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第6話 蟲の反乱 ー楽園ー

 シンガポールの空気は、甘かった。


 チャンギ空港を出た瞬間、熱帯の湿気がアッシュの肌に貼りついた。十一月の東京から来た身には、三十二度の空気は重い。


 不快ではなかった。空港の外に広がるヤシの並木と、その向こうに光る高層ビル群。すべてが清潔で、計算されていて、美しかった。


 迎えの車は黒いSUVだった。防衛科学技術庁のロゴが控えめに入っている。運転手は何も言わず、高速道路を北東に走った。窓の外をマリーナベイサンズが流れていく。観光で来たわけではないが、景色は目を引いた。


「アッシュ先輩、すごいっすね。シンガポール」


 助手席の鈴木すずき修平しゅうへいが窓に張りつくようにして外を見ている。同じ百合ゼミの後輩で、アッシュより二つ下の修士一年。童顔で、どこにいても場違いに見える愛嬌がある。


「仕事で来てるんだから、観光気分はやめろ」


「はい。でもすごいっすよ、これ」


 アッシュは窓の外を見た。


 確かにすごかった。しかし目は景色ではなく、車のダッシュボードに置かれた入構許可証に向いていた。


「BIODEFENCE RESEARCH FACILITY ― RESTRICTED AREA」

生体防衛研究施設―制限区域。


その下に小さく「Level 4 Biosecurity」の文字。


 百合先生の紹介で実現した二週間の研修だった。


 アッシュ自身が希望した。先月のゼミで「バイオAIの軍事応用は、倫理コストを上回る社会的便益がある」と主張するレポートを提出した。


 百合は一言だけ言った。「見てきなさい。何が行われているか、自分の目で」穏やかな声だったが、その目は笑っていなかった。



 施設はシンガポール北部の森林地帯の中にあった。


 周囲を三重のフェンスで囲まれた白い建物群。低層だが広大で、地上の建屋よりも地下の方がはるかに大きいと後で知った。


 正門を抜けると、エントランスホールは美術館のように静かだった。床は白い大理石。天井から自然光が降り注ぎ、壁面の水盤を水が流れている。


 受付で生体認証を済ませると、白衣の男が迎えに来た。


「ようこそ。ワン・ウェイです。施設の責任者を務めています」


 五十代半ば。痩身で、銀縁の眼鏡。笑顔は丁寧だが、目の奥に研究者特有の鋭さがある。握手の力は強かった。


常陸ひたち教授からお話は伺っています。日本のバイオAI研究の次世代を担う人材だと」


「過分なご紹介で。まだ学生ですから」


「学生だからこそ、見るべきものがある。固定観念がないうちに」


 ワン博士はアッシュと鈴木を施設の中央通路に案内した。両側にガラス張りの研究室が並んでいる。恒温制御された空気が一定のリズムで循環している。清潔。静謐せいひつ。すべてが管理されている。


「我々の研究対象を紹介しましょう」


 地下一階の大型飼育室。


 ワン博士がガラスの向こうを示した。


 暗い部屋の中に、赤い光が無数に並んでいた。


 マダガスカルゴキブリ――施設では単に「むし」と呼ばれていた。


 体長約四センチの黒褐色の昆虫。はねを持たない種で、背中に小さな基板が埋め込まれている。基板の中央に赤いLEDが一つずつ点灯し、暗闇の中で星座のように整列していた。


 五千匹。


 整然と、一匹の乱れもなく、格子状に並んでいる。


「……全部、生きてるんですか」


 鈴木が声を落とした。


「生きています。そしてこの五千匹が、一つのネットワークとして機能している」


 ワン博士がタブレットを操作すると、赤い光の群れが一斉に動いた。波のように。左から右へ、整然と流れる赤い光の帯。五千匹が同時に、同じ方向に、同じ速度で移動している。


 生き物の群れとは思えない精度だった。


「制御しているのは、ロザリンドというAIシステムです」


 ロザリンドの制御室は地下二階にあった。


 サーバーラックが壁面を埋め、中央のモニターに五千の光点がリアルタイムで表示されている。各個体の位置、心拍数、脳波パターン、体温。すべてが数値化されている。


「報酬ハッキング。聞いたことは?」


ワン博士がアッシュに問いかけた。アッシュは頷いた。論文で読んでいる。


「各個体の脳に導電性ポリマーハイドロゲルを注入し、報酬系を外部から制御する。直接命令するのではなく、『右に行くと気持ちいい』と錯覚させる。個体は自分の意志で動いていると思い込んでいる」


「正確です。ロザリンドはその報酬信号を五千匹に同時送信し、群体としての協調行動を実現しています」


 アッシュはモニターを見つめた。


 五千の光点が、一つのパターンを描いて動いている。美しかった。しかし同時に、言い知れない違和感があった。


 これは支配だ。


 自分の意志で動いていると思い込まされた五千の命。一匹一匹に神経があり、心拍があり、体温がある。それぞれが「気持ちいい」と感じて走っている。しかしその「気持ちいい」は外から書き込まれたものだ。


 アッシュはその思考を口にしなかった。


 研修初日に施設長の研究を批判する度胸はなかった。



 ヨハン・ライナーに出会ったのは、施設の食堂だった。


 昼食時、アッシュと鈴木が所在なくトレイを持っていると、隣のテーブルから声がかかった。


「日本から来た学生さんだね? ここ、座りなよ」


 大柄なドイツ人だった。金髪を短く刈り込み、日焼けした顔に人懐こい笑みを浮かべている。白衣の胸ポケットに「Dr. J. Reiner ― Entomology」の名札。


