第三話 嫉妬の視線と最初の遺留品
王立捜査局本部の廊下は、冷ややかな大理石の静寂に包まれていた。
翌朝。通された『特別鑑定室』は、かつて物置として使われていたのか、部屋の隅に古い書類の束が積み上がっていた。だが、机や椅子は真新しく、窓からは朝の光が爽やかに差し込んでいる。
「——ここが君の職場だ、レイア・ボイド」
執務机の前に佇むエルドリッヒは、昨夜と変わらぬ隙のない軍服姿だった。彼が合図を送ると、扉の外から何重もの書類を抱えた若い男性捜査官が入ってきた。
その男——副官のハンスは、レイアを一目見ると、あからさまに不機嫌そうな眉の寄せ方をした。
彼の喉元から、どろりとした濃い灰色の煙が、嫌な匂いを伴って立ち上る。
(嫉妬、蔑み、そして警戒……)
レイアは目線を低くし、静かに深く頭を下げた。
平民の、しかも貧民街の怪しげな鑑定士が、突如として自分たちの頭上に『室長』として降って湧いたのだ。反発を感じるなという方が無理というものだった。
「長官、正気ですか」
ハンスはレイアを完全に無視し、エルドリッヒに詰め寄った。
「このような生い立ちも分からぬ街の小娘を、我が捜査局の重要拠点に置くなど……! 他の捜査官たちも納得しておりません。彼女に何ができるというのです!」
ハンスの喉元から噴き出す煙が、うねりを上げてレイアの視界を覆う。
「あなたのような高貴な方が、このような騙し絵のような女に惑わされるなど——」
「ハンス」
エルドリッヒの一言で、室内の空気が一瞬で氷結した。
静かな、しかし抗いようのない威圧感。エルドリッヒは視線すら向けずに言った。
「彼女の採用は私の全権事項だ。異論があるならば、捜査局長官の任を解く書状を国王陛下に提出してからにしろ」
「っ……! 失礼いたしました……」
ハンスは悔しそうに歯を食いしばり、どす黒い煙を撒き散らしながら、机の上にドスンと資料の山を置いた。
レイアは胸の奥がキュッと締め付けられるような痛みを感じた。
(やっぱり……私がここにいれば、この人の立場まで悪くしてしまう)
恐縮し、身を縮めるレイアに、エルドリッヒは平然とした声で命じた。
「気にすることはない。噂や身分で人を測る者に、大した仕事はできん。……ハンス、例の遺留品を出せ」
「……はっ」
ハンスが厳重に封印された木箱を開け、中から慎重に取り出したのは、一輪の『青いバラ』だった。
ガラスのように透明な微小な結晶で覆われ、不気味なほど美しい輝きを放っている。
「第四の犠牲者、アシュトン伯爵の遺体の胸元に残されていたものだ。通常の魔導具鑑定士たちは『ただの装飾用魔石』と結論づけたが……お前はどう見る?」
エルドリッヒの問いかけに、ハンスは鼻で笑った。
「長官、一流の鑑定士たちが何日もかけて分析した品です。このような素人に見せたところで——」
「静かにしろ」
レイアはゆっくりと息を整え、青いバラへと近づいた。
手袋を外し、そっと指先を近づける。直触れはせず、わずか数ミリの距離で、バラから放たれる『気配』に集中した。
一見、完璧に研磨された美しい結晶。
しかし——レイアの瞳には、その青い花弁の奥深くに、目に見えない微小な「歪み」が見えていた。花飾りの根元、金属の継ぎ目の角度が、ほんのコンマ数ミリだけ非対称になっている。
(これは……違う。ただの魔石じゃない。この歪みは、何かを『隠す』ための構造……)
「ハンス様」
レイアは静かに顔を上げ、嫉妬の煙を漂わせる副官を見つめた。
「このバラを鑑定された先生方は、『魔導回路の痕跡がない』という理由で装飾品だと結論づけたのではありませんか?」
「……! なぜそれを知っている」
ハンスの顔色が変わり、煙が激しく揺れた。それは彼が心の中で「正解」だと認めた証拠だった。
「この結晶の不自然な歪みは、魔導回路を消した跡ではありません。内部に極小の『機械構造』を組み込むための仕掛けです。おそらく……特定の周波数の音や匂いに反応して、微量の気体を噴出する仕掛けが施されています」
「な……馬鹿な! そんな精密なカラクリ、王都の技師でも——」
「作れますわ。……たとえば、裏社会で『悪徳貴族専門の職人』と呼ばれている者たちならば」
レイアの確信に満ちた言葉に、ハンスは言葉を失った。
エルドリッヒの青い瞳に、かすかに満足げな光が宿る。
彼は一度だけ満足そうに頷くと、呆然と立つハンスに向き直った。
「聞き捨てならんな、ハンス。一流の鑑定士たちが見落とした真実を、彼女は一瞬で見抜いたぞ」
「くっ……」
「今すぐこのバラを分解し、内部の構造を再調査させろ。それから——彼女に対する無礼な態度を撤回しろ」
ハンスは顔を真っ赤にし、悔しさに震えながらレイアに向かって頭を下げた。
「……失礼いたしました、ボイド室長」
立ち去るハンスの背中を見送りながら、レイアは胸を撫で下ろした。自分の力で、なんとか居場所の一歩を勝ち取れたという安堵。
「見事だったな、レイア」
エルドリッヒが彼女の隣に立ち、低く囁いた。
「お前の目は、やはり本物だ」
「……あ、ありがとうございます。ですが、これはただの観察眼で……」
「卑下するな。お前は今日、自らの力で己の価値を証明した」
そう言って、エルドリッヒはポケットから小さな鍵を取り出し、レイアの手のひらに握らせた。
「これはこの部屋の鍵であり、捜査局のあらゆる機密文書にアクセスできる権限だ。……お前を信じて預ける」
冷たい鍵の感触。しかし、そこには彼からの絶対的な「信頼」が宿っていた。
レイアの胸が、じんわりと温かい熱を帯びる。
だが、その日の夜。
一人で鑑定室に残り、事件の資料を読み込んでいたレイアの元に、窓からひらりと黒い影が舞い込んだ。
「——相変わらず、無警戒だねえ、お姫様」
月光を背にして窓枠に腰掛けていたのは、布で顔を覆った青年——ミストだった。




