第二十三話 世紀末を越えて
あの夜から、二ヶ月が過ぎた。
世間を騒がせた「人類滅亡」の予言は、結局、何事もなく過ぎ去っていた。テレビでは、代わりに「新世紀」という言葉が、連日賑やかに飛び交うようになっていた。
神門通りは、年の瀬らしい賑わいを見せていた。利休の茶席「一服百円」は、今ではすっかり神門通りの名物として定着し、正月飾りを買いに来た客が、ついでに一服していく姿がよく見られるようになっていた。
「随分と、板についてきましたね」
航が声をかけると、茶を点てていた利休は、静かに目を細めた。
「時が経てば、人も、居場所に馴染むものじゃ。……そなたも、少しは肩の力が抜けたようじゃな」
「そうかもしれません」
航は、苦笑しながら答えた。あの騒がしい日々から、少しずつ日常が戻りつつあった。もっとも、六人分の食費がかからなくなった分、財布の心配は減ったが、その分、座敷の静けさには、いまだに時々、寂しさを覚えることがあった。
その日、航は、龍馬との約束を、ようやく果たすことにした。
「出雲乃八重垣堂」を訪ね、当時世話になった店主に、一つの相談を持ちかけたのだ。
「お客様名簿、というものがあれば、そこに名前を一つ、加えていただけないかと思いまして」
「名前を?」
店主は、少し不思議そうな顔をしたが、航の頼みを、快く聞き入れてくれた。
航が書き記したのは、こんな一文だった。
「――坂本龍馬、参る」
「面白い書き方をしますね」
店主が笑いながら言うと、航も、つられて笑った。
「ちょっとした、洒落みたいなものです」
もちろん、それが本物の坂本龍馬の署名だと信じる者は、誰もいないだろう。だが、それでいいと、航は思っていた。約束は、こういう形でも、果たせるはずだった。
同じように、航は、神門通りの小さな書店にも足を運んだ。かつて一葉が働いていた店だ。
「あの、店番をしていた女性、お元気ですか」
航が尋ねると、店主は、少し寂しそうに笑った。
「ああ、彼女ね。急に田舎に帰ることになって……もう会えないのが残念だよ。真面目で、本当に良い働き手だったから」
航は、何気ない調子で、本棚の一角を眺めた。そこには、樋口一葉の文庫本が、静かに並んでいた。
「――一葉さん。あなたの本、ちゃんとここに並んでますよ」
航は、誰にも聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。
その夜、航が空き家に戻ると、利休が、珍しく縁側で、何かを眺めていた。
「利休さん、何を見てるんですか」
「これじゃ」
利休が差し出したのは、一枚の写真だった。あの祭りの日、屋台の前で撮った、六人と航の集合写真。誰かが持っていたカメラで撮ってもらった、たった一枚の記念写真だった。
「良い顔をしておるな、皆」
利休の言葉に、航も、写真を覗き込んだ。
笑う龍馬。仏頂面ながらも満更でもなさそうな義経。悪戯っぽく微笑む紫式部。控えめに、それでも確かに笑っている一葉。涼しい顔をしながらも、目元だけ少し緩んでいる卑弥呼。
そして、その真ん中で、少し困ったような顔をしている、航自身。
「……本当に、良い顔してますね」
航は、写真を見つめながら、静かに呟いた。
窓の外では、年の瀬の澄んだ夜空に、静かに星が瞬いていた。
世紀末は、何事もなく過ぎ去ろうとしている。
だが、この座敷に刻まれた、あの夏から秋にかけての騒がしい日々だけは、航の中で、色褪せることなく、これからも生き続けるのだろう。




