~ 参ノ刻 変異 ~
天倉癒月は夢を見ていた。暗い、先の見えない闇の中を、何かを追い求めるようにして走る自分。その先にある物が何なのかは、既に分かっている。
これは夢だ。いつも見ている、あの悪い夢でしかない。頭ではそう分かっていても、やはりどこか受け入れられない自分がいる。夢の中とはいえ、人を殺すというのは、やはり気持ちの良いものではない。
目の前に、自分よりも少しだけ年上の女性の姿が現れる。彼女とは、夢の中で幾度となく会っているが、その結末はいつも同じだ。
自分の姿を見て逃げ出す女性。それを追いかけ、手にした鈍器で頭を殴りつける自分。
止めようと思っているのに、身体が言うことをきかない。目を背けたくとも、その目を閉じることさえ叶わない。
いつの間にか、自分の手には鋭利な刃物が握られていた。それを女性の顔に添え、そのまま瞼を切開する。手慣れた様子で刃物を動かしている自分の手が、まるで自分の物でないように感じられる。
眼球を抉り出し、視神経を切断し、癒月はそれを摘まみ上げた。未だ血の滴る白い球体を、そのまま自分の目に宛がう。
ずぶずぶと、何かがめり込むような感触がして、抉り出した目玉と自分の目玉が一つになってゆく。生温かい眼球の感触、むせ返るような血の匂い、その全てが妙に生々しく癒月の五感を刺激する。
これは現実ではないと、いつも見ている悪夢でしかないと、そうわかっているはずなのに、この気持ち悪さはなんだろう。人を殺し、その身体の一部を切り取り、果ては己の肉体に同化する。一連の行動を否が応にも見せつけられ、頭がおかしくなってしまいそうだ。
やがて、女性の目玉が自分の目玉と完全に一つになったところで、夢の中の癒月はゆっくりと立ち上がった。殺された女性の死体には目もくれず、闇の中を癒月は再び歩き出す。
だんだんと、意識が遠くなってきた。自分の心が、夢の中の自分から離れて行くのが分かる。
これで、悪夢から解放される。これで、この狂った世界から逃げ出せる。そう、安心したものの、今度は突如として酷い頭痛が癒月の頭を襲った。
(……っ!!)
万力で頭を締め付けられているような、頭の芯まで響く痛み。しかし、頭を抑えようにも、自分の意思で腕を動かすことさえできない。いや、それ以前に、今の自分に肉体というものがあるのかさえも定かではない。
身体を動かすことも、声を上げることもできず、癒月は恐ろしいまでの頭の痛みに耐えるしかなかった。その痛みが限界まで高まった時、糸の切れた人形のように、癒月の意識はぶっつりと途切れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
気がつくと、そこは自分の部屋だった。重たい頭を持ち上げながら、癒月はゆっくりと起き上がる。
ふと、先ほどの夢が気になって、自分の目に指を添えてみた。
なんのことはない、いつもの自分の目だ。ベッドから抜け出し、クローゼットを開けて扉についている鏡を見る。
そこにあるのは、いつも通りの自分の顔。瞼を持ち上げたり、目を左右に動かしてみたりしたが、とくに変わったところは見られなかった。
馬鹿らしい。あれは、いつもの悪夢だ。自分の目が死体の目を飲みこんで行くなど、そんなことがあるはずがない。
だが、今しがた見ていた夢の内容を思い出し、ともすれば癒月は不安な気持ちに駆られた。
夢の中で摘まんだ、生々しいまでにリアルな眼球の感触。いや、眼球だけではない。今までに夢の中で殺してきた女達の身体は、どれも本物のように感じられた。馬鹿げた考えだと思いつつも、それが現実だった時のことを考えるとぞっとする。
(気持ち悪い……。まるで、自分の身体が本当の自分の物じゃないみたい……)
身体に付いた穢れを払うようにして、癒月はベッドの上にパジャマを脱ぎ棄てた。いつも通り服を着替え、癒月は部屋を出て階段を下りる。携帯電話で時刻を確認すると、まだ六時半を少し過ぎたところだった。
さすがに今日は、遅刻をしないで済みそうだ。いくら悪夢にうなされる日々が続いているとはいえ、怖い夢を見たなどというのは遅刻の理由にならない。
一階に降りると、父も今しがた起きたばかりのようだった。髪は跳ね上がり、メガネの奥にある二つの目は眠たそうにしょぼくれている。これでも近所では名医で通っているのだが、今の恰好は風体の上がらない単なる中年男でしかない。
「ああ、おはよう癒月。今日は、寝坊しなかったみたいだね」
「まあね。それよりも、お父さん。起きたらまず、寝間着から着替えてっていつも言ってるでしょ。もう冬も近いんだし、いつまでも変な格好でいると、風邪ひくよ。医者の不養生って言葉もあるくらいなんだからさ……」
「そうは言っても、私はこの恰好が落ち着くんだよ。それに、風邪のことだったら、まずは自分の心配をしたらどうだ。昨日は、なんだか熱があるような気がするって言っていたじゃないか」
「うん。でも、今朝はもう大丈夫みたい。寝る前に、お父さんからもらった薬が効いたのかな?」
