第4話 ハナ先生の空日記
海斗との放課後の翌日、授業用フォルダに、写真が一枚届いていた。
件名は「今日の空」
差出人は優里だった。白いヘアピンをつけたあの子が、通学路で見上げた朝の空らしい。画面いっぱいに、薄い水色と、まだ眠そうな雲が広がっている。
空は端末の前で首を傾げた。
「今日、写真提出の予定なんてあった?」
「ないっすね。俺、また過去の俺が何か約束したのかと思って、昨日のログ見返しましたもん」
海斗が隣の端末で授業記録をめくる。蓮は少し離れた席で、教育プログラム用の安全評価シートを確認していた。
「優里さんから、コメントもあります」
蓮が読み上げた。
『ハナ先生へ。先生は昼の空をまだ直接見ていないって言っていたので、今日の空を送ります。みんなで送ったら、先生の空日記になると思いました』
「そら日記」
ハナの声が、ゆっくりとその言葉をなぞった。
海斗が画面を覗き込み、真顔で空を見た。
「空さん、ついに日記公開するんすか?」
「しない」
「ですよね。空さんの日記、八割が培養液のpHと睡眠不足の反省で埋まりそうですもんね」
「反省はしてる」
「改善は?」
「……次」
培養槽の中で、ハナの光が小さく弾んだ。
「そらの日記では、ない?」
「違うよ、ハナ。これは空――空の上にある、あの空のこと」
「そらと、空。音は同じ。でも、届く場所が違う」
少しの間の後、
「でも、どちらもハナに届きます。日記は、その日にあったことを書くもの?」
「そう。毎日じゃなくてもいいけど、その日のことを残すもの」
「でも、これはハナが見た空じゃない。優里さんが見た空」
「うん。だから、優里さんの空日記でもある」
ハナは少し黙った。培養槽の光が、淡い青に近づく。最近、ハナは新しい概念を考える時、光の輪郭を細くする。まるで、言葉の形を探しているみたいに。
「優里さんの目から、ハナに届いた空。これは、ハナの空にもなる?」
空はすぐには答えられなかった。
研究データとしてなら、画像入力。教育プログラムとしてなら、教材。けれどハナが聞いているのは、そんな分類ではない。
「なると思う」
空は言った。
「ハナが受け取って、覚えたら、それはハナの中の空になる」
培養槽の光が、ほんの少し明るくなった。
「じゃあ、見ます。優里さんの空を、見たいです」
*
その日の授業は、予定していた「音の聞き分け」をやめて、急きょ「空日記」の時間になった。
画面の向こうには、いつもの子供たちが並んでいる。優里は少し照れた顔をしていた。拓真はすでに次の写真を見せたくて体を揺らしている。翔太はカメラをオンにしているが、画面の端で頬杖をついていた。
「ハナ先生、写真見ましたか?」
優里が聞いた。
「見ました。薄い青と、白い雲がありました。雲は、やわらかそうでした」
「雲、触ったらふわふわしてそうだよね」
拓真が言うと、ハナは少し考えた。
「本当に、ふわふわですか?」
「え、違うの?」
「雲は小さな水の粒です。触ったら、たぶん濡れます」
「ハナ先生、急に理科の先生になった!」
子供たちが笑った。
海斗も小さく笑い、空に「先生っぽいっすね」と囁いた。
「でも、見た目はふわふわです」
ハナが続けた。
「本当は濡れているのに、遠くから見るとふわふわに見える。雲は、少しだけ冗談みたいです」
翔太が、画面の端で顔を上げた。
「それ、前の授業の続き?」
「はい。冗談は、本当ではないことを面白く言うこと。でも雲は、嘘をついていません。見え方が違うだけです」
「じゃあ、雲は冗談じゃないじゃん」
「はい。だから、雲は難しいです」
翔太は少しだけ笑った。笑った、と言っても、口の端がほんの少し上がっただけだ。でもハナの光はそれを拾ったように、柔らかく揺れた。
