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馬車に乗り込んで出発を指示すると同時に、俺は従者に飲み物を指示した。
「…キツい」
「お疲れ様です」
果実水を一気に飲み干して、俺が話し合いをしていた間の使用人たちの様子について、報告をもらう。常に慌ただしく働いていたようで、変装して話し掛けることもままならなかったという。その数は男爵家というには明らかに少なく、片手で足りる程で、使用人を管理する帳面には財政の圧迫に応じて解雇した記録がしっかりと残っていた。従者の見立てでは、恐らくそれを付けたのは男爵ではなく現在も残っている家礼だろうとのこと。裕福だった筈の男爵家は水面下で壊れ続け、使用人達は皆1人では到底賄えない量の仕事を回さなければならない環境に突き落とされている。過酷な労働に不満を言う暇もないようだ。
「流石の俺でもこんな労働はさせないが…?」
「そうですね。フィルマ様が指示をなさってこんな労働量になることはありませんね」
「…悪かったよ」
つまり、俺が勝手に抜け出したり俺が勝手に影の仕事について行ったりした時は似たような労働量になるということだ。唇を尖らせて子供のように拗ねれば、くすくすと笑って「冗談です」と返される。
「我々は休みも定期的に頂いておりますし、急病や急用で休みを頂くことに抵抗もございません。それはひとえに、1人1人の肩にかかる負担をフィルマ様が最小限に抑えて下さっているお陰です」
「…なら、いいが」
追加で渡された果実水を、今度はゆっくり味わうように飲む。軽口が叩けるのも、素で話せるのも楽なものだ。腹の探り合いや予め決めた役を演じきるために嘘を吐くのは、必要だと分かっていても苦しいものがある。
「…はぁ」
寝不足のせいもあるのか、酷く弱気になってしまう。リリィに触れた手が気持ち悪い。心にもない甘い言葉を吐いた口を濯ぎたい。移動時間に見ようと用意していた書類を捲る手も止まって、ぼぅっと窓の外を眺めていた。曇り空から雨粒が落ちて来て、静かに地面に弾け始める。
「…昨日は、本当に楽しそうでしたね」
「…? リザベルか?」
「いえ、リザベル様もきっとそうだったのでしょうが、私の目にはフィルマ様が心から楽しんでいらっしゃるように見えました」
「…俺が?」
目を丸くして聞き返すと、従者は目を細め懐かしむようにして笑う。
「えぇ。フィルマ様は昔からやんちゃなお方でしたが、いつの間にか落ち着いてしまわれて。時々部屋を抜け出したりと我々を驚かすことはありますが、それでも昔ほど無茶も無謀もなさらなくなりました」
「…それは、まぁ。成長したということだろう」
「それも御座います。けれど、私の目にはどうしても、次期王という責任から落ち着いた言動を心掛けているように見えたのですよ。本来の自分を押し殺し、周りの期待の通りに動こうと努力する姿に」
従者の指摘に、俺は真っ先にリザベルのことを思い出した。次期国王候補の婚約者として務め、家族からも使用人からも、俺からも民からも期待され与えられた役割を演じようと努力したリザベル。その結果自分というものを失い、自分を消し去る覚悟すら決めた少女。
程度は違えど、俺も同じだというのか。
考えたことのない視点に、俺は目を丸く見開いて愕然とした。そんな俺の反応を予想していたのか、従者はくすりと笑って続きを話し出した。
「けれど、ここ1週間の貴方は違います。勿論次期国王候補として完璧に振る舞ってはおりますが、リザベル様のこととなると本来の貴方様に戻っているように思えます。がむしゃらで、楽しいことと楽しませることが大好きな、他者を心から思いやり他者の為に怒れる、フィルマ様に」
そんなことを言われたら、自分のことを許してしまいそうになる。リザベルにあれだけの苦労を強いて来た、その一端を担っていた自分の努力を認めてしまいたくなる。心臓がぎゅっと締め付けられて、息がしにくくなった。
「私は、王家ではなくフィルマ様に仕えております。どうか、明日のパーティを終えても、私を貴方の傍に」
星が降るような、優しい声がする。全てを委ねたくなるほどの安心感と脱力感に、俺は下を向いた。今顔を見られてはいけないと思った。従者は動く馬車の中で器用に俺の隣に来ると、「失礼します」と言って俺を包み込み、背を撫でた。まるで幼子にするような行為は、俺がリザベルに与えたものだ。
俺も随分昔から、両親に与えられなくなったものだ。
「…っあ、ぁ」
了承なのか、思わず漏れた声なのか分からない。不敬だなんて言える訳がない。それは間違いなく今、俺が欲しいものだと気付いてしまったからだ。涙に震えた声が小さな馬車の中で溶け、涙腺はそれをきっかけに崩壊した。
しとしとと雨が降り注ぐ音を聞きながら、それに掻き消される程の小さな声で、俺は幼き日に抑え込んだ小さな自分を抱き締めた。