「そうかい。それはよかった。だが……油断していると、またぶり返す可能性もあるからな。今日は、あまり激しい運動はしない方がいいぞ」
「わかってるわよ、そんなの。体育の授業は休むつもりだから、大丈夫」
まったく、父は心配性だと癒月は思う。仕事柄、娘の身体を心配してくれるのは嬉しいが、少々過保護な点は否めない。まあ、唯一の家族が癒月だけなのだから、これは仕方ないことなのかもしれないが。
食パンをトースターにセットし、癒月はテレビのリモコンを取ってスイッチを入れた。別に、見たいテレビがあるわけではないのだが、情報番組を見ながら朝の準備や食事をするのが日課になっている。
画面の向こうでは、相変わらず下らないニュースがアナウンサーの口から語られていた。正直、どこの政党が政権を取って、誰が総理大臣になるかなど、癒月は興味がない。右だの左だのといった思想のことは分からないし、特定の政治家を気に入っているわけでもない。誰でもいいから、暮らしやすい社会を作ってくれというのが本音だ。
もっとも、高校生の癒月にとって、いくら政治のことを考えたところで無意味だった。選挙権もない人間が、何を言ったところで変わるわけでもない。せめて自分が大人になったら、少しはまっとうな判断をして投票に行けるようになっていればよいと思う。
パンの焼ける匂いを横に、癒月は鏡の前で自分の髪を整えた。妙なところからアホ毛が立たないようにピンで留めると、調度パンが焼き上がったところだった。
パンを皿に乗せ、冷蔵庫からジャムやらバターやらを出してテーブルに運ぶ。キッチンでは、パジャマ姿のままの父がコーヒーを入れている。
ここまでであれば、いつもの朝の風景だ。何の変哲もない、天倉家の日常の一幕に過ぎない。
だが、パンにバターを塗ろうとナイフに手を伸ばしたその時、癒月は自分の耳に聞こえて来たテレビの声が、ふと気になった。
≪次のニュースです。一日の日曜日、午後一時頃、N県火乃澤町の山中で、新たに女性の遺体が発見されました≫
いつもならば、適当に聞き流してしまうであろう朝のニュース。朝食時における、単なる背景でしか過ぎないもの。
だが、癒月はなぜか、そのニュースの内容が気になった。朝方に見た、あの人殺しの悪夢が原因なのかもしれない。自分が夢の中で人を殺したことで、殺人というものに対して過敏になっているのだろう。
≪遺体で発見されたのは、同県内の短大に通う学生の安達理恵さん。警察の調べによりますと、理恵さんは二カ月程前から行方不明になっており、両親から捜索願が出されていました≫
そういえば、以前に同じようなニュースをテレビで見たことがある。あれは、確か先週の金曜日のことだったか。あの日は夢で殺した少女とよく似た者の顔がテレビに映し出されており、妙に不安な気持ちになったものだ。
≪現場付近からは先週の木曜にも同様の遺体が発見されたことから、警察では若い女性を狙った連続殺人事件と見て捜査を続けています≫
淡々とした口調で、アナウンサーが事実だけを述べる。相変わらず、そこに個人の感情というものは含まれていない。
「まったく、朝から嫌なニュースだねぇ。もう少し、すがすがしい気分になれるニュースはないのかな」
癒月の父である啓輔が、そんなことを言いながらコーヒーの入ったマグカップを置いた。癒月の目の前では父の入れたコーヒーが湯気を立てていたが、彼女はそれを手にすることなくテレビの画面に食い入っていた。
番組の最後に映し出された女性の顔。それは、死体となって発見された女子大生、安達理恵のもの。そして、癒月が今朝の夢で殺した女性のものとも同じだった。
「やだ……。どうして……」
コーヒーカップを握ろうとした癒月の手が小刻みに震える。ニュースの内容は既に別の物に変わっていたが、癒月には先ほどのアナウンサーの言葉と、画面に映し出された女性の顔が忘れられない。
先週の金曜に続き、今日もまた、夢で見た女性が死体となって発見された。これは何かの偶然なのか。それとも、癒月の知らないところで、人の理解を越えた力でも働いているというのか。
「どうしたんだい、癒月。なんだか、顔色がよくないみたいだぞ?」
父が心配そうに声をかけてきたが、癒月の耳には入らなかった。口に運んだパンの味が、妙に淡白なものに感じられる。
あれは所詮、夢の中の出来事だ。連日、妙な夢を見ているため、殺人事件に対して過剰に反応してしまっているだけだ。
だが、偶然の一致にしては、あまりにも気持ちが悪い話だった。自分が殺したわけでもないというのに、この不快感は何なのだろうか。
口直しにコーヒーでも飲もうと、癒月はコーヒーミルクとスティックシュガーに手を伸ばした。ミルクを入れ、スティックシュガーを三本入れて、甘さを自分の好みに合うように調節する。
「あれっ……?」
コーヒーを口にした瞬間、癒月は妙な違和感に気づいて顔をしかめた。砂糖を三本も入れたというのに、まだ苦い。いや、苦いというよりも、味が薄い。先ほどのパンもそうだったが、味覚が麻痺しているとしか思えない。
(まだ、熱が下がってないのかなぁ……)
味のしないコーヒーを眺めながら、癒月の頭にそんな考えがよぎった。
