第十二話 別所の家
老神職の紹介で訪ねたのは、上田から少し離れた、別所温泉の外れに建つ、古い一軒家だった。かつて「信州の鎌倉」と呼ばれたこの土地には、今も苔むした古寺や、湯けむりの立つ共同浴場が点在している。
「――ようこそ、いらっしゃいました。お話は伺っております」
迎え入れてくれたのは、七十がらみの、小柄で穏やかな老婦人だった。名は鏡守ふさと名乗った。
「鏡守、というお名前は」一葉が尋ねると、ふさは静かに微笑んだ。
「先祖代々、そう名乗っております。理由は、これからお話しすることに関わっています」
通された座敷の床の間には、古びた木箱が一つ、丁重に飾られていた。ふさは膝をつき、その箱を恭しく開けた。中には、半分に割れた青銅の欠片と、色あせた一冊の日記のようなものが収められていた。
「これは……」
卑弥呼が、自分の懐の鏡と、箱の中の欠片を見比べ、息を呑んだ。よく見ると、欠片の文様は、卑弥呼の鏡と、どこか通じるものがあった。
「私の先祖は、三百年前――元禄の頃、この地に現れた“客人”の一人だったと伝わっています」
ふさは、静かに語り始めた。
「その方は、還る術を失い、この地に留まり、やがて家を興しました。子孫である私どもには、口伝えでこう伝わっております。“鏡は、還るための鍵であった。だが、その鍵は、信頼していた者の手によって奪われた”、と」
「信頼していた者、というのは」
武田信玄が、重い声で問う。ふさは、日記らしき帳面をそっと開いた。
「先祖が書き残した、数少ない記録です。曰く――当時、客人たちの世話をしていた社の者の中に、客人の持つ宝物に目をつけた者がいたと。還す儀を秘密裏に妨げ、鏡を奪い、客人たちを、時を超えた“珍しい客”として、いわば見世物のように扱おうとした、と」
座敷に、怒りとも驚きともつかない、重い沈黙が広がった。
「そんな……」
紫式部が、思わず声を漏らす。
「己の欲得のために、還る術を奪うなど」
「先祖は、幸いにも、鏡の欠片だけを取り戻し、逃げ延びることができたそうです。ですが、鏡そのものは戻らず、還る術も失われたまま、この地で生涯を終えました」
ふさは、日記の最後のページを、そっと指し示した。
「先祖が最後に書き残した言葉が、これです」
一葉が身を乗り出し、色あせた文字を読み上げた。
「“もし後の世に、同じ目に遭う客人あらば、伝えよ。狙う者は、外にあらず、内にあり、と”」
――内にあり。
その一言に、宮下と老神職の顔が、はっきりと強張った。
「内にある、というのは……」
龍馬が、低く唸る。
「つまり、社の内側に、今も同じような者が潜んでおるかもしれん、ということじゃな」
誰も、それを否定できなかった。
ふさは、日記を静かに閉じ、卑弥呼に向き直った。
「もしよろしければ、この欠片を、お持ちください。あなた様の鏡の、対になるものかもしれません」
卑弥呼は、震える手でその欠片を受け取り、自らの鏡と重ねてみた。
欠けた部分が、驚くほど正確に、ぴたりと合わさった。
その瞬間、鏡が、かすかに、青白い光を帯びたように見えた。
「……これは」
座敷にいた全員が、その光に目を奪われた。
三百年の時を超えて、鍵は少しだけ、その姿を取り戻した。
だが同時に、航たちの前には、もっと重く、もっと差し迫った問いが突きつけられていた。
――自分たちの周りにも、同じように「内にいる者」が、潜んでいるのではないか。
宮下の顔を、航は思わず見た。宮下は、何かを察したように、静かに目を伏せた。