「ヨハン・ライナー。昆虫が専門だ。こいつらと十五年の付き合いでね、もう家族みたいなもんだよ」


 笑いながらサンドイッチを差し出した。ツナとレタス。


「食堂のは量が少ないだろ。研修生はいつも腹を空かせてる」


ヨハンは施設の中では珍しい部類の人間だった。ワン博士や他の研究員が「データ」と「性能」の言葉で蟲を語る中、ヨハンだけが「個体」という言葉を使った。


「こいつらは面白い生き物だよ。翅がないから飛べない。代わりに鳴く。腹部の気門から空気を押し出して、シューッと音を出すんだ。怒ってる時、求愛の時、それぞれ鳴き方が違う。個体によっても違う。個性があるんだ」


「個性、ですか」


「もちろん。名前はつけないけどね。五千匹に名前をつけたら仕事にならない。まとめて『子供たち』さ。手のかかる子供が五千匹」


 ヨハンが笑った。


 デスクの上に娘の写真を飾っていることを、アッシュはこの時まだ知らなかった。ミュンヘンにいる四歳の娘。金髪で、父親と同じ笑い方をする女の子。ヨハンが毎晩ビデオ通話で娘に昆虫の話をしていることも。


「ワン博士の研究は素晴らしい。軍事応用は僕の本意じゃないが、群体制御の技術は災害救助に革命を起こせる。百匹の蟲が瓦礫の下を這い回って、生存者を七分で見つける。ドローンの十倍速い。バナナ一切れで数日動く。素晴らしいだろう?」


「ただし――」


 ヨハンの声が少しだけ低くなった。


「報酬ハッキングには限界がある。脳を演算リソースとして使いすぎると、三ヶ月で個体が壊死えしする。焼き切れるんだ。ロザリンドが賢くなるほど、個体の消耗が早くなる。ワン博士はそれを『コスト』と呼ぶ。僕は……そうは呼べない」


 ヨハンはサンドイッチの最後の一切れを食べ、立ち上がった。


「まあ、難しい話は後にしよう。午後のデモを見たら、きっと驚くよ。あれを見れば、この研究の可能性がわかる」


 午後のデモンストレーションは、圧巻だった。


 施設の訓練フロアに倒壊家屋を模した障害物が組まれ、その中に体温を模したヒーターが三箇所に設置されている。「生存者」に見立てた熱源だ。


 ワン博士がロザリンドに指示を出した。百匹の蟲が一斉に障害物に散った。赤いLEDの光が瓦礫の隙間を流れていく。壁を這い、天井を走り、人間には通れない数センチの隙間に入り込む。


 七分。


 三箇所の「生存者」すべてが特定された。最新の災害救助ドローンが同じ訓練で一時間かかるコースを、百匹の蟲が七分で制覇した。


 ラジャ大尉が腕を組んで頷いた。


 軍服の胸に勲章が並んでいる。その目は蟲ではなく、モニターの数字を見ていた。


「コスト対効果は」


「飼育コストは一匹あたり月〇・五ドル。バナナ一切れで数日稼働します」


「ドローンの千分の一以下か」


 ラジャ大尉は満足そうに頷いた。


 アッシュは隣で拍手しながら、ヨハンの言葉を思い出していた。「三ヶ月で個体が壊死する」デモの裏側にあるその数字を、ラジャ大尉は聞いていない。あるいは聞いた上で、「コスト」として計上しているのかもしれない。



 研修初日の夜。


 アッシュは宿舎の個室でノートPCを開いた。


 百合先生への報告メールを書く。


 施設の概要、ロザリンドの仕様、報酬ハッキングの実態。書きながら、あの違和感が言葉にならないことに気づいた。


 技術としては驚異的だ。


 災害救助への応用可能性は本物だ。しかし――五千匹の命を「自発的に」走らせる技術。「気持ちいい」と思い込ませる技術。


 それは科学なのか、それとも。


 窓の外で虫が鳴いていた。


 シンガポールの夜は虫の声が濃い。人工の赤い光ではなく、本物の闇の中で、本物の声で鳴いている虫。あの飼育室の五千匹は、もう鳴かないのだろうか。鳴きたくても、報酬ハッキングが「鳴かない方が気持ちいい」と書き換えているのだろうか。


 アッシュはメールの最後にこう書いた。


「先生。ここは楽園のように美しい施設です。しかし楽園の果実には、まだ見えていない毒があるかもしれません」


 送信ボタンを押す前に、最後の一文を消した。


 研修生が施設を批判する文面を送れば、百合先生に迷惑がかかる。アッシュはメールを事実の報告だけに書き直し、送信した。


 消した一文が、正しかったことを知るのは、翌日の夜だった。


 ベッドに横になると、枕が湿っぽかった。除湿器の唸りが低く響いている。窓の外から蛙の声が聞こえる。日本の蛙とは違う、金属的な高音。ここは日本から五千キロ離れた場所だ。


 アッシュはスマートフォンで娘の写真を見せてくれたヨハンの顔を思い出した。


 あの穏やかな笑顔と、「コスト」という言葉を口にした時の苦い目。どちらが本当のヨハンなのかと考えたが、どちらも本当なのだろう。


 優しさと苦さは矛盾しない。


 むしろ、優しい人間だけが苦さを感じる。


 目を閉じた。


 瞼の裏に、五千の赤い光が並んでいる。


 深夜でも。


 アッシュが眠る時間でも。


 蟲に休息はない。


 ロザリンドに夜はない。


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