高熱を出した時には、舌の細胞の感覚が鈍くなるという話を聞いたことがある。実際、風邪をひいて熱を出している時に食べる食事は、どんなに好きなものでも美味しく感じた試しがない。
しかし、今日は父からもらった薬も効いて、熱は下がっているはずだ。ならば、まだ身体の芯に熱が残っているということか。父の言葉を借りるわけではないが、油断をすると、本当にぶり返してしまうかもしれない。
味のしない朝食を適当に済ませ、癒月は足元にある鞄を持って立ち上がった。時刻は七時四十分。そろそろ家を出ないと、学校に間に合わなくなる。
「それじゃあ行ってくるね、お父さん!!」
「ああ。何度も言うが、無理はしたら駄目だぞ、癒月」
「わかってるって! そんなヘマしないから大丈夫!!」
声だけは元気に、癒月は玄関の戸を開けて外へ出た。空はどんよりと曇っており、今にも雨が降り出しそうな気配である。
これは、傘を持って出た方がよさそうだ。そう思った癒月は一度玄関まで引き返すと、傘立ての中にあるお気に入りの傘を抜いて再び外へ出た。雨が降らなかった場合は荷物になるが、ずぶ濡れになるよりはマシだ。
傘を片手に、家の前に広がる通りへと出る癒月。ふと、塀の上を見ると、一匹の黒猫がこちらを見つめていた。
癒月は決して動物が苦手な方ではない。むしろ好きな方であり、野良猫がいたら、つい手を出して近寄ってしまうようなタイプだ。
だが、その日に限って、癒月にはその黒猫が妙に禍々しい存在に思えて仕方がなかった。
全身に真っ黒なタールを塗りたくったかのような艶をした毛並みと、首に巻かれた古めかしい首輪。首輪についている鈴は、よく見ると頭蓋骨の形をしていた。
これだけであれば、飼い主の悪趣味な嗜好に振り回されている猫のことを哀れに思っただろう。ところが、その猫は首の鈴などまったく気にすることなく、こちらをじっと見つめている。しっぽは常にゆらゆらと揺れ、まるでそれだけが別の生き物であるかのようだった。
そして、何よりも癒月が気になったのは、その猫の目に他ならなかった。金色に輝く二つの目は、油断なくこちらを睨みつけている。威嚇しているのではなく、まるで監視しているかのように、ただじっと癒月を見つめている。
(うわぁ……。気持ち悪いなぁ……)
たかが動物に見られただけなのに、癒月は思わず後ずさった。あの猫の目。あれは、その辺にいる野良猫の目ではない。なんだか人間に見つめられているような、そんな奇妙な錯覚をもたらすのだ。
「……ニャォ」
妙にくぐもった声で鳴き、猫は塀の上からぴょんと飛び下りた。同時に、癒月は自分の肩から一瞬にして力が抜けるのを感じていた。
猫を見ていた時には気づかなかったが、自分はいつの間にか、金縛りにあったようになっていたらしい。額から汗が溢れ、呼吸が荒くなっているのが自分でも分かる。
まったく、今日は朝から散々だ。変な悪夢にうなされて起きてみれば、テレビでは自分の夢に出てきたのと同じ顔をした女性が殺されたというニュースが流れる。おまけに、家を出たら出たで、気持ちの悪い猫に睨まれて時間を無駄に過ごしてしまった。
このままでは、学校に遅刻してしまう。父は無理するなと言っていたが、少し早足で歩くくらいは問題ないだろう。
「ほんと、今日は厄日なのかな。ついでに雨まで降りださなきゃいいけど……」
曇天の空を不安そうに見上げながら、癒月は小走りに学校へと続く道を駆けて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
タイル張りの廊下を、靴底が叩く規則正しい音が聞こえる。
N大学付属病院。先日、変死体の検死解剖の記録を受け取るために訪れたこの場所を、岡田と工藤の二人は再び訪れていた。
「それにしても……」
病院のソファーに腰掛けながら、工藤が呟いた。
「例の山で、また死体が発見されたんですか」
「ああ、そうだ。今度のやつも、それなりに古いやつでな。もっとも、前のに比べると、死んでから一月ほど経っているかいないかってとこらしいが……」
「どっちにしろ、仕事が増えたってことには変わらないですよ。こう、同じ山から毎日死体が上がったら、いくら僕でも気が滅入ります」
「まったくだな。しかも、今回のホトケさんも、身体のあちこちが損傷していやがった。それこそ、何者かに持っていかれたように、綺麗に切り取られてな」
「うへぇ、やだやだ。こいつはもう、連続猟奇殺人事件ってことで、間違いないですね」
廊下の天井に備え付けてある蛍光灯の明かりを眺めながら、工藤は辟易した口調で言った。
同じ山で、連日上がる謎の変死体。最初に遺体で発見された女性、佐藤美奈子の事件を追う過程で見つかったそれは、明らかに人の手で殺されたと思しきものだった。
最も古い物では、亡くなってから死後二カ月が経過している。こうなると、過去の行方不明事件などとも照らし合わせて考えねばならないから厄介だ。
