していたのに、他人に対して亜衣は容赦がない。もしかすると、あの日の騒動も、実はそれなりに楽しんでいたのではないかと勘ぐってしまう。


 兎にも角にも、これで照瑠の目論みは崩れ、結局いつものメンバーで甘味屋へ行くことになってしまった。本当は詩織に癒月を紹介して一緒に話をしたかったのだが、こうなってはどうしようもない。


「仕方ないわね、亜衣。あなたも一緒に来て構わないけど、今日は下らない都市伝説の話は禁止だからね。それと、下品なネタもお断りよ」


「大丈夫、大丈夫。私だって、いつもそんな話ばっかりで盛り上がってるわけじゃないよ。たまには女同士、恋バナの一つでもしないとね。それこそ、加藤さんには個人的に尋ねたいことが色々と……」


 亜衣の口が、にやりと意地悪そうな笑みの形に歪んだ。その意味に気づき、照瑠はすかさず亜衣の両頬をつまんで左右に引っ張った。


「い、いひゃいよ、あきる! なにひゅるのさ!!」


「下ネタは禁止だって、さっき言ったばっかりでしょうが……。どうせ、詩織と長瀬君のことについて、際どい質問するつもりだったんでしょ……」


「うぅ……。な、なぜひょれをぉぉぉっ!!」


「あなたの考えくらい、こっちだってお見通しよ。伊達に友達やってるわけじゃないんだからね!!」


 亜衣の頬を摘まんだまま、照瑠がその身体をずるずると引っ張って行く。その後ろから、詩織と癒月が笑いながら着いてくる。


 新しく癒月を加えているものの、なんだかんだで、いつものメンバーで過ごすいつもの風景だった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 照瑠達が駅前の甘味屋に着いた頃には、もう太陽は西の空に沈みかけていた。二月ほど前であれば、まだ十分に明るい時刻なのだろうが、冬の夕暮れ時はそうもいかない。


 足早に店に入り、照瑠は一番奥にある席を確保する。奥まった一角にあるその場所は、他の客のことを殆ど気にせず話ができる、お気に入りの場所だった。


「それじゃあ、とりあえず何か頼もうか。皆は、いつものやつでいいよね」


「ちょっと、亜衣。なんで、あなたが仕切ってるの……?」


「まあまあ、細かいことは言いっこなし。天倉さんは初心者だし、私達と一緒の物でいいよね?」


 甘味屋で何かを食べるのに、初心者も上級者もあるものか。思わず突っ込みたくなった照瑠だったが、癒月は亜衣の言葉に黙って頷いていた。


「ねえ、癒月。亜衣の言ってることなんて、半分はホラかハッタリなんだからね。自分が食べたい物が決まってるなら、それを頼んでもいいんだよ」


「ううん、いいの。私、こういうお店って、あんまり入ったことないから。だから、よくわからなくて……」


「そっか。まあ、女子高生が入り浸るには、確かにちょっと下町臭い場所かもしれないわね」


「そんなことないよ。私も甘い物は好きだしね。どっちかって言うと、洋菓子専門なんだけど」


「洋菓子ってことは、ケーキとかクッキーとか? この辺に、そんなお洒落な店ってあったかしら?」


「実は、穴場を知ってるの。昔っからある、ちょっとダンディなマスターが経営している喫茶店なんだけど……」


 話が止め処なく進んで行く。なんということのない話なのだが、それでもやはり楽しい。亜衣と一緒にいることが多いためか、いつも妙な話ばかり聞かされて、感覚が狂っていたのかもしれないが。


 程なくして四人の前に店員が現れ、注文を聞いてきた。亜衣が四人分のクリーム餡蜜を頼み、再び話に花を咲かせる。


 神社の巫女も文学少女も、そして都市伝説オタクも関係なしに、それぞれが一人の女の子として楽しめる時間。癒月の存在が一種の潤滑油となり、いつも以上に気分が乗っている自分がいる。


 だが、そうやっていつまでも雑談をしているわけにもいかないということは、照瑠自身が何よりも知っていた。


 今日、癒月をここに読んだ理由は他でもない。悪夢にうなされて眠れないという、彼女の悩みを聞くためだ。四人で話したところでどうにかなる問題ではないのかもしれないが、何もしないよりはマシだろう。


「ねえ、癒月。ところで……今日、図書室で話してた、夢のことなんだけど……」


「夢? ああ、あの悪夢の話ね」


「うん。癒月、眠れないって言ってたじゃない。どんな夢を見ていたのか、ちょっと気になっちゃって……」


「どんな夢、か……。あんまり、楽しい夢じゃないよ」


「それは、こっちだってわかってるわ。でも、少しでも力になれるかもしれないって思って……」


「ありがとう。それじゃあ、餡蜜が来る前に話すね。あんまり気持ちのいい夢じゃないから」


 そう言って、癒月は照瑠達に最近になって見るようになった夢の話をし始めた。


 暗闇の中、どことも知れぬ場所を歩いてゆく自分。やがて見知らぬ少女に出会うが、自分の意思に反して身体が動き、その少女を殺してしまう。そして、最後には少女の死体に乱暴をし、見るも無残な姿に変えてしまう。


 できるだけ短く話したつもりだったが、目の前で話を聞いている照瑠達の目に、先ほどの楽しげ色はなかった。


「はぁ……。なんだか、聞いているだけで気が滅入りそうな夢ね」


 夢の中で、猟奇的な方法で人を殺す。それも、自分の意思とは関係なしに、自分の身体が他人を殺すのである。


 はっきり言って、これはかなり性質の悪い夢だと思った。もしも自分が癒月と同じ立場なら、やはり安眠できなくなるに違いない。


「でも、自分が人を殺す夢か……。そんな夢、私は見たことないけど……詩織はどう?」


「私だって、そんなのないわよ。ただ、昔読んだ夢占いの本に、人殺しの夢は希望の夢だって書いてあったと思う」


「人殺しが希望!? それ、本当なの……?」


「うん。夢の中で殺している人は、自分自身の弱い心や変えたい部分を表しているんだって。だから、それを夢の中で殺すことは、自分自身が大きく変わろうとして、前向きになっている証拠だって書いてあったわ」


