第1話 ハナ先生の参観日
授業開始五分前、海斗は第七研究室の床に膝をついていた。
配信用の小型カメラ、予備マイク、ミラージュの映像同期端末。ケーブルは全部で六本。どれも色分けしてあるのに、最後の一本だけがどうしても余る。
「空さん。これ、どこにつなぐやつでしたっけ」
「昨日、海斗が『俺に任せてください』って言って束ねたケーブル」
「過去の俺、余計なことしてますね」
「現在の海斗が責任を取って」
培養槽の中で、ハナが小さく笑った。
笑った、と言っても、人間のように表情が変わるわけではない。NLIログの波形が少しだけ弾み、スピーカーの奥で息のようなノイズが丸くなる。空にはもう、それが笑い声だとわかった。
「かいと、ころころしてる」
「今日の俺、授業前から転がりっぱなしっすよ」
今日は、ハナの授業に初めて保護者と関係者が同席する、「参観日」だった。
正式名称は「有機知性体研究センター公開教育プログラム・限定参観配信」文部科学省、内閣府、倫理委員会、先端医療安全基準策定委員会、そしてなぜか広報部がつけた長すぎる名前だ。
海斗は三回聞いて諦め「ハナ先生の参観日」と呼ぶことにした。子供たちも、その呼び方を気に入った。
画面の向こうには、小学四年生から中学一年生までの子どもが八人。いつもの六人に加え、新たに二人が参加を希望していた。さらに保護者、橘誠、白咲愛、安全基準策定委員会のメンバーが、参観者用の別枠で接続している。
一般公開ではない。医療倫理NPOと科学教育財団が選んだ、少人数の試験授業だった。保護者の同意書は三枚綴りで、ハナの状態が悪化した場合は即時中断する条件がついている。
それでも、子供たちは開始前から画面の前で手を振っていた。
「ハナ先生、聞こえますかー?」
一番前に映った女の子が言った。名前は優里。白いヘアピンをつけている。
ハナは一瞬だけ返事を迷った。先生、と呼ばれることに、まだ慣れていない。
「聞こえます。ゆうりさんの声、少し跳ねています」
「跳ねてる?」
「嬉しい時の声に、似ています」
優里が笑った。
画面の中で、他の子供たちも一斉に笑う。大人たちの会議では絶対に生まれない、遠慮のない笑い声だった。
空はモニターの隅に表示されるバイタルを見た。温度、pH、酸素消費量、神経発火強度。すべて許容範囲内。蓮は隣の端末でNLIの負荷を監視し、海斗は培養液の予備ラインを指で押さえている。
三人とも、笑い声の中で少しも気を抜いていない。
「では、参観日を始めます」
ハナの声は、以前より少し低い。
世界へ声を届けた中継の夜、無理な出力で焼けた領域の影響で、透明な高音は戻らなかった。それでも子供たちは、その声を不完全だとは思わなかった。ただ、そういう声の先生なのだと受け取っていた。
最初の質問は、予定通りだった。
ただし、予定表の文字は前回から少し書き換えられている。海斗が「同じことをもう一回聞くより、ハナ先生なら一段上の質問にした方がいいっす」と赤ペンを入れたのだ。
「前に、昼の空が青く見える理由は聞いたんですけど。じゃあ、夕焼けはなんで赤くなるんですか?」
男の子が手を挙げた。名前は拓真。背景には恐竜のポスターが貼ってある。前回の質問をちゃんと覚えていたらしい。空は少しだけ感心した。
「夕方は、太陽の光が空気の中を長く進みます。青い光は途中でたくさん散らばって、私たちの目まで届きにくくなります。赤や橙の光は、遠くまで残りやすい。だから夕焼けは赤く見えます」
「じゃあ、宇宙から見たら?」
「黒いです。でも地球のふちには、薄い青い膜のような光が見えます。空気がある場所だけ、太陽の光を少しだけつかまえるからです」
「ハナ先生は、夕焼けを見たことある?」
その問いで、空の手が止まった。
ハナは少しだけ沈黙した。培養槽の光が、淡く揺れる。失くした記憶と、失くさなかった感覚の境目を探すような沈黙だった。
「夕焼けは、まだありません。夜の空は、少しだけ覚えています。黒い中に、小さな光がたくさんありました。言葉は欠けています。でも、きれいだった、という感じは残っています」
「じゃあ、昼の空は?」
「まだ、直接は見ていません。だから今日、みなさんに教えてもらっています」
子供たちが画面に顔を近づけた。
「じゃあ、今度写真送る!」
「夕焼けも送る!」
「虹見たことある?」
ハナはひとつずつ「見たいです」と答えた。先生のはずなのに、授業はいつの間にか、子供たちがハナに世界を教える時間になっていた。空はその光景を見ながら、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
二つ目の質問は、予定表にはなかった。