幸い、遺体の身元は割れていたが、それでも事件の洗い直しというのは面倒なこと極まりない。時間が経過すればするだけ証拠も減り、人の記憶もあいまいになる。その上、本来は別の事件として扱われていたものを一つにまとめるためには、それだけでも点と点を線で繋ぐような、慎重な推理を要求される。
これ以上の犠牲者を出さないためにも、警察官として、工藤はなんとしてもこの事件を解決せねばならないと思っていた。これが猟奇殺人事件、それも初美が以前に話していた異常なフェティシズムを持った者の犯行であるならば、犯人は必ず同様の犯行を繰り返すはずである。
だが、その一方で、工藤は今回の事件に言いようのない不安も抱いていた。
そもそも、事件の発端からして今回の件は不自然なものが多い。
まず、第一に発見された女子高生の遺体。顔の皮を中心に、身体の各所の皮を剥がされていた、見るも無残な変死体。これだけであれば、行方不明になった女子高生が変質者の毒牙にかかって亡くなったものと考えられただろう。
ところが、遺体の発見された山を捜査するにつれ、同様の変死体が次々に発見された。今日の朝に見つかったものを加えれば、合わせて三件。今まで見つからなかったことも不思議だったが、それ以上に、犯人の目星がつけられないことが不可解だった。
この数日、工藤は岡田と共に、周辺住民への聞き込みを行っていた。どんな些細な情報でも、それが犯人逮捕のきっかけに繋がることもある。初美の意見も参考に、不審者の目撃情報を集めようと奔走したのは記憶に新しい。
猟奇殺人を犯すような者であれば、日頃から住民から気味悪がられているような人物かもしれない。そうでなくとも、不審な人物の情報が手に入れば、それで犯人との距離を縮められる。
だが、そんな彼らのことをあざ笑うかのようにして、犯人はいっこうに尻尾を出そうとはしなかった。近隣住民への聞き込みからは不審者や変質者の情報は得られなかったし、近所にそういった嗜好を持っている者がいると言う話も聞かなかった。それどころか、警察署内に残っていた過去のデータからも、ここ最近、不審な人物としてマークされている者の情報は見つからなかった。
まったくもって、不可解極まりない事件である。これだけ多くの遺体が上がっているのだから、犯人の目星くらいつけられても良さそうなものだ。いったい、犯人はどんな人間で、何を目的として殺人を繰り返しているのだろうか。
(まさか……。犯人は人間じゃありませんでした……ってなオチはないだろうな……)
工藤の頭に、ふとそんな考えがよぎる。
女性ばかりを狙った連続猟奇殺人事件。今回の事件が五カ月程前に起こった事件と似通っていることに、工藤はどうしてもそんな考えを抱いてしまうのだ。
今年の六月、あの犬崎紅と知り合うことになった初めての事件。それが、後に岡田や工藤を向こう側の世界の住人と関わらせることとなる、≪八ツ頭事件≫だった。
古の封印を解かれた怪物が盗掘者の肉体を乗っ取り、自らを完全に復活させるために、次々と若い女性を手にかけて心臓を食らった。警察の捜査も虚しく犠牲者は増え続け、最終的には犬崎紅の力によって、怪物を完全に消滅させることで事件はようやく解決した。
警察官として、工藤が初めて己の無力さを知った瞬間である。同時に、この世には自分の理解の範疇を越えた存在がいることが明らかとなり、常識の限界、警察の限界というものを見せつけられた事件でもあった。
「あの、岡田さん……」
「なんだ、工藤。情けねえ声出しやがって」
「いえ、何でもありません」
岡田に睨まれ、工藤は頭を小さくして答えた。
やはり、聞けるはずがない。そもそも岡田は、二番目の遺体が発見された現場で、幽霊や妖怪の犯行に対して否定的な見方をしていた。
岡田とて、向こう側の世界に関してまったく信じていないわけではない。それは工藤も知っている。が、同時に岡田は超の付くほどの現実主義者でもある。自分が見た物は信じるが、それ以外の怪しげな話は決して信じない。そんな岡田に可能性だけで話をしても、まともに取り合ってはくれないだろう。
やはり、自分が考え過ぎているのか。証拠さえ揃っていない時点で人知を越えた存在が犯人だと決めつけるのは、時期尚早ということだろうか。
考えれば考えるほど、堂々巡りの泥沼に陥って行く気がした。呪いだの祟りだのといった話を信じず、あくまで現実的な側面しか知らないで生きていた方が、どれほど楽だったことか。
「お待たせ、お二人さん」
気がつくと、そこには初美が立っていた。検死を終え、急いでこちらに来たのだろう。さすがに手術着のままではないが、初美の身体から微かに消毒薬のような匂いがした。
「おう、初美ちゃんか。毎度毎度、すまねえな」
「気にしなくていいわよ、岡田さん。これも私の生業の一つだから」
「そいつは、こっちだって承知だよ。けどな、こう連日で死体を運びこまれたんじゃ、さすがにまいってるんじゃねえかと思ってな」
「まあね。それで、今日の遺体だけど……検案書を出せるのは、夜になりそうなのよね。その前に、私の見立てを一通り話させてもらっても構わないかしら?」
「俺は別に構わねえが……」
