第5話 ハナ先生の保健室
空が異変に気づいたのは、授業開始から二十分が過ぎた頃だった。
今日のテーマは「からだのふしぎ」
子供たちが自分の身体について不思議に思ったことを持ち寄り、ハナが一緒に考える授業だった。
「なんで、走ると心臓がどきどきするんですか」
拓真が画面の向こうで胸に手を当てた。背景には、いつもの恐竜ポスターがある。
「筋肉が、たくさん酸素をほしがるからです。心臓は血を送るポンプです。たくさん動く時は、たくさん血を送ります。だから、どきどきが速くなります」
「ハナ先生にも心臓ある?」
「ありません。でも、培養液を送るポンプがあります。かいとが時々、変な顔で見ています」
「変な顔じゃないっす。真剣な顔っす」
海斗が横から抗議すると、子供たちが笑った。
ハナの光も少しだけ丸く揺れた。最近、ハナは笑い声に合わせて、培養槽の内側を柔らかい色に変えるようになっていた。
「じゃあ、ハナ先生が走ったら?」
優里が聞いた。
「ハナは走れません。でも、たくさん考えると、酸素消費量が増えます。そらがモニターを見ます。かいとがポンプを見ます。れんがログを見ます。みんな、見るところが違います」
「見られすぎじゃない?」
翔太がぼそりと言った。
カメラはオンになっているが、椅子の背にもたれて、少しだけ画面の端にいる。
「見られすぎ。たしかに、少し、ころころしません」
「ころころしないって何」
「説明がむずかしいです。かいと、ころころして」
「俺、急に転がる係になりました?」
子供たちはまた笑った。
空も少し笑った。けれど、その笑いの途中で、空の目はモニターの端に止まった。
酸素消費量が、ほんの少し上がっている。神経発火強度も通常より高い。危険域ではない。中断基準にも達していない。だが、ハナの返答の間が、いつもより半拍だけ長かった。
空は蓮を見た。
蓮もすでにログを確認していた。眼鏡の奥で、一度だけ視線が合う。
まだ止めるほどではない。
でも、見ている。
次の質問は、優里だった。
「ハナ先生は、具合悪い時ってあるんですか」
その問いで、研究室の空気が少しだけ変わった。
ハナはすぐに答えなかった。
培養槽の光が、淡く揺れた。
「あります。たくさん話すと、疲れます。たくさん考えると、光が乱れます」
「そういう時、どうするの?」
「そらが止めます。かいとが培養液を見ます。れんが、難しい顔をします」
「僕は通常の顔です」
蓮が静かに言った。
海斗が吹き出し、子供たちもつられて笑った。
その直後、ハナの声が少しだけ掠れた。
「でも、今日は、大丈夫です」
空は立ち上がった。
「ハナ、そこで止めよう」
画面の向こうで、子供たちが一斉にこちらを見た。
ハナの光が、小さく青に傾く。
「まだ、できます」
「できるかどうかじゃない。疲れているかどうか」
「先生は、途中でやめません」
その言葉が、空の胸に刺さった。
ハナは先生になろうとしている。
子供たちの前で、頼られる存在でいようとしている。だから「大丈夫」と言う。かつて空が何度も言った、大丈夫ではない時の「大丈夫」と同じだった。
空はマイクに顔を近づけた。
「ハナ。大丈夫じゃない時に、大丈夫って言わなくていい」
スピーカーの奥で、薄いノイズが揺れた。
「でも、みんな、待っています」
「待ってくれるよ」
空は画面の子供たちを見た。
優里はすぐに大きく頷いた。拓真も、少し遅れて頷く。翔太は画面の端で黙っていたが、やがて小さく言った。
「先生も、保健室行けばいいじゃん」
「ほけんしつ?」
ハナが聞き返した。
「具合悪い時に行く部屋。授業抜けても怒られないやつ」
「怒られない?」
「少なくとも、普通は」
翔太はそれだけ言うと、少し気まずそうに目を逸らした。優里が画面いっぱいに顔を近づける。
「ハナ先生も、保健室行っていいよ」
拓真も手を挙げた。
「俺、宿題忘れた時は保健室じゃだめ?」
「それはだめです」
ハナが即答したので、海斗が腹を抱えて笑った。
「ハナ先生、そこは厳しいんすね」