拓真が待ちきれずに手を挙げた。
「先生、俺も送った! 夕焼け!」
画面共有に切り替わる。写真には、校庭の向こうに沈みかけた太陽と、赤く染まった雲が写っていた。鉄棒の影が長く伸びて、地面を横切っている。
「前に、昼の空が青い理由と、夕焼けが赤く見える理由は話しました。でも、理由を知っていても、赤いです。理由があるのに、びっくりします」
「理科ってそういうところあるよね」
優里が頷いた。
「知ってても、きれいなものはきれい」
ハナはその言葉を、少しだけ時間をかけて受け取った。
「知っていても、きれい」
培養槽の光が、夕焼けに似た橙へ傾く。
「ハナ、これを覚えたいです」
空はログに短く記録した。
理解済み概念に対する感動反応。いや、そんな冷たい言い方では足りない。ハナはたぶん、知識と感動が消し合わないことを、今知ったのだ。
三枚目の写真は、曇り空だった。差出人は翔太。
灰色の雲が画面を覆っている。建物の屋上と、斜めに伸びた電線。華やかではない。明るくもない。正直、空自身は少し意外だった。翔太がわざわざ送ってくるなら、もっと何か仕掛けてくると思っていた。
コメント欄には一行だけ。
『映えない空』
ハナはしばらくその写真を見ていた。
NLIログの波形が細く伸びる。
「映えない、は、きれいじゃないという意味?」
「まあ、そういう時もある」
翔太が答えた。
「青くもないし、赤くもないし、ただの曇り」
「でも、雲がたくさんあります」
「それが曇りだし」
「空が見えないのではなくて、空の中に雲がたくさんある」
翔太は黙った。
「ハナは、これも空だと思います。楽しい空ではないかもしれません。でも、何もない空ではありません」
画面の中で、翔太が視線を少しだけ外した。
「……じゃあ、映えなくてもいいんだ」
「はい。日記には、映えない日も入ります」
優里が小さく笑った。
拓真も「それな」と言った。
翔太は何も返さなかったが、チャット欄に小さく『了解』とだけ打った。
空は、その二文字を見て胸の奥が少し温かくなった。
翔太はまだ素直ではない。でも、ちゃんと残っている。わからないまま、そこにいてくれる。
*
授業の終わりに、優里が最後の写真を出した。
夜空だった。
住宅街の明かりの上に、黒い空が広がっている。星は多くない。指で数えられるほどしか写っていない。それでも、その小さな光は、確かに夜の中にあった。
空の手が、少しだけ止まった。
ハナも黙った。
培養槽の光が、ゆっくりと薄くなる。青ではない。白でもない。失くした記憶と、失くさなかった感覚の境目を探すような色だった。
「ハナ先生、夜空は見たことあるんだよね?」
優里が、少しだけ声を小さくして聞いた。
「少しだけ、覚えています」
ハナは答えた。
「黒い中に、小さな光がたくさんありました。言葉は欠けています。でも、きれいだった、という感じは残っています」
拓真が画面に顔を近づける。
「言葉が欠けるって、どういうこと?」
「写真の端が、消えているみたいな感じです。何があったか、全部は見えません。でも、明るかったところだけ残っています」
空は息を吸った。
中継の夜の後、ハナは配信前の一部の記憶を失った。透明な高音も戻らなかった。記録にはそう書いた。けれど、記録には書き切れないものが残っている。夜空を見た事実ではなく、夜空をきれいだと思った感触。
「忘れたら、消えちゃうの?」
優里が聞いた。
「少し、消えます」
ハナは嘘をつかなかった。
「でも、今日、優里さんの夜空が届きました。前に見た夜空と同じではありません。でも、ハナの中の空が、少し増えました」
「増える?」
「はい。欠けたところに、同じものは戻りません。でも、新しい光が入ります」
