第一話 硝子(ガラス)の瞳と泥の街
世界は、汚い煙で満ちている。
「本当に助かったよ、レイア。君のおかげで偽物を掴まされずに済んだ」
薄暗い『ボイド鑑定所』のカウンター越しに、古物商の男が顔をほころばせる。
「これが約束の金貨十枚だ。取っておいてくれ」
男が置いた革袋から、レイア・ボイドの視界には、ねっとりとした濁った灰色の煙が立ち上っていた。息を吸うたび、鼻奥がツンと痺れるような、あの「嘘」の匂いだ。
レイアは淡い灰色の瞳をわずかに伏せ、細い指先で革袋の口を結び直した。
確かめるまでもない。中身は金貨十枚などではなく、質の悪い銅貨が数枚、カサリと寂しい音を立てているだけだ。
「……お役に立てて、何よりです。旦那様」
「ああ、それじゃあな!」
男は得をしたニヤけ顔を浮かべ、逃げるように店を去っていった。
静まり返った店内で、レイアは小さく息を吐き出す。
咎めもしない。追いかけもしない。なぜなら、嘘を暴いたところで帰ってくるのは金ではなく、「気味が悪い」「化け物」という拒絶の言葉だけだと、痛いほど知っているからだ。
人の表情の微小な引きつり、声の周波数の乱れ、目尻の筋肉の数ミリのズレ。それらがレイアの脳内で「色」と「煙」として結像する。
幼い頃、愛してくれたはずの母親が「この子は怪物よ!」と叫んで自分を捨てた夜から、レイアは心に分厚い硝子の壁を築いた。誰にも期待しない。誰も信じない。この貧民街の片隅で、ただ静かに、誰の邪魔にもならず自立して生きていく。それが彼女の選んだ護身術だった。
「相変わらず、お人好しを演じるのが上手いねえ、レイア」
天井の低い裏口から、ひょうひょうとした声が響いた。
使い古した布で顔の下半身を覆った青年——ミストが、ひらりと軽い身のこなしでカウンターに腰掛ける。彼はポケットからくすんだリンゴを取り出すと、ナイフで器用に皮をむき始めた。
「あのおやじ、また踏み倒していったろ。言えばいいのに。『あんたの心臓の鼓動で嘘なんてお見通しよ』ってさ」
「そんなことを言えば、今度こそこの店ごと焼き払われるわ。……私にとっては、日常の景色よ」
「冷めてるねえ。だが——そろそろ、そんな悠長なことも言ってられなくなるぜ?」
ミストの細い目が、ふっと危険な光を帯びた。
「王都の上層部で、貴族が怪死する事件が相次いでる。全身傷一つなく、なぜか全員『笑顔』で息絶えてるそうだ。犯行声明を出したのは、あの『仮面卿』さ」
「……義賊の仮面卿? 私たちには関わりのない雲の上の話よ」
「だといいけどね」
ミストがリンゴを噛み砕くシャリッという音。
レイアは彼を盗み見た。……不思議な男だった。この街で唯一、彼からだけは「煙」が立ち上らない。嘘も真実も透明なまま、精巧に作られた仮面のように彼女の能力をすり抜ける。だからこそ、レイアは彼にだけはわずかな安らぎを感じ、同時に無意識の警戒を解けずにいた。
その時——。
言葉を遮るように、鑑定所の重い木製ドアがズシリと音を立てて開かれた。
靴音が響く。一歩、また一歩。
入ってきたのは、土足で泥を撒き散らす貧民街の客ではない。隙のない漆黒の軍服、磨き抜かれた革靴。王立捜査局の親衛隊だ。
騎士たちが左右に割れ、整列する。その中央から歩み出てきた男を見た瞬間、レイアの息が止まった。
背が高く、光を跳ね返すような銀髪を綺麗に整えた男。彫刻のように美しく、そして完璧に感情を削ぎ落とした顔立ち。
王立捜査局長官、エルドリッヒ・ヴァルハイト公爵。
(なぜ、こんな貴族の頂点にいるような人が、この泥の街に……?)
ミストはいつの間にか、影のように気配を消していた。
エルドリッヒは氷のような青い瞳で、埃っぽい店内を見回し、最後にレイアの前に立ち止まった。
「レイア・ボイド」
低く、澄んだ声が鼓膜を揺らす。
レイアは反射的に胸元に手を当て、深く頭を下げた。
「……はい、長官閣下。このような薄汚れた廃屋に、何のご用件でしょうか」
「お前の『噂』を聞いた。人の微細な変化から、その者の虚飾と真実を完璧に見抜く『異能の鑑定士』がいると」
レイアの心臓が跳ね上がった。隠し続けてきたはずの秘密。
「……何かの間違いでございます。私はただの、目ざといだけの卑しい小娘に過ぎません」
いつもの謙虚な仮面をかぶり、必死で首を振る。
だが、レイアは見てしまった。
エルドリッヒ・ヴァルハイトの喉元を。
これまで出会ってきたどんな権力者も、どんな聖職者も、胸の奥に薄黒い自尊心や嘘の煙を渦巻かせていた。しかし——この男からは、濁りが一切存在しなかった。
灰色の煙も、歪んだ嘘も、何一つない。恐ろしいほどに純粋で、透明な氷のような存在。
「私に嘘をつく必要はない」
エルドリッヒがゆっくりと腰を落とし、レイアと視線の高さを合わせた。
逃げ場をなくすように、彼の手が伸びる。手袋越しの上質な革の触感が、レイアの冷え切った頬に触れ、そのままゆっくりと顔を上げさせた。
「現在、王都を揺るがしている連続不審死事件——犯人の残した心の足跡を読み解くため、お前のその『力』が必要だ」
「私など……お役に立てるとは思えません。私のような日陰者が、閣下のお力になれるはずが——」
「拒否権はないと言ったら?」
至近距離で見つめ合う。エルドリッヒの瞳には、一切の揺らぎがなかった。
「お前の力は、人が忌み嫌う呪いなどではない。私がその価値を証明してやる。……来い、レイア。私のもとで、その目を解き放て」
それは強大な権力による命だった。
だが、彼の言葉にも、彼の瞳にも、言葉通りの「真実」しかなかった。
生まれて初めて出会った、嘘をつかない男。
冷たい手袋越しに伝わる体温に、レイアの胸の奥で、長年凍りついていた硝子の城が、みしりと音を立てて軋み始めた。