「前向きになっている証拠ねぇ……。そういう意味だったら、少しは救いがあるってことかしら?」


 亜衣が話す都市伝説ならいざ知らず、夢占いとはいえ、詩織が過去に読んだ本の話であれば、少しは信憑性もある。気休めにしかならないかもしれないが、それでも癒月が元気になってくれればいい。


 そう思って言ってみたものの、照瑠の言葉を聞いてもなお、癒月はどこか沈んだ様子のままだった。


「あのね、照瑠。実は、私の夢の話……続きがあるの」


「続き?」


「この前の金曜日なんだけどね。テレビのニュースで、女子高生が殺されたって事件がやってたじゃない。あの、山の中で死体が見つかったっていう……」


「ああ、あれね。しかも、発見されたのが、この火乃澤町なんでしょ? ホント、気持ち悪いわよね……」


「その、殺された女子高生なんだけど……。その人、私の夢の中に出て来たんだ……」


「えっ!?」


 一瞬、癒月が何を言っているのかわからなかった。殺された女子高生が、夢の中に現れる。それはいったい、どういう意味の話なのだろうか。


「朝、テレビで見るまでは、そんなことわからなかったの。でも、テレビで見て、はっきりとわかったのよ。自分が夢の中で殺したのは、この女の子だって」


「それって、もしかして正夢ってやつ!?」


 話がだんだんオカルト染みたものになってきた。すかさず亜衣が身を乗り出して聞くが、調度その時、店員がクリーム餡蜜をテーブルに運んできた。


「正夢か……。まあ、悩んでいたって仕方ないじゃない。とりあえず、今は甘い物でも食べて気分転換しよう。正夢であろうとなかろうと、癒月が本当にその子を殺したわけじゃないんだしさ」


「そうね。それじゃ、照瑠のお勧めのお店の味を、初体験ってことで……」


 めいめいに、スプーンで餡蜜をすくって口に運ぶ。柔らかい、それでいてしつこくない甘さが口の中いっぱいに広がって行く。


 生きててよかった。決して大げさなことではなく、本気でそう思う。案外、人間の生きている意味など、こうして平和な日々を過ごしながら美味しい物を食べることにあるのかもしれない。


 束の間の幸せを満喫しつつも、照瑠はふと癒月の方を見た。こういった店に来ないために食べ慣れていないのか、少し食べただけで、癒月のスプーンを持つ手はじっと止まったままだ。


「どうしたの、癒月。もしかして、口に合わなかった?」


「ううん。別に、そんなことはないけど……。ただ、思ったより甘くなかったかなって」


「ええ、本当!? もしかして、癒月って甘党?」


「うん。コーヒーも、砂糖とミルクをいっぱい入れないと飲めないし……」


 そこまで言って、癒月は今朝のことを思い出した。


 いつも、コーヒーにはミルクだけでなくスティックシュガーを三本は入れているが、それでも足りずに今日は五本入れた。いくら自分が甘党でも、これは少しおかしい。


 やはり、今日は味覚が変になっているのだろう。そういえば、昼食もなんだか味のないパンを食べているようで美味しくなかった。


「ごめん、照瑠。やっぱり、今日は具合が悪いみたい。なんか、味感じないみたいで……」


「大丈夫? もしかして、熱でもあるんじゃない?」


「たぶんね……。みんなに感染うつすといけないし、今日はもう帰るわ」


 頼んだ餡蜜を殆ど残し、癒月はそう言って席を立った。店のカウンターで自分の分の会計だけを済ませると、どこかおぼつかない足取りで外へと出て行く。


 折角誘ったのに、結局あまり力になってやることはできなかった。最後の最後で、照瑠はなんだか肩すかしを食らったような気分になった。


「ねえ、九条さん。天倉さん、大丈夫かな……」


「さあ……。でも、季節の変わり目って風邪をひきやすいからね。あんまり酷くならないうちに、治るといいけど……」


 連日の悪夢に加え、風邪の追い打ち。一人先に帰ってしまった癒月が、随分と哀れに思われた。


(しまったなぁ……。癒月の家がどこにあるのか聞いておけば、明日、休んだりした時にお見舞いに行けたのに……)


 自分の迂闊さが、今になって恨めしく思える。そう思った矢先、隣から伸びたスプーンが、照瑠の餡蜜をすくい取った。


「ちょっと、亜衣……。これ、私の餡蜜なんだけど……」


「いいじゃん、少しくらい。照瑠がくれないなら、私は癒月が残したのをもらうけど……いいよね?」


「はぁ……。あなたみたいな人は、悪夢も風邪も、一生無縁の世界で生きるんでしょうね、きっと……」


「まあね。無病息災、健康第一。これが私の生き様ですから!!」


 ついでにそこに、馬耳東風と厚顔無恥という言葉も付け加えたらどうか。そう思った照瑠だったが、あえて口に出すのは止めておいた。


 癒月が残した餡蜜を、物凄い勢いで口に放り込んで行く亜衣。食べ過ぎて太るとか、腹を壊すとか、そういったことを一切考えていない。ある意味では最も幸せな人間である。


 いつもは呆れてしまう照瑠であったが、今日に限っては、そんな亜衣の元気の一部でも癒月にわけてやりたい気分だった。

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