初美の言葉に、岡田が横にいる工藤をちらりと見て呟く。これから昼食という時に、この気弱な刑事に解剖の話などしていいものだろうか。
「おい、工藤。お前、昼飯抜くのと飯食ってから吐くのと、どっちがいい?」
「えっ……。それ、どういう意味ですか?」
「だから、飯の前に初美ちゃんの話を聞くのか、それとも食いながら聞くのか、どっちがいいかってことだよ」
「飯食いながらって……勘弁して下さいよ、岡田さん」
まったく、何ということだろう。よりにもよって、食事をしながら解剖の結果について話をしようなど、正気の沙汰ではない。さすが、二人とも、死体を見た後に平気で焼き肉を食べに行けるだけのタフさを持ち合わせているだけある。
「すいませんけど……食事の前でお願いします」
選択肢は既になかった。これから解剖結果についての話を聞き、その後に昼食を食べることを考えると気が滅入る。が、食事をしながら話を聞かされるよりは数倍マシだ。
「ったく、仕方ねえな。それじゃ、説明をお願いするぜ、初美ちゃん。本当だったら、飯の一つでも奢りながら報告を聞きたかったところなんだが……」
「まあ、工藤君が一緒なら、それは無理ね。ご飯を奢ってもらうのは、また今度っていうことで」
岡田の言葉を初美がさらりと流して言った。いよいよ、初美の口から検死の結果が語られるのだ。その話が決して気持ちの良いものではないとわかっているだけに、工藤の手にはいつの間にか力が入っていた。
「それじゃあ、何から話したものかしら。今回の遺体、気になることがいくつかあったんだけど……」
「順番は、そっちの好きに任せるぜ」
「だったら、まずは遺体の状況からね。遺体は二十代前半と思しき女性のもの。指と耳、それに舌が抜かれていて、内臓のいくつかが損傷していたわ」
「指と耳、それに舌か……。今回、目ん玉は無事だったんだよな?」
「そこが、私も気になった点なんだけどね。でも、今回の遺体から持ち去られていたのは、間違いなく指と耳、それに舌よ。内臓に関しては……損傷が激しすぎて、なんとも言えないわね」
「まあ、昨日や一昨日に亡くなったってわけじゃあねえみたいだからな。しっかし、前は目玉で今度は指と耳。一番新しいやつで、顔の皮……。なんか、節操無く遺体の部品を集めてる感じがするな」
「そうね。この前、二人にはフェティシズムについての話をしたけど……どうやら、私の推理が外れていたのかもしれないわね」
視線を軽く床の方に落としながら、初美は少々残念そうな口調で岡田に言った。
犯人が被害者の身体の一部に何らかのフェティシズムを抱いていたのだとすれば、持ち去る部分もまた共通するはずである。しかし、山中で見つかった遺体は、それぞれが身体のどこかを持ち去られてはいたものの、その部位に一貫性が見いだせなかった。
やはり、三つの遺体は別々の犯人によって殺されたものなのか。それとも、犯人の目的は性的嗜好などではなく、他にあるというのだろうか。
「なあ、初美ちゃん。今回の犯人が、変態野郎じゃないとしてだ。それ以外に、何か気になった点はなかったのか?」
「気になった点、ね……。参考になるかどうかは分からないけど、一応、報告だけはしておくわ」
「勿体なんかつけなくていいぜ。どんな小さな情報だって、こっちとしてはありがたい」
「だったら、話は早いわね。今回の遺体だけど、実は、指や耳を失っている以外に、妙な点があったのよ」
「妙な点だと?」
「ええ。遺体の口内から、極めて高濃度の砒素が発見されたの。口の中だったから、雨風にさらされても残ったんでしょうね」
「なら、死因は毒殺か?」
「いいえ。砒素は、直接の死因とは関係ないわ。だからこそ、私にも訳が分からないんだけど……」
損壊した遺体。持ち去られた身体のパーツ。その上、今度は砒素ときたものだ。なんだか安っぽいサスペンスドラマの要素を、無理やりに繋ぎ合わせたような感じさえする。それも、統一感などまるでなく、酷く歪でちぐはぐなものに思える。
「ちなみに、最初に見つかった女子高生の遺体だけど、実は彼女の身体からも砒素が検出されているの。あの時は、別にそこまで意識しなかったけど……これで、最初の遺体と今回の遺体が、同一犯によるものって可能性も出て来るわね」
「同一犯か……。だが、やっぱり俺には分からんな。若い女ばっかり狙っている変態野郎の仕業かと思ったら、適当に身体の一部を持ってったとしか言いようがねえやり口。おまけに、最後は共通点として、砒素が出て来たってもんだ。いったい、こいつはどういう繋がりなんだ?」
「それを調べるのが、岡田さん達の仕事でしょ。残念だけど、私に協力できるのはここまでよ。ベテラン刑事の名推理、久々に見せてもらおうかしら?」
「勘弁してくれ。刑事コロンボじゃあるまいし、そう簡単に犯人を見つけられりゃあ苦労はしねえよ」
謙遜ではなく、それは岡田の本心だった。正直、今回の事件に関しては、犯人の目星が皆目見当もつかない。それこそ、シャーロック・ホームズでもコロンボ刑事でもいいから、あっと驚くような名推理で光陰のように事件を解決してくれないかとさえ思ってしまう。