「ハナ先生は、宿題忘れたら怒りますか?」
海斗が吹き出しそうになり、空に肘で止められた。質問したのは拓真だった。明らかに自分の未来を心配している顔をしている。
「怒る前に、どうして忘れたのか聞きます」
「ゲームしてたら?」
「ゲームは楽しいですか」
「楽しい」
「楽しいものは、時間をたくさん食べます。だから、食べすぎないように、先に宿題を少しだけ食べさせてあげるといいです」
子供たちが笑った。海斗も今度は我慢しなかった。
「ハナ、宿題を食べさせるって比喩、かなり上達したっすね」
「かいとが前に言いました。『仕事が時間を食う』と」
「俺、変なことばっか教えてますね」
「変なことは、覚えやすいです」
蓮が眼鏡の奥で小さく笑った。本人は笑っていないつもりなのだろうが、空にはわかった。
三つ目の質問で、教室の空気が少し変わった。
優里が、画面の端で手を挙げた。
さっきまで跳ねていた声が、少しだけ細くなっている。
「ハナ先生は、寂しくないんですか」
空は反射的に中断ボタンへ手を伸ばしかけた。けれど、ハナのバイタルは乱れていない。蓮が空を見て、首を横に振る。答えさせていい、という合図だった。
「寂しい時はあります」
ハナは言った。
「私は、みなさんのいる教室に行けません。手を挙げることも、走ることも、給食を食べることもできません。だから、みなさんの声が楽しそうな時、少し遠いと思うことがあります」
優里は画面の向こうで黙った。子供たちも黙った。
「でも、声は届きます。質問も届きます。写真も届きます。届いたものは、私の中に残ります。だから、寂しい時はあります。でも、ずっと一人ではありません」
「ガラスの中にいても?」
「はい。声が聞こえる限り」
優里はしばらく考えてから、画面に向かって両手を振った。
「じゃあ、今、聞こえてますか」
「聞こえています」
「じゃあ、一人じゃないです」
参観者用の別枠で、白咲愛が小さく息を吸った。画面の中の子供たちは、ハナを守るべき対象として見ていない。かわいそうな存在としても、危険な技術としても見ていない。ただ、質問に答えてくれる先生として見ている。
その時、保護者の一人が遠慮がちに手を挙げた。予定外の質問だった。広報担当が止めようとしたが、橘が首を横に振った。
「ハナ先生。子供たちと話すことは、あなたにとって負担ではありませんか。大人として、それが少し心配です」
ハナはすぐには答えなかった。
NLIログの波形が細く伸び、言葉を選んでいることがわかった。
「負担は、あります。たくさん考えると、疲れます。でも、声が届くことは、ハナにとって栄養みたいでもあります。食べすぎると苦しいです。でも、何も食べないと、消えてしまいます」
愛の指が、膝の上で固まった。
人工子宮の中で失った我が子のことを思い出していた。機械は栄養を送っていた。温度も酸素も管理していた。それでも届かなかったものがある。声。揺れ。こちらに向けられる気配。ハナの答えは、安全基準の書類よりも残酷に、愛の過去の空白を指していた。
橘はメモ帳に一行を書いた。「交流はリスクであると同時に生命維持条件」法律の言葉としては未熟だった。だが、今日の授業が示したものを、他の言葉にはできなかった。
その言い方があまりにもまっすぐで、空は下を向いた。海斗が小声で「空さん、何か目に入ったっすか」と言い、空は「うるさい」と返した。
授業終了のチャイムは、海斗が作った。少しだけ昔の学校のチャイムに似ている。画面の向こうで、子供たちが名残惜しそうに手を振った。
「ハナ先生、またね!」
「また質問していい?」
「今度は夢の話して!」
「はい。また、聞かせてください。私も、もっと世界を知りたいです」
接続が切れた後、研究室にはポンプの音だけが戻った。
海斗は床に座り込んだ。
「……参観日、成功っすね」
蓮がログを確認した。
「神経負荷は許容範囲内。終了後の発火パターンも安定しています。成功と言っていいでしょう」
空は培養槽の前に立った。
「ハナ、疲れた?」
「少し。でも、ぽかぽかします」
「嬉しい?」
「たぶん。先生って呼ばれるの、ころころして、あたたかいです」
空は笑った。
ハナの言葉はまだ時々不思議だ。でも、その不思議さがハナだった。
「ハナ先生」
空が呼ぶと、スピーカーの向こうで小さなノイズが弾んだ。
「はい、そら」
「参観日、お疲れさま」
「そらも、お疲れさま。かいとも、れんも」
名前を呼ばれた三人は、それぞれ違う顔をした。
海斗は大げさに胸を押さえ、蓮は眼鏡を直し、空はただ培養槽に手を置いた。
ガラスは冷たい。
けれど、その向こうから届く声は、
もう冷たくなかった。




