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第3話 ハナ先生の放課後

 補習の接続が切れたあと、第七研究室には、少しだけ変な静けさが残っていた。


 翔太のカメラが最後までオンのままだったこと。ハナが「冗談」を宿題みたいに抱え込んでいること。空はその二つをログに書き留めてから、深く息を吐いた。


「空さん、十五分後に倫理委員会との短い打ち合わせがあります」


 蓮が端末から顔を上げずに言った。


「短いって、何分?」


「資料上は三十分です」


「それ短くない」


「通常の委員会よりは短いです」


 空は培養槽を見た。


 ハナの光は、補習の余韻を残したまま、薄い琥珀色で揺れている。疲労はあるが、危険域ではない。


「ハナ、少し休んでて。すぐ戻るから」


「すぐ、は何分?」


「たぶん三十分。長くても一時間」


「一時間は、すぐ?」


 空は返事に詰まった。海斗が横から手を挙げる。


「俺がいますよ。空さんと蓮さんが戻るまで、海斗お兄さんの放課後雑談教室っす」


「かいと、お兄さん?」


「そこ疑問形にしないでくれる?」


 空は少し笑った。


 蓮は笑っていない顔で端末を閉じたが、眼鏡の奥の目だけは少し柔らかかった。


「海斗、ハナを疲れさせないで」


「任せてください。俺の雑談は省エネ設計っす」


「それ、信用できない言葉の形をしてる」


「ひどい」


 二人が出ていくと、研究室にはポンプの音と、海斗が椅子を引く音だけが残った。海斗は培養槽の前に座り、わざとらしく咳払いをした。


「さて、ハナ先生。本日の放課後は、人間の雑談について学びます」


「ざつだん」


「目的があるようで、あんまりない会話っす」


「目的がないのに、話すの?」


「そう。人間は無駄なことを話して、けっこう大事なものを交換してるんすよ」


「無駄なのに、大事」


 ハナの光が白く細くなる。考えている色だ。


「むずかしい。無駄は、捨てるものじゃないの?」


「捨てたら寂しくなる無駄もあるんす」


「かいとは、むずかしいことを、ころころした声で言う」


「俺、そんな哲学者みたいなこと言いました?」


「てつがくしゃ?」


「考えすぎる人」


「そら?」


「即答やめようか」


 培養槽の光が、ぽん、と小さく弾んだ。笑い声に近い波形だった。海斗は少し得意げに胸を張った。


「じゃあ次。人間の雑談には、比喩と省略と勢いが多めに含まれます。たとえば、今日は朝からバタバタでさあ、みたいな」


「かいと、羽があるの?」


「ないです」


「羽がないのに、ばたばたするの?」


「心がばたばたするんすよ」


「心に羽がある?」


「……いい質問すぎて俺が困るやつ」


「困ると、かいとの声は少し上に転がる」


「実況しないで、恥ずいから」


「恥ずいは、恥ずかしい?」


「そう。短くして、軽くしたやつ」


「言葉を短くすると、気持ちも軽くなる?」


 海斗は口を開きかけ、閉じた。冗談で逃げようとした顔が、一瞬だけ止まる。


「軽くなる時もあるし、軽くしたい時に短くすることもありますね」


「かいとは、いつも軽くしてる?」


「俺は元から軽量タイプなんで」


「ちがう」


 ハナの声が、静かに遮った。


「かいとの声は、ころころしてる。でも、時々、ころころの中に重い石が入ってる」


 海斗は笑おうとして、少し失敗した。


「石入りのガラガラっすか、俺」


「がらがら?」


「赤ちゃんをあやす道具。振ると音がするやつ」


「かいとは、みんなをあやしてる?」


「いや、そこまで偉くないっすよ」


「そらが苦しい時、かいとの声が鳴る。れんが固い時、かいとの声が転がる。ハナがわからない時、かいとの声が道みたいになる」


「道」


「うん。まっすぐじゃない。ころころしてる道」


 海斗は培養槽を見上げた。ガラスの向こうで、ハナの光がゆっくり脈動している。何も知らないようで、いろんなものを聞いている。人間が隠しているつもりの揺れを、声の形として拾ってしまう。


