第四話 窓辺の月光と盗まれた心
夜風がカーテンを大きく揺らし、冷たい月光が床に長い影を落とした。
「……ミスト!?」
レイアは息を呑み、思わず机の上の書類を胸元に抱え込んだ。
王立捜査局の最上層、厳重な警備を誇る本部の窓枠に、青年は平然と腰掛けている。使い古した布で顔の下半身を覆い、片膝を立てたその身のこなしには、一切の重力が感じられない。
「こんなところに侵入するなんて……見つかったら射殺されるわ!」
「大丈夫だよ。警備の巡回ルートなら、さっき頭の中に叩き込んだからね」
ミストは軽やかに床へ飛び降りると、足音ひとつ立てずにレイアへ歩み寄った。
いつもの呑気な雰囲気を装ってはいるが、その全身からは、夜の冷気のようなピンと張り詰めた気配が漂っている。
レイアは身を構え、彼の喉元を見つめた。
……やはり、煙が出ない。
潜入という犯罪行為に手を染めているというのに、恐怖も、焦りも、悪意すら立ち上っていない。恐ろしいほどの透明さ。この男の「本心」は、一体どこにあるのだろうか。
「何をしに来たの? 私はもう、貧民街の鑑定士じゃないわ。捜査局の人間なのよ」
「知ってるよ。『特別鑑定室長』様だろ?」
ミストはくすりと笑い、レイアの執務机の上にポンと何かを置いた。
それは、紙に包まれた焼きたての小さな焼き菓子だった。香ばしいバターと砂糖の甘い匂いが、冷え切った室内を満たす。
「昼飯、食べてないで詰めてたんだろ。街の小さなパン屋のやつさ。君、ここのサブレが好きだったろ」
「……」
差し出された温かい包みを見つめ、レイアの胸の奥がキュッと痛んだ。
彼はいつもそうだ。レイアが自分でも気づかないような小さな好みを覚えていて、何気ない顔で救いを差し出してくる。
「……ありがとう。でも、危険を冒してまで届けることじゃないわ」
「ついでだよ。……それより、本題だ」
ミストの細い目が、すっと鋭さを増した。彼は机に両手を突き、レイアの顔を覗き込む。
「昼間の『青いバラ』……君が仕掛けを見抜いたらしいじゃないか」
「! なぜ、それを……」
「裏のネットワークを舐めちゃ困るよ。言っただろ、あのバラを作れる職人がいるって。……あれを作ったのは『影細工のトーマス』だ。だが、彼は三日前に、身元不明の遺体となって運河で見つかった」
口封じ。
レイアの背筋を、冷たい悪寒が駆け抜けた。事件は彼女が想像していた以上に、深く、昏い闇へと繋がっている。
「事件の真相に近づけば近づくほど、君の身が危なくなる。レイア、あのヴァルハイト公爵の手を離せ。あの男は君を『便利な道具』として利用しているだけだ」
「そんなことはないわ!」
レイアは強く言い返していた。自分の声の力強さに、自分自身で驚くほどに。
「長官は……エルドリッヒ様は、私に嘘をつかないわ。私の目を『怪物』と拒絶せず、対等な人間として必要としてくれたの」
「……『嘘をつかない』、か」
ミストの唇が、布越しに皮肉な笑みを形作った。
「君のその綺麗な目でも見抜けないものがあるのさ、レイア。人間ってのはね、嘘をつかずに『真実の一部』だけを並べて、他人を誘導することだってできるんだ」
「何が言いたいの?」
「あの男の過去を知ってるのか? ヴァルハイト家がどうやって今の地位を築いたか、彼がかつて何を捨てたのか……君は何も知らないだろ」
ミストの手が伸ばされ、指先がそっとレイアの頬に触れた。
冷たく、しかしどこか名残惜しそうなその感触に、レイアの息が止まる。
「俺と一緒に逃げよう、レイア。この街の陰謀からも、あの冷酷な公爵からも遠く離れた場所へ。君の目が怯えずに済む場所へ、俺が連れて行ってあげる」
甘い誘惑。
心の中に閉じ込めていた孤独が、その言葉に揺らぐ。この男となら、静かで穏やかな暗闇の中で生きていけるかもしれない、と。
だが——レイアは、静かに首を振った。
「逃げないわ、ミスト。私は……自分の足で立つと決めたの。もう、人の顔色に怯えて隠れるだけの人生には戻らない」
ミストの瞳に、一瞬だけ激しい葛藤の光が走った。
煙は見えない。けれど、彼の瞳の奥にある「痛み」だけは、レイアの心に突き刺さった。
「……頑固だな、君は」
ミストはため息をつき、手を引いた。
「なら、これだけは覚えておいて。今夜、第二の事件現場になった『アシュトン邸』の地下書庫をもう一度調べな。あの公爵が見落とした『本当の鍵』が残されているはずだ」
「ミスト、あなた……なぜそこまで事件のことを知っているの?」
レイアの問いかけに、ミストは答えない。
彼がひらりと身を躍らせ、窓枠へ戻った瞬間——。
「そこまでだ」
廊下側から重厚な扉が開かれ、漆黒の衣を翻したエルドリッヒが立っていた。
彼の手に握られた魔導拳銃の銃口が、迷いなくミストへと向けられる。
「王立捜査局への不法侵入……ただで逃げられると思うな」
氷のような一言と共に、緊張感が破裂した。




