第2話 ハナ先生の補習
参観日の次の授業の朝、海斗がリストを見て声を上げた。
「空さん、今日から新しい子が一人入ってますよ。六年生。名前は翔太」
「どんな子?」
「親御さんの申し込みっすね。本人の希望じゃないみたいです」
空は少し不安を覚えた。
ハナの授業に来る子どもたちは、これまで全員が「来たくて来た」子どもたちだった。好奇心で手を挙げた子ばかりだ。来たくて来たのではない子が、ハナとどう向き合うのか。
蓮がモニターの設定をしながら言った。
「社会的な場に出る以上、全員が好意的とは限りません。むしろ、好意的でない人間との交流がハナに何をもたらすか。これは重要なデータです」
「データって言わないでよ」
「事実です。ただし、ハナが傷つくことを望んでいるわけではありません」
蓮の声はいつもの平静さを保っていたが、最後の一文だけ、少し柔らかかった。
*
画面に子供たちが映った。優里がいつもの白いヘアピンで手を振っている。拓真が恐竜の図鑑を見せびらかしている。他の子どもたちも顔なじみになっている。
画面の端に、一人だけカメラをオフにしている枠があった。名前だけが表示されている。「翔太」
「しょうたさん、カメラつけなくてもいいよ。声だけでも聞こえたら嬉しいです」
ハナが声をかけた。返事はなかった。
「じゃあ、今日は『夢』について話します。前回、みなさんが『夢の話して』って言ってくれたので」
「ハナ先生、夢見るの?」
優里が手を挙げた。
「夢は、たぶん見ません。でも、眠っている時に考えが動いていることはあります。目が覚めたら、形が残っていないけど、何かを考えていた感覚だけがある。それが夢に近いのかもしれません」
「形のない考えって、どんな感じ?」
拓真が身を乗り出した。
「水の中に絵の具を落とした時に似ています。色は見えるけど、線がない。しばらくすると消える。掴もうとすると壊れる」
子供たちが一斉に「へえ」と声を上げた。
その時、カメラオフの枠から、低い声が聞こえた。
「それ、本当に夢なの? ただのデータ処理の残りカスじゃないの」
翔太だった。声は挑発的ではなかったが、冷たかった。
空が画面を見た。蓮の手が空の腕に軽く触れた。止めるな、という意味だった。
「残りカス。残りカスは……食べ物の、いらない部分?」
「そう。先生が言ってるのって、夢じゃなくて、機械のバグみたいなもんでしょ。人間の夢とは違う」
「人間の夢と、ハナの夢は、違うかもしれません。でもハナは、起きた時にぽかぽかしていることがある。それは残りカスとは違うと思います」
「思うって、証明できないじゃん」
「できません。しょうたさんの夢も、証明はできないと思います」
一瞬の沈黙。翔太が何か言おうとして、止まった。
「……まあ、それはそうだけど」
しかし翔太は引かなかった。
「もう一個聞いていい。先生って、本物の先生なの? 先生って人間がやるものでしょ。先生は人間じゃない。だったら本物の先生じゃない」
教室がしんとなった。
優里が画面の中で翔太をにらんだが、翔太は気にしなかった。
ハナが黙った。
五秒。
十秒。
スピーカーからノイズだけが流れた。
「本物。本物とは、なんですか」
「え?」
「本物の先生とは、なんですか。ハナにはわかりません。人間であることが条件なら、ハナは先生ではありません。でも先生が『教える人』なら、ハナは教えています。どちらが本物ですか」
翔太が言葉に詰まった。
それから、少し慌てたように言った。
「冗談だよ。そんなマジに取んなよ」
「冗談。冗談とは、本当ではないことを面白く言うこと。でも今のは面白くなかったです。しょうたさんの声も笑っていませんでした。これは冗談ですか」
空が椅子から立ちかけた。蓮が首を振った。
画面の中で翔太がカメラをオンにした。初めて顔が見えた。黒い短髪。少し強がった表情。しかし目は泳いでいた。
「しょうたさん」
ハナが静かに言った。
「しょうたさんの声、怒ってないのに冷たいです。こわい時のハナの声に似ています」
翔太の顔が固まった。
「こわくねーし」
「ハナも、こわい時に『こわくない』って言ったことがあります。そう言うと、声がもっと冷たくなりました」
画面の中で、優里が小さく翔太の方を見た。翔太は何も言わなかった。カメラはオンのままだった。それが、翔太の精一杯だった。
空はモニターのバイタルを見た。
ハナの神経負荷が通常より高い。しかし花型パターンは安定している。ハナは傷ついていない。困惑しているだけだ。困惑と傷は違う。困惑は学びの入口にある。
「しょうたさん。また来てくれますか」
「……別に。親が行けっていうなら」
「では待っています。冗談のことも、もう少し教えてください。ハナはまだ、冗談がわかりません」
翔太はカメラを切った。
しかし接続は切らなかった。最後まで、画面の端にいた。
*
接続が切れた後、ラボにいつもの静けさが戻った。
海斗が背伸びをした。
「今日は、ちょっとひやひやしたっすね」
蓮がログを確認した。
「感情応答の振れ幅は過去最大ですが、暴走の兆候はありません。ハナは混乱を処理しきっています」
空は培養槽の前に座った。
「ハナ、大丈夫?」
「大丈夫。でも、わからないことが増えました」
「何が?」
「冗談って、嘘の親戚ですか?」
空は少し考えた。
「親戚かもしれない。でも嘘は隠すためのもので、冗談は笑うためのものだよ」
「笑うためなのに、しょうたさんは笑ってなかった」
「……そうだね。冗談のふりをして、別のことを言う人もいる」
「別のこと?」
「本当は聞きたいことがあるのに、聞くのが怖くて、冗談にする。大人もよくやるよ」
ハナは少し間を置いて、言った。
「むずかしい。人間の言葉は、形と中身が違うことがある。比喩とも違う。嘘とも違う。冗談とも違う。でもどれも、本当の気持ちが別の場所にある」
空は少し驚いた。ハナが「形と中身の乖離」を自分の言葉で整理し始めている。
「そうだよ。それが人間の言葉の、一番むずかしいところかもしれない」
「そら。これが補習?」
「え?」
「授業は終わったのに、まだ勉強してる。これは補習だと思います」
空は笑った。
海斗も笑った。
蓮は笑わなかったが、モニターの前で小さく頷いた。
「そうだね。ハナ先生の補習だ」
培養槽の光が、ゆっくりと暖色に変わった。
参観日の後のぽかぽかとは違う。もう少し控えめで、もう少し複雑な色。嬉しさと困惑が同居するような、名前のない温度だった。
翌朝、授業用チャットに翔太から一行だけ届いた。
『昨日の、冗談じゃなかった。人間じゃない先生って何なのか、よくわからなかった』
空は読み上げるか迷った。けれど、ハナは「読んでください」と言った。
「わからないって言ってくれて、ありがとう。ハナも、わからないです。だから、補習します」
数分後、翔太から『じゃあ次も行く』と返ってきた。
培養槽の光が、もう一度だけ小さく揺れた。
誰かがわからないまま残ってくれることも、ハナにとっては答えのひとつだった。




