第二話 黒い馬車と氷の条件
石畳を叩く馬蹄の規則的な音が、重苦しく夜の静寂を切り裂いていた。
公爵家の紋章が刻まれた黒塗りの馬車の中、レイアは座革の端に身を縮めるようにして腰掛けていた。手触りの良いベルベットのシートも、繊細な意匠が施されたランプの灯りも、路地裏の湿気と埃に慣れきった身には居心地が悪くて仕方がない。
対面に座るのは、王立捜査局長官エルドリッヒ・ヴァルハイト。
彼は膝の上で腕を組み、長い足を優雅に交差させていた。微動だにせず、車窓の外を流れる街灯の光を氷のような青い瞳に映している。その佇まいは隙がなく、まるで美しい彫像のようだ。
(煙が出ない……本当に、嘘をついていないんだわ)
レイアは息をひそめ、薄暗い車内でそっとエルドリッヒの胸元に視線を走らせた。
人の欲や悪意、虚飾が混ざり合う場所に必ず漂うあの灰色の煙が、彼からは一筋たりとも立ち上っていない。だが、それは彼が「清廉潔白な聖人」だからというわけではなかった。
ただただ、自分の中に完璧な自己制御と明確な目的を持ち、他人に好かれようとも嫌われようとも揺らがないからだ。嘘をつく必要すら感じていない男——それがエルドリッヒという人間の本質だった。
「物珍しそうに観察するのはやめろ、レイア」
「っ……! 失礼いたしました」
低い声に射抜かれ、レイアは肩を跳ねさせて俯いた。視線すら読まれていたことに、背筋を冷や汗が伝う。
「私のような者が、閣下の馬車に同乗するなど身分不相応でございます。……捜査への協力というお申し出ですが、私に求められている具体的な役割をお聞かせ願えますでしょうか」
レイアは意識して謙虚に、慎重に言葉を選んだ。
これ以上、彼の「異能」への期待を膨らませてはならない。もし要求に応えられなければ、待っているのは路地裏への追放か、あるいは秘密を知りすぎた者としての処罰だ。自立して生きるためには、相手との間にしかるべき線を引かなければならなかった。
「特別捜査官としての肩書を与える。お前には明日から、捜査局の『特別鑑定室』の室長を務めてもらう」
「室長……!? 閣下、正気ですか」
思わず素の声が出た。
貴族の血筋でもなく、まともな教育を受けたわけでもない、泥の街の鑑定士。そんな人間が王立捜査局の室長に就任するなど、前代未聞どころの話ではない。内部からの猛反発は目に見えている。
「私には権威も学識もありません。そのような大任、到底お受けできません」
「お前に求めているのは権威ではない。その『目』だ」
エルドリッヒは車窓から視線を外し、レイアを真っ直ぐに見据えた。
「事件の被害者は、すでに四名。いずれも王都の重鎮であり、全員が私邸の密室内で、表情に狂気的な『笑顔』を貼りつけたまま息絶えていた。外傷はなく、毒物も検出されていない」
「笑顔で……」
「現場に残された遺留品、関係者の供述——そのすべてにお前の目を通してもらう。証言の嘘を見抜き、人間の心理的死角を洗い出せ」
「ですが、組織というものは実績のない者を嫌います。私が発言したところで、他の捜査官の方々が納得されるとは思えません」
「納得させる必要はない。お前の指揮権は私直属だ。私の決定に背く者は、誰であろうと即座に更迭する」
淡々とした、しかし絶対的な言葉。
圧倒的な「特別扱い」だった。守られているという安心感と同時に、その重圧がレイアの胸を締め付ける。
「……なぜ、そこまで私を買ってくださるのですか。私は、ただの気味の悪い女です。幼い頃から、この目のせいで『怪物』と疎まれて生きてきました」
ぽつりとこぼれた本音。長年胸の奥底に溜め込んできた生の苦痛が、レイアの唇から漏れ出していた。
「他人の心の醜い部分ばかりが見えてしまう。誰も私を愛さないし、私も誰も信じられない。……私に関われば、閣下ご自身の立場をも危うくします」
エルドリッヒは無言のまま、ゆっくりと体を前に傾けた。
彼の手が伸び、レイアの手首を掴む。手袋越しではない、彼の実直で冷たい指先が、彼女の脈打つ肌に直接触れた。
「人間が汚い嘘をつくのは、今に始まったことではない。私にとっても、周囲は己の利益しか考えぬ狐と狸ばかりだ」
彼の声には、絶望すら通り越した静かな諦念と、孤高の響きがあった。
「怪物と侮蔑されようと構わん。ならばその力で、嘘を暴く刃となれ。お前が己の価値を信じられぬというのなら、私がその目と価値を買い叩いてやる。文句はあるか?」
握られた手首から、確かな体温が伝わってくる。
言葉の端々にすら、嫌味な感情や下心(煙)が存在しない。完璧な論理と、まっすぐな必要性。
レイアは、ハッと息を呑んだ。
(この人は……私の能力を恐れていない。怪物としてではなく、ただ『必要』としてくれている)
それは、生まれて初めて味わう感覚だった。
孤独という名の硝子の城に、冷たくも確実な風が吹き込んでいく。
「……承知いたしました、長官閣下。私の持ちうる限りの力を、捜査に捧げます」
「良い返事だ」
エルドリッヒが手を離した瞬間、馬車がゆっくりと停車した。
車外の護衛が扉を開ける。眼前に広がるのは、月光に照らし出された王立捜査局の巨大な庁舎だった。
だが、その門頭の影から、一筋の視線がレイアに向けられていることに、彼女は気づかなかった。
街灯の届かない闇の中、布で顔を覆った青年——ミストが、静かに佇んでいた。
彼の指先には、一通の密書が握られている。その瞳はいつもの不真面目さを完全に消し去り、冷徹な仮面のようにレイアとエルドリッヒの姿を追っていた。
「……引き返せばよかったのにさ、レイア。あの男の隣は、君が思うほど綺麗な場所じゃない」
ミストの低く呟いた声は、夜風に消えていった。