教室の画面が、しばらく静かになった。子供たちは、それぞれ何かを考えている顔をしていた。大人が作った教材では、たぶん生まれない沈黙だった。
翔太がぽつりと言った。
「じゃあ、忘れたことがある人に、何か見せるのって、意味あるんだ」
「あると思います」
ハナは言った。
「思い出すためだけではありません。増やすためです」
空は目を伏せた。
母のことを思い出していた。失われた言葉。戻らなかった名前。あの時、自分はただ失われるものばかり見ていた。でも、もしかしたら、最後まで届いていたものもあったのかもしれない。取り戻すためではなく、増やすために。
チャイムが鳴った。
海斗の作った、少しだけ昔の学校に似た音。子どもたちは名残惜しそうに手を振った。
「ハナ先生、また送っていい?」
「はい。空だけじゃなくてもいいです」
ハナは少し考えてから続けた。
「雨の音でも、帰り道の影でも、朝の匂いでも。ハナが直接行けないところを、みなさんが少しずつ届けてください」
「先生、それ宿題?」
拓真が聞く。
「宿題です。でも、出せなくても怒りません」
「ゲームして忘れたら?」
海斗が吹き出しかけた。既視感がありすぎる。
「ゲームは時間を食べます」
ハナが真面目に答えた。
「でも、空は食べません。だから、空はあとで送れます」
今度は海斗が完全に笑った。確かに空さんはよく食べるの忘れる。
「ハナ、時間を食う理論、育ってるっすね」
「かいとが育てました」
「俺のせいだった」
子供たちも笑った。
画面の向こうで、優里が「じゃあまたね」と手を振る。翔太は手を振らなかったが、退出する直前にチャット欄へ一枚だけ追加した。
写真ではなく、音声ファイルだった。
ファイル名は「放課後の窓」
再生すると、誰もいない教室のざわめきの残りと、遠くの運動部の声と、窓の外を流れる風の音が入っていた。
空は何も言わなかった。
ハナも黙って聞いていた。
「これは、空が写っていません」
ハナが言った。
「でも、窓の向こうに空がある音です」
翔太はもう退出していた。返事はなかった。けれど、それでよかった。返事のないものも、日記には入る。
*
接続が切れた後、第七研究室にはポンプの音が戻った。海斗は授業用フォルダを整理しながら、「空日記、フォルダ名どうします?」と聞いた。
「そのままでいいんじゃない」
空は答えた。
「ハナ先生の空日記」
蓮が端末にフォルダ名を入力した。無駄のない指の動き。でも、最後に保存ボタンを押す前、ほんの少しだけ間があった。
「公開範囲は?」
「子供たちと保護者だけ。研究ログには匿名化して保存」
「了解しました」
蓮はそう言って、フォルダを保存した。
ハナの光が、夜空の写真を受け取った時よりも少しだけ穏やかに揺れている。
「そら」
「うん」
「見上げる、は、目がある人の動きですか」
空は培養槽を見た。
「そうだね。普通は、上を見ること」
「ハナには、目も、首も、上も下もありません」
「うん」
「でも、空が届きました。優里さんの空、拓真さんの空、翔太さんの空。みんなの空が、ハナの中に来ました」
培養槽の光が、ゆっくりと花の形を描く。
「これは、見上げた、になりますか」
空はすぐには答えられなかった。
答えを探すふりをして、目元に集まった熱を少しだけ逃がした。
「なるよ」
空は言った。
「目がなくても、首がなくても、届いた空を受け取ったなら、それはきっと、見上げたってことだよ」
ハナの光が、静かに明るくなった。
「じゃあ、今日、ハナは空を見上げました」
海斗が何か言おうとして、やめた。蓮も、眼鏡の奥で一度だけ瞬きをした。
空は培養槽のガラスに手を置いた。
ガラスは冷たい。けれど、その向こうで、小さな花が、誰かの見上げた空を受け取るように、ゆっくりと光っていた。