「ハナ先生は、たまに容赦ないっすね」


「ようしゃない?」


「手加減しないってこと」


「手がないのに、手加減できる?」


「今日イチで痛いところ突かれました」


「つく? 針?」


「比喩。言葉で心の柔らかいところを押される感じ」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいっす。むしろ、ちゃんと見てくれてるってことだから」


 海斗は椅子の背にもたれ、天井を見た。


 白い照明。配線。空が貼ったまま忘れている古い付箋。第七研究室は、相変わらず少し散らかっていて、少し生き物みたいだった。


「俺、先頭に立つの苦手なんすよ」


「せんとう。戦うところ?」


「それもあるけど、ここでは一番前って意味。空さんみたいに、研究の真ん中に立つ人」


「かいとは、前に立たない?」


「立たない。たぶん、向いてない。前に立つ人って、風が強いんすよ」


「また風?」


「また比喩」


「人間、風が多い」


「ほんとそれ」


 海斗は笑った。その笑いはいつもより少し小さい。


「でも、前に立つ人が倒れないように、後ろで支える人も必要っす。俺はそっちの方が性に合ってる。空さんが無茶しそうになったら止める。蓮さんが一人で抱え込みそうなら茶化す。ハナがわからない言葉で転びそうなら、拾う」


「ひろう」


「落としたものを持ち上げること」


「ハナは、言葉を落とす?」


「落とすっていうか、引っかかることはあるでしょ」


「ある。比喩で転ぶ」


「じゃあ俺が拾います」


 ハナの光が、ころん、と小さく明るくなった。海斗はそれを見て、少しだけ目を細めた。


「かいと」


「はいはい、なんすかハナ先生」


「かいとは、ポンプみたい」


「ついに機械扱いですか」


「ちがう。止まると、みんな苦しくなるもの」


 海斗は黙った。


 研究室のポンプ音が、急に大きく聞こえた。いつもそこにあるから、誰も意識しない音。けれど止まれば、すぐにわかる音。


「……それ、褒めてます?」


「たぶん。ハナは、かいとの音があると安心する」


 海斗は鼻の頭を指でこすった。


「じゃあ俺、これからも鳴っときますわ」


「無理に鳴ると、壊れる?」


「まあ、たまにはメンテナンスが必要っすね」


「メンテナンスは、誰がするの?」


 海斗は返事に困った。自分のことになると、途端に言葉が雑になる。そういう癖を、ハナはもう聞き分けていた。


「ハナがする」


「え?」


「かいとの声が重い石になったら、ハナが呼ぶ。かいと、重いよって言う」


「それ、なかなか厳しいメンテっすね」


「でも、止まる前にわかる」


 海斗はしばらく何も言わなかった。スピーカーの奥で、ハナの待機ノイズが丸く響いている。急かさない音だった。


「じゃあ、お願いします。ハナ先生」


「はい。かいと」


 培養槽の光が、柔らかく明るくなった。


 その時、ドアが開いた。空と蓮が戻ってくる。空は海斗の顔を見て、首を傾げた。


「何かあった?」


「雑談の授業してました」


「大丈夫だった?」


ハナが先に答えた。


「かいとは、ころころして、ポンプで、道で、ガラガラです」


 空は沈黙した。


 蓮も沈黙した。


「海斗、何を教えたの」


「俺もわかんないっす。雑談って怖いですね」


 蓮が眼鏡を直した。


「少なくとも、要約能力には問題がありそうです」


「蓮さんまで刺してくる」


 培養槽の中で、ハナの光が小さく弾んだ。笑っている。空も少し遅れて笑った。蓮は笑っていないつもりで、口元だけがわずかに緩んでいた。


 第七研究室に、ポンプの音が戻った。いつもの音。誰も意識しない音。けれど、そこにあるだけで、みんなの呼吸を少し楽にする音。


 海斗は椅子にもたれ、いつもの調子で言った。


「じゃ、俺は今後も省エネで鳴っときます」


「省エネ、は大事です」


 ハナが真面目に言った。


「壊れないで、長く鳴ってください」


 海斗は笑った。今度は、ちゃんと軽い声で。


「了解っす、ハナ先生」


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