18話 胸が苦しい理由
『異世界を渡る方法についてだが――』
緊張して、手紙を持つ手に力が入る。
『結論から言うと、今の時代に異世界に渡る方法はない』
一瞬、息をするのを忘れてしまった。
行く方法はない。
リュシアンに会う方法はない。
「……ないんだ」
そうだよね。
あったら、とっくにお互いの世界の人が自由に行き交っているだろうし。
『――昔は大魔法使いが存在し、彼らの魔法で異世界に行くことも可能だった。だが、今、大魔法使いはどの国にもいない。そのため、異世界に渡ることはできない』
静かな部屋に、時計の音がカチカチと響く。
『この氷冷蔵庫がなぜ異世界に繋がったのかは不明だが、この氷冷蔵庫は少なくとも曽祖父の時代からあったものだ。大魔法使いがいた時代にかけられた魔法が、今も残っているのだろう』
まるで古代の遺物だ。
私の祖母の冷蔵庫は、どんなに古くても数十年なのに。
『――異世界に渡る方法がないのは残念だ。だが、ミオが方法を尋ねてくれたということは、私に会いたいと思ってくれたということだろう。その気持ちが嬉しい。私も、方法があるのなら、ミオに直接会いたかった』
肖像画に顔を向ける。
気難しそうな表情でリュシアンがこちらを見ている。
「……そっか、やっぱりないんだね」
心のどこかで、方法はあるんじゃないかと期待していた。
だって、食べ物や手紙は異世界を行き来することができるのだから。
例えば、すごく時間はかかるけれど、異世界に渡る方法がある、とか。
法に触れるような方法なら可能だ、とか。
そんな言葉を少し期待していたのに。
でも、やっぱり方法なんてなかった。
つい先ほどまで、方法がなかったら、すっぱり諦められる、とか思ってたのに。
体育座りをして、膝に顔をうずめた。
「……そんなに早く気持ち切り替えられないよ」
♢
次の日の夜。
いつも通り便箋に文字を綴っていく。
大人の対応をしなくては。
やっぱり方法はなかったんですね。残念ですけど、仕方ないですね。
そう書かなくては。
でも、頭をよぎったのは別のことだった。
『――リュシアンには、お付き合いしている人はいますか?』
そう書いて送ってしまった。
なんで、そんなこと思ったのか。
直接会えないと分かった後に、なぜか頭をよぎるのは。
思い人はいるのか。
恋人はいるのだろうか。
まさか結婚しているのだろうか。
そんなことばかり。
――会えないなら、せめて知りたい。
なぜか、そう思ってしまった。
でも、こういうことを書いた翌朝は、たいてい後悔する。
「あぁー、なんであんなこと書いちゃったんだろう」
寝起き早々、頭を抱えた。
リュシアンに嫌われたかも。
異世界の、会ったこともない女から、恋人はいるのか、と聞かれたら、きっと面倒くさいと感じるだろう。
でも、どんなに後悔しても、冷蔵庫を開けると、すでに食べ物も手紙も消えていて。
「はぁ~」
大きなため息を吐いて、会社に行く準備をすることにした。
仕事中もリュシアンのことで頭がいっぱいで、仕事に集中できない。
なんで私はあんな馬鹿な質問を。
いやいや。
リュシアンに恋人がいたら、その人だっていい気はしないだろうし。
私にとって貴重な友達だから。
だから、聞いたんだよ。
脳内でそう納得させた。
「神崎さん!」
「えっ」
背後から声がした。
振り返ると、いつも昼食を一緒に食べている同僚がニコニコしながら立っていた。
「今日の飲み会、神崎さんも出るんでしょ! 参加するの久しぶりじゃない?」
「え、飲み会?」
慌てて卓上カレンダーに目を向ける。
たしかに自分の字で「飲み会」と書かれていた。
すっかり忘れていた。
「神崎さんと飲めるの楽しみ! じゃあ、またね」
楽しそうに去って行く同僚を見つめる。
いまさら不参加なんて言えない。
でも今日はリュシアンからの手紙が届く番だ。
0時になったら、すぐに読みたいのに。
飲み会は少し早めに切り上げさせてもらおう。
そう思っていたのだが。
「いえーい! 神崎さん、もっと飲みなよー、飲むよね?」
酔っ払いに絡まれた。
普段は明るくて可愛らしい印象の同僚が、飲むと別人になることを知った。
「神崎さん、肌綺麗だね。羨ましい。キスしていい?」
「近い、近い、近い」
同僚の顔が、目の前まで迫っている。
近くにいた先輩が、豹変した酔っ払いを引きはがしてくれた。
「こら、酔っ払い娘。神崎さん、大丈夫?」
「はは、大丈夫ですけど……遅くなっちゃうので、そろそろ帰ろうと思います」
お金を払って、店を出る。
今帰れば、0時ピッタリくらいに着く。
リュシアンの手紙が届く時間には、ちょうど間に合う。
「……疲れた」
仕事もして飲み会にも参加して、疲労困憊だ。
なのに、さらに無情なことに……
「運転見合わせ?」
電車が車両故障で運転を見合わせていた。
いつ復旧するかも未定とのこと。
家に帰る方法は三つ。
タクシーを使う。
電車が復旧するのを待つ。
歩いて帰る。
だが、タクシー乗り場はすでに長蛇の列。
そうなると。
「いつ復旧するか分からないのに待ってられないよ」
歩いて帰ろう。
別に今日は自分が手紙を書く番ではない。
でも、早くリュシアンの手紙を読みたい。
ぽつりと、頬に何かが当たった。
「うわ、雨降ってきた」
最悪なことは重なるものだ。
幸い、折りたたみ傘を持っていたので、すぐに取り出した。
傘をさして、深夜の街を一人で歩く。
明日は土曜だ。
会社も休み。
だから、別に急いで帰る必要はない。
なのに、早く帰りたくて仕方がない。
三月の夜は寒い。
吐く息が白くなっては消えていく。
ひたすら歩いているのに、まだアパートには着かない。
腕時計を見ると、すでに0時を過ぎていた。
早く帰りたい。
もうリュシアンから返事が届いているはず。
『――リュシアンはお付き合いしている人はいますか?』
リュシアンは、私の質問に何と答えたんだろう。
恋人はいるのだろうか。
いや、彼は王族だ。
二四歳なら、恋人どころか、婚約者がいてもおかしくない。
……婚約者。
きっと、身分の高い令嬢で。
綺麗で教養があって。
そして、リュシアンの隣で優しく微笑んでいるような素敵な女性――
そこまで考えて、気づいた。
ふと、足が止まる。
――胸が苦しい。
まるで、胸の奥をぎゅっと握りしめられているよう。
別に、ただの交流相手がどんな女性と付き合っていようが、婚約者がいようが、いいじゃないか。
気にすることじゃないのに。
でも、考え出すと、胸が苦しくて。
気持ちが沈む。
なんで、こんなに苦しいんだろう。
昔から、人の気持ちを察するのも、自分の気持ちに気づくのも苦手だった。
だけど、さすがにこれは分かる。
分かってしまった。
この苦しみの理由は――
「……そっか、そういうことだったんだ」
なんで、リュシアンの手紙を早く読みたくて、こんなに濡れながら急いで帰っているのか。
なんで、彼の恋人を想像しただけで胸が苦しくなるのか。
それは――
「気づいたところで、叶うわけないのに……馬鹿みたいだ」
空を見上げる。
冷たい雨が、頬を伝っていく。
今は、その冷たさが心地よかった。




