第十九話 光の後に
光が収まったとき、境内には、静寂だけが残っていた。
航は、恐る恐る腕を下ろし、目を開けた。
素鵞社の前、地面にへたり込んでいたのは、蔵本だった。手には、もう何も握られていない。先ほどまで漂っていた青白い光も、跡形もなく消え失せている。
「……欠片が」
卑弥呼が、自らの鏡を見下ろし、呟いた。鏡は、いつの間にか完全な、欠けのない円を取り戻していた。
「還った、ということか」
利休が、静かに問う。卑弥呼は、鏡を陽にかざしながら、頷いた。
「うむ。これで、還る術は、本来の形に戻ったはずじゃ」
地面にへたり込んだままの蔵本が、掠れた声で笑った。
「馬鹿な……私が、四十年かけて積み上げてきた力が……」
その声には、もう先ほどまでの余裕は、欠片も残っていなかった。義経が、油断なく蔵本に歩み寄る。
「観念せよ。もう、その力は使えぬはずじゃ」
蔵本は、うなだれたまま、力なく笑った。
「……ああ、その通りだ。もう、何も残っていない」
しばしの沈黙の後、蔵本は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私は、ただ……あの貧しい時代に、戻りたくなかっただけだ。この力があれば、誰にも見下されず、誰にも奪われずに生きられると、そう思っていた」
「その代償に、多くの“客人”から、還る道を奪ったのですね」
一葉が、静かに、しかし厳しい声で言った。蔵本は、否定しなかった。
「ああ。すまなかったとは、思っている。だが……もう、どうにもならんことだ」
宮下が、静かに歩み出た。
「蔵本さん」
その呼びかけに、蔵本が、初めて顔を上げた。
「あなたが奪った“時”は、もう返らないかもしれません。ですが――」
宮下は、目に涙を滲ませながら、続けた。
「あなた自身は、還ることができます。四十年前の、あなた自身の時代に」
「私が……還れる、だと」
蔵本の声が、震えた。卑弥呼が、鏡を静かに掲げた。
「そなたも、元は客人。この鏡があれば、還る道を開くことは、できよう」
「なぜだ……なぜ、私を助ける。私は、貴様たちから、鏡を奪おうとした男だぞ」
卑弥呼は、静かに、しかしはっきりと答えた。
「そなたを許すわけではない。ただ、還るべき者を、還らせぬままにしておくのは、わたしの流儀に合わぬ。それだけのことじゃ」
蔵本は、しばらく、言葉を失ったまま、地面に視線を落としていた。
やがて、掠れた声で、ぽつりと呟いた。
「……そうか。それなら、頼む」
卑弥呼が鏡を掲げると、境内に、再び淡い光が満ちた。今度の光は、先ほどまでの荒々しいものとは違い、どこか穏やかで、静かなものだった。
光の中で、蔵本の輪郭が、少しずつ薄れていく。
「四十年前の私に、伝えられるものなら……」
最後に、蔵本は、誰にともなく、そう呟いた。
「もっと、まっすぐに、生きろと」
その言葉を最後に、蔵本の姿は、光の中に溶けるように消えていった。
静まり返った境内に、十二人と航、そして宮下だけが残された。
「……終わった、のか」
龍馬が、誰にともなく呟く。
「終わった、ということでしょう」
一葉が、静かに応じた。
卑弥呼は、完全な形に戻った鏡を、じっと見つめていた。その表情には、安堵と、そして――かすかな寂しさが、入り混じっているように見えた。
夜明け前の空が、少しずつ、白み始めていた。
神在月が終わり、神々が、それぞれの土地へと帰っていく、その静かな刻限が近づいていた。