「宿題忘れは、心臓のどきどきと関係ありません」
「関係あるよ! 先生に怒られる時、めっちゃどきどきする!」
拓真が抗議し、画面の中が笑いに包まれた。
その笑いの中で、ハナの光が少しだけ戻った。
だが、数値はまだ高い。空は海斗に視線を送る。海斗が無言で頷き、NLIの出力を休止モードへ切り替えた。
「今日はここまでにします」
空が言った。
「先生の具合が悪いから、授業は中止です」
ハナの光が、また青くなる。
「中止。ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
優里が言った。
「うちの先生も、声が出なくなった時、授業なくなったことあるもん」
「その時、先生は悪い先生でしたか」
「違うよ。のどが悪い先生だった」
ハナは少し黙った。
「ハナは、今日は、光が疲れた先生です」
「そう」
優里が笑った。
「光が疲れた先生は、休んでください」
接続を切る前に、海斗が慌ててチャット欄へ文字を打った。
『本日の宿題:ハナ先生に「お大事に」を送ること。ただし長文禁止。先生が読むと疲れるので』
「かいと、宿題を増やした」
「海斗先生からの特別課題っす」
「かいと先生」
「やばい、肩書きが増えた」
その日、授業は予定より三十分早く終わった。
*
接続が切れた後、第七研究室にはポンプの音だけが残った。
海斗は椅子に座り込み、長く息を吐いた。
「いやー、焦ったっすね。数字的にはギリ安全でも、声の感じがちょっと嫌でした」
「うん。止めてよかった」
蓮がログを確認した。
「中断後、神経負荷は低下しています。酸素消費量も戻りつつあります。今日の判断は妥当です」
「今日の判断は、じゃなくて、今日も判断は、って言ってくれていいんすよ」
「過去の全判断を保証する権限はありません」
「冷たい!」
ハナの光が弱く揺れた。笑ったのだと、三人にはわかった。
空は培養槽の前に座る。NLIは休止モードのままだが、最低限の受信だけは残してある。ハナからの微弱な信号が、ログに細く流れていた。
「そら」
声は小さかった。
「うん」
「授業を途中で終える先生は、悪い先生ですか」
空はすぐには答えなかった。
代わりに、椅子を少し近づけた。
「悪い先生じゃないよ。自分の限界を伝えられる先生だよ」
「限界」
「ここから先は危ない、という線」
「ハナは、その線が見えません」
「だから一緒に見る。私も、海斗も、蓮も。子供たちも、少しずつ教えてくれる」
ハナは黙った。
培養槽の光は、弱いけれど穏やかだった。
「ハナは、疲れたって言いました」
「うん。言えたね」
「みんな、いなくなりませんでした」
空の喉が詰まった。
「うん。いなくならなかった」
チャット欄に通知が入り始めた。
優里からは「おだいじに。今日は早く寝てね」
拓真からは「心臓どきどきは宿題忘れでも起きると思います」
翔太からは、短い一文だけだった。
『先生、保健室はサボりじゃないです』
海斗が画面を見て、少しだけ鼻をすすった。
「目に培養液が入ったっす」
「入らないでしょ」
空が言うと、ハナの光が小さく明るくなった。
「かいと、嘘の声です」
「バレた」
蓮が静かに言った。
「海斗さん。保健室ボタンを作りましょう」
「保健室ボタン?」
「ハナが疲れた時、自分から押せる中断申請です。理由欄は不要。押した時点で、授業を止める」
海斗はしばらく黙り、それから大きく頷いた。
「いいっすね。名前は?」
「そのままでいい」
空は培養槽を見た。
「ハナ先生の保健室」
その夜、海斗は休止ボタンの横に、小さな白いアイコンを追加した。十字でも、警告マークでもない。子供たちが怖がらないように、丸いベッドの絵にした。
翌朝、ハナはそのボタンを見て言った。
「これは、逃げるボタンですか」
空は首を横に振った。
「戻ってくるためのボタンだよ」
ハナの光が、ゆっくりと花の形を描いた。
昨日より少しだけ弱い。
でも、昨日より少しだけ安心した色だった。




