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95:追憶

ーーーー


 ──羨望、憧憬。

 闇の中から見える光を、だが特別美しいと感じたことはなかった。


「君、名前はなんというんだね?」

「……知らねえ」

「親は?」

「分からねえ、何も」


 いつだって満たされない思いは常に胸の内で膨らんでいた。

 しかしこの感情が光の下にいる者たちを羨んだものではないこともまた、自分自身強く理解していた。

 これはそう……空腹感に近い。

 食欲では無い何か、ただそれのみを求める渇いた欲求だ。 


「そうか。ところでどうだね。調子は?」


 薄暗い部屋の中、尋ねてきたのは頬に傷のある男。

 白衣のポケットに手を突っ込んだままの姿勢で声色は穏やか、しかしその肉食獣のようにギラついた瞳はこちらを捉えて離さない。


「私が見つけた時、君はもう助からない状態だった。君は運が良い。そして私の腕も」


 そう言って男はククっと笑い声をあげた。

 そして白衣のポケットから腕を引き抜くと、台の上で上半身を起こして座っているこちらに向かって指を差した。


「うまく馴染んでくれて良かった。移植した”それ”は本来、人間の体に適合するようなものじゃないんだが……奇跡としか言いようがないな。素晴らしい」


 男の恍惚とした表情。

 愉快そうに笑いながらそのままゆっくりと近付いてきたかと思えば、壊れ物でも扱うかのような仕草でこちらの胸の辺りを優しくなぞり始める。

 

「本当に、君の肉体は奇跡の産物だ。なぜ君の肉体はここまで特別なんだ。君はいったいどこで生まれて……」

「おい……触んなオッサン。気持ち悪い」

「ああ。そういえば帰る場所も分からないんだったな。なるほど」


 気持ち悪がられたことなど微塵も気にしていない様子で男は少しだけ考える素振りを見せると、こちらの肩に手をのせ柔らかな微笑みを浮かべた。


「ならば私のことを慕えば良い。君の親はたった今からこの私だ」

「あぁ?」

「ここに住めばいいさ。なに、少し暗いが慣れれば快適だぞこの場所は」

「……何を言って」

「照れるな少年。ハッハッハ」

「ちげえよ。うっとうしい」


 勝手に話を進めた挙げ句、こちらに抱きついてきた頬に傷のある男に対して心の底からうんざりし嫌悪する。

 だが、何故か無理に振り払う気にはなれなかった。


「どうせ行くアテも無いんだろう。私とともに居た方が面白いものが見られるぞ」

「……面白い?」

「そうとも。世界は変わる。私が変える! その極上の光景を間近で見せてやろう。これほど面白いものがこの世に存在するのかね?」

「おも、しろい……」

 

 面白い。

 他人の口から初めて聞いたその言葉が、妙に頭の中にこびりついた。

 胸に響くのは未知の喜びを知らせる福音か。

 なにかがハマった気がした。


「よし決定だ。君のような少年をこのまま外に放り出すなんて私も忍びないと思っていたのだよ」


 目の前の男の口から出る言葉はそのどれもが心寒うらざむい。

 一ミリたりとて信用できるものではないだろう。

 しかしもう何も言い返さないでいいと感じていた。

 何故なのか。その理由は──、


「ああ、そうそう」


 思い出したかのように男が白衣のポケットに再び手を突っ込んだ。

 すると次の瞬間、耐え難い苦しみが我が身を襲う。

 胸の奥を丸ごと掴まれたような強烈な痛みに、思わずうめき声をあげた。


「それを移植した以上、君はどの道もう私から逃げられないがね」

 

 男の口元は笑っていたが、その目は一切笑っていなかった。

 狂気。

 目の前に立つ白衣の男は、つまるところそういう存在なのだろう。

 しかしそんなことはどうでもよかった。


 まだ答えははっきりと出ていない。

 たがなんとなくこのままの方が”何かがどうにかなりそう”な予感がした。

 この男の近くにいれば、自分自身すらよく分からない本当の願いとやらも知ることができるのかもしれないと。


「ではさっそく親として君に名前をつけてあげよう」

「……けっ、好きにしろよ」

「そうだな……それでは私の好きな本の物語の主人公、野性味あふれる勇敢な弓使いにちなんだ名を君に──」



 名は縛り。

 縛りは枷であり、不自由であり、また存在の証明でもある。

 

 自身に関する一切の記憶が無い少年はずっと答えを探している。

 己ですら分からない存在理由を探す旅。

 男との奇妙な出会いを遂げて新しく得た名前はそんな彼に役割を与えた。

 

「ま、これはこれで……面白い、か」


 目に映る世界の在り様は一変した。

 未知に触れる喜びを認め、己が納得できる幸福を求め続けること。

 それこそが自身の存在を証明するために少年が自分に課した制約であった。

 

 ──いつからだろうか。

 闇の中から見える光を美しいと感じるようになったのは。

 

 そして時を経て彼は出会う。

 今まで見てきた中でも一番に輝く眩しい光。

 無垢で、汚れ一つないその光は、彼の心を強く震わせた。

 

「へぇ……真っ白で眩しいねェ」


 焦がれた。

 そして求めた。

 こちら側に引きずり込んでやろう。

 彼は思った。


 光を穢すことに悦びを見いだしていた彼の企みは見事に遂げられ、あれだけ眩しかった光は見る影もなく輝きを失わせた。

 だが彼は知らなかった。

 闇の中でも輝く光があることを。


 闇を喰らう存在。

 自らを滅ぼす力を前にして、今、何を思う。

 

ーーーー


 

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