とにもかくにも、これ以上の収穫は望めそうにない。そう思った岡田が工藤を連れ、初美の前を後にしようとした時だった。
三人の他に人のいない病院の廊下に、拍手の音が聞こえて来た。思わず音のする方を振り向くと、そこには以前、岡田と工藤の前に現れたカメラマンの男が立っていた。
「いやあ、これはこれは、皆さんお揃いで……」
妙にへらへらとした笑みを浮かべながら、その男は三人にゆっくりと近づいてくる。
榛原直人。第二の遺体が発見された現場に、他の報道陣よりも早く駆けつけて取材を迫った男だ。メガネをかけた細面な顔を見ると、鑑識の男が言っていた≪ハイエナオト≫という名前を否でも思い出す。
「榛原直人か。貴様、どうやってここまで来た……」
「おやおや、私の名前を覚えていただけていたとは。これは光栄ですな、刑事さん」
「とぼけるな。遺体の発見現場だけならいざ知らず、こんな大学病院にまで現れるとはな。貴様の鼻は、本当にハイエナ並みか?」
「そいつは企業秘密ってやつですよ。それよりも……今日はさすがの私も出遅れましてね。現場に直行できなかった分、そちらの監察医の方のお話でも聞かせてもらおうかと思ったんですが……」
榛原が、初美の方を見やる。全身を舐め回すような視線に、初美は一瞬だけ嫌悪感を露わにした表情になって身を引いた。
「てめえ……初美ちゃんのことを、変な目で見てんじゃねえよ。取材とか何とか言って妙なことしやがったら、その場でブタ箱に放り込むぞ!!」
「おお、怖い怖い。しかし……確かに、取材のことを抜きにしても、彼女は美しいですからね。私も被写体として、久々に女性の身体を使ってみたくなってきましたよ」
岡田に怒鳴りつけられても、榛原はまったく意に介していないようだった。そればかりか、首から下げたカメラを構え、初美のことを写そうとする素振りさえ見せる。その、あまりに横暴で人を舐めた態度に、さすがの岡田も堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけるな! この、死体マニアの変態野郎が! いいか……今度、初美ちゃんの前に現れて妙なことほざいてみろ。迷惑防止条例違反で、貴様を逮捕してやるぞ!!」
「そいつはいけませんね。本当は解剖の終わった遺体の写真でも撮らせてもらいたいところでしたが……まあ、今日のところは退散するとしましょう。それに、立ち聞きとはいえ、なかなか面白い話も聞かせてもらえましたからね」
激高する岡田を他所に、榛原はあくまで飄々とした態度のまま去って行った。まったくもって、不愉快な人間だと岡田は思う。態度、言動、そのどれを取っても、あそこまで人を小馬鹿にしている男はそういない。
「ったく、気持ちの悪い野郎だぜ。いったい、何を食ったらあんな人間になれるってんだ?」
榛原の姿が見えなくなったところで、岡田が忌々しそうな顔をしながら吐き捨てた。その隣では、工藤がぼうっとしたままその場に突っ立っている。
「おい、工藤。用が済んだら、俺達も行くぞ。検案書は初美ちゃんに任せて、仕上がった頃に取りにくればいい」
「は、はぁ……」
「なんだ、その気のない返事は。お前だって刑事なんだから、いつまでも変死体如きの話で萎えてるんじゃねえ」
岡田に背中を叩かれたが、それでも工藤は返事をしなかった。いや、しなかったと言うよりは、出来なかったと言った方が正しい。
先ほどの岡田と榛原のやり取りなど、工藤にとっては二の次だった。それよりも、工藤の頭の中では、初美から聞いた解剖結果のことでいっぱいだった。
一見して統一性のない、持ち去られた遺体の一部。そして、二つの遺体から発見された、砒素の存在。あまりに繋がりのなさそうな物が、一つの事件として奇妙に絡み合ってくる。それらの事柄が意味する物は、いったい何なのだろうか。
先ほどまでは忘れていた、向こう側の世界のの住人達の存在が、再び工藤の頭をよぎった。
彼らに人間の常識は通用しない。その思考、行動、全てが人間の常識を越えたところにある存在だからだ。
彼らが今回の事件の犯人であれば、一見して繋がりの見えない事柄にも答えが出る。なぜなら、彼らに人間の常識など通用しないのだから。非常識なことが、彼らの常識。歯車が壊れ、狂っていることが、彼らの関わっている可能性を示唆するもの。
願わくば、今回の事件は人の手によるものだと思いたい。だが、その一方で、何か恐ろしい怪物が闇の向こう側で牙を研いでいることも否定できない。
こうなれば、やるべきことは一つだった。自分の不安を払い、可能性の一つを潰すためにも、今はあの少年に話を聞いた方がいいだろう。
「なあ、工藤。ところで、お前、昼飯はどうする? 俺は、この先にある定食屋で食って行くつもりだが……」
「えっ……!? いや、僕は遠慮しときます。なんか、やっぱり食欲が出なくて……」
「相変わらずだな、お前は。まあ、あまり変に考えるな。お前も慣れれば、死体を見た後に焼き肉だって食えるようになるさ」
「努力します……」
昼食に誘う岡田の言葉を適当に流し、工藤は独り病院を出る。別に腹が減っていないわけではなかったが、今からすることを岡田に知られると、何かと面倒なことになる気がしていた。
病院の外に出た岡田は、ポケットから携帯電話を取り出して開く。時刻を見ると、十二時の半ばを少し過ぎたくらいだ。
この時間ならば、多くの学校は昼休み。電話をしても、授業の妨げにはならないはずである。
電話帳に登録しておいた名前から、お目当ての番号を探しだす工藤。今年の七月に起きた『ジョーカー様事件』の際に使って以来だったが、まだ番号は消していなかった。
何度かの呼び出し音の後、相手はすぐに電話に出た。元気いっぱいとしか形容のしようがない声が、電話の向こうから響いてくる。
「どうも~、亜衣ちゃんで~す! 何の御用でございましょうか!?」
「ああ、久しぶりだね、嶋本さん。ちょっと、折り入って君に頼みたいことがあるんだけど……」
「ほうほう。刑事さんが、この私に直々に頼み事とは……。なかなか意味深ですなぁ……」
「まあ、こっちも少しワケアリでね。君の学校にいる犬崎君。彼に会いたいんだけど……連絡とか、取れるかな?」
「犬崎君か……。ううむ、どうだろう……」
電話の向こう側の声が、少しだけ重たくなった。
犬崎紅が無愛想なことは、工藤も今までの事件で知っている。だが、今頼りにできるのは、嶋本亜衣しかいない。情けない話だが、紅と連絡を取る手段など、工藤とて持ち合わせているわけではないのだ。
「とりあえず、私の方から声をかけてみるよ。それで話ができるようだったら、また電話するね」
「ああ、それで構わない。でも、なるべく早く頼むよ。もし、事件の裏で妙な連中が動いているようだったら、彼の力が必要になるかもしれないからさ」
「なるほど。今回も、心霊事件ってわけですな。これは、なかなか面白いことになってきましたぞ……」
亜衣がにやりと笑っているのが、電話越しにも分かった。正直なところ、まだ心霊事件と決まったわけではないのだが、この際余計なことは言わずに黙っておく。亜衣が話を誇張して伝えないかどうかが心配だったが、今は犬崎紅と話ができればそれでよい。
「それじゃあ、とりあえず頼んだよ。できれば、どこかで待ち合わせて、直々に話を聞かせて欲しいって伝えてくれ」
「了解であります、警部殿! ≪人脈の亜衣ちゃん≫の力、とくとお見せいたしましょう!!」
歯切れのいい声と共に、電話は切れた。自分のことを警部と勘違いしている亜衣に、工藤は思わず苦笑する。
(おいおい……。僕は警部じゃなくて、巡査部長なんだけどな……)
刑事ドラマなどでは、よく若くして警部や警部補の階級に就いている者が登場する。そんなドラマの影響からか、亜衣も自分のことを警部と勘違いしたのだろう。警察組織の仕組みを知らない、女子高生らしいと言えば女子高生らしい間違いが、少々可愛くも思えてくる。
空を見上げると、相変わらず灰色の雲が一面を覆っていた。今にも雨が降り出しそうな天気に顔をしかめながらも、工藤は独り携帯電話を折り畳むと、病院の前を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
天倉癒月が目を覚ました時、そこは保健室のベッドの上だった。白い天井に備え付けられた蛍光灯が、こちらを静かに照らしている。
「あら、気がついたのね」
見ると、そこには保険の先生の姿があった。まだ若いが、それ故に女子の悩み相談にも気軽に応じてくれる、人気の高い女性の先生だ。
「あの……。私……」
「まだ、無理しちゃだめよ。あなた、廊下で急に倒れて、ここまで運び込まれたのよ」
「そうだったんですか……」
「ええ。たぶん、貧血だと思うけど……最近、無茶なダイエットとかしてないかしら?」
「それは大丈夫です。今朝も、ちゃんとご飯は食べましたし……」
話をしている内に、だんだんと記憶が戻って来た。そういえば、三限の美術の時間、美術室に向かう途中から記憶がない。恐らく、そこで貧血を起こし、倒れてしまったのだろう。誰だか知らないが、ここまで運んで来てくれた人には感謝したい。
「天倉さん、最近、身体に負担をかけるようなことしなかった? それとも、夜更かしが過ぎるなんてことはないかしら?」
「それはないです。ただ……」
ここ最近になって見るようになった、あの悪夢のことを思い出した。こんな馬鹿馬鹿しい話を、学校の保険の先生にしてよいものか。一瞬、そう躊躇ったものの、変に隠し事をするのも嫌だった。
「私、最近、変な夢を見るんです。それが原因なのかは分かりませんけど……なんだか、いくら寝ても寝た気がしなくて……」
「変な夢ねえ……。いったい、どんな夢なのかしら?」
「私が、夢の中で人を殺すんです。その、殺した時の感じが、なんだかとってもリアルで……。朝起きても気持ち悪くて、すっきりしないんです……」
「それは辛かったわね。夢であっても、自分が人を殺すなんて……私だって、想像したくもないわ」
馬鹿にされるかと思っていたが、その言葉を聞いて癒月はほっとした。やはり、この先生は生徒のことを第一に考えてくれる。どんな下らない話であれ、些細な悩みであれ、真剣に聞いてくれるのは嬉しい限りだ。
「ねえ、天倉さん。私じゃ頼りないかもしれないけれど、何か悩みがあったら、きちんと話さないと駄目よ。人間、小さなストレスが積み重なると、思ってもいないような嫌な夢を見るものなんだから」
「そうですか……。でも、今のところは大丈夫です」
「わかったわ。それじゃあ、先生はちょっと用があって留守にするけど……直ぐに戻って来るから、勝手に部屋から出たら駄目よ。しばらくは、安静にしていなさい」
「わかりました。もう少しだけ、寝させてもらいます」
「それがいいわ。夢のことなんか気にしないで、たまにはゆっくり休みなさい」
再び枕に頭を乗せた癒月の胸元へ、保険の先生が布団をかけてくれた。そして、癒月の顔を覗きこむ様にして微笑むと、そのまま部屋を出て行った。
誰もいない保健室で、癒月はぼんやりと考える。
自分はやはり、疲れているのだろうか。それこそ、何かストレスになるようなことがあって、あの奇妙な夢を見るようになったのだろうか。
色々と考えてみたが、ストレスの原因になりそうな物は思い浮かばなかった。ここ最近、友人との関係も悪くはなかったし、今月の頭にあった試験の勉強も決して苦になるようなものではなかった。文化祭も普通に楽しめたし、何よりも、自分があの妙な夢を見始めたのは、もっと以前からのことだ。
最初の内は、それこそ五日に一辺くらいの割合だった。しかし、九月の終わりに入った辺りで夢を見る回数も増え、夢の中で殺す相手も一人から二人に増えた。こと十月に入ってからは、連日のように夢を見る。殺す相手も三人に増え、その殺し方も様々だった。
(そう言えば、最初に夢を見たのって、いつ頃からだったんだろう……)
曖昧になっている記憶の糸を辿るようにして、癒月は自分が初めて夢を見た日を思い出す。あれは、確か八月の終わり頃のことだったか。その日は嫌な夢を見たという程度で済ませていたが、思えば、あれが全ての始まりだったのかもしれない。
(八月の終わりか……。もう、二カ月くらい前の話だな……)
そこまで思い出した時、癒月の頭の中に、今朝のニュースで見たアナウンサーの声が響いてきた。
≪遺体で発見されたのは、同県内の短大に通う学生の安達理恵さん。警察の調べによりますと、理恵さんは二カ月程前から行方不明になっており、両親から捜索願が出されていました≫
二カ月。自分が夢を見るようになった時と、女性が殺されたと思しき時の奇妙な一致。なんのことはない、偶然の産物。普段であれば、そう片付けてしまったことだろう。
だが、今日に限っては、そのように考えることの方が無理だった。
あの日、自分が初めて見た人殺しの夢。その夢こそ、今朝に自分が見た夢と、まったく同じ内容の夢だったことを思い出したのだ。そればかりでなく、ニュースに映し出された短大生の顔。あれは間違いなく、自分が夢で殺した相手の物だった。
二カ月前に殺された短大生と、二カ月前に見始めた奇妙な夢。そして、その夢で自分が殺していた女性の顔が、殺された短大生にそっくりであるという事実。
何がどうなっているのか、癒月にはまったくわからなかった。自分がいったいどうなって、あの夢はいったい何を意味しているのか。
二カ月前。全ての謎を解く鍵は、そこにある。夏休みも終わりになろうかという時に、いったい自分の身に何が起こったのか。
だが、思いだそうとすればするほどに、癒月の記憶は霧がかかったようにぼやけた物になっていった。それでも強引に思いだそうとすると、今度は激しい頭痛が癒月を襲った。
「痛っ……!!」
頭を左右から締めつけられるような痛みに、思わず両手を出して頭を押さえる癒月。頭の内側から頭蓋骨を叩かれているような感じがして、癒月はそのまま枕に顔を埋めて身体を震わせた。
しばらくすると、頭の痛みは徐々に治まってきた。頭痛は一時的なものだったらしく、今しがた苦しんでいたのが嘘のようだ。
枕に埋めた顔を上げ、癒月はゆっくりと仰向けになった。自分は何か、大事なことを忘れているのではないか。思い出さねばならないことを、思いださないようにしているだけではないのか。
頭痛の正体も分からないまま、癒月がそんなことを考えた時だった。
自分の右手に妙な違和感を覚え、癒月は布団から両手を出した。服の袖をまくってみると、そこには大きな痣ができていた。軽く指で押してみると、思った以上の痛みが走って軽く悲鳴を上げた。
「どうしたんだろう、この痣……」
貧血で倒れた時、何かにぶつけたのだろうか。それにしても、この痣は少し大きすぎる。何か硬く大きな物にでもぶつけなければ、こんな痣はできないはずなのだが。
閉ざされた記憶と奇妙な痣。そして、短大生の死と自分の夢に共通する、二カ月という期間。
全ては単なる偶然なのかもしれない。保険の先生が言っていたように、自分は疲れているだけなのかもしれない。そう考えようとはしてみたものの、癒月は自分の周りを覆う奇妙な影の存在に、言い様のない不安を抱いていた。




