第11話 蟲の反乱 ー灰ー
機内食が配られた。
鶏肉のテリヤキとライス。プラスチックのトレイに並んだ食事を、アッシュは見つめていた。
フォークを手に取った。
口に運べなかった。
施設の食堂で食べた昼食を思い出した。ヨハンがツナサンドを差し出してくれた食堂。「食堂のは量が少ないだろ」と言って笑った顔。あの笑顔は、もうどこにもない。
フォークを置き、窓の外を見た。
雲海が広がっている。
白い雲が果てしなく続いている。その白さが、あの五千のLEDの白さと重なって、窓のシェードを下ろした。
手の甲の傷が痛んだ。
あの夜、非常扉を閉めた時にドア枠で抉った傷。消毒液を塗った時に医師が言った。「傷は残るかもしれません」この傷がいつまで残るのか、この時のアッシュにはわからなかった。
隣の席で、鈴木が眠っている。
寝顔が穏やかだった。若い。まだ二十三歳。この子は立ち直れるだろうか。アッシュは自分が立ち直れるかどうかすら、わからなかった。
鞄の中に手を入れた。赤いクリアフォルダに指が触れた。ヨハンが死の直前に託した三年分の報酬ハッキング研究データ。紙の束の重さが、手のひらに伝わる。
一週間前のことを、アッシュは思い出していた。
*
三十八時間後。
施設の扉が開いた。
軍の防護服を着た隊員がアッシュと鈴木を安全区画から救出した。外に出ると、シンガポールの朝日が目を灼いた。
二日間、ブラインドを閉め切った薄暗い部屋にいた目には、熱帯の太陽が刺すように明るかった。
救急車に乗せられる前に、アッシュは一度だけ施設を振り返った。
白い建物群は無傷に見えた。
外壁に焼け跡はない。窓が割れてもいない。美しい熱帯の森の中に、きれいな白い建物が立っている。中で何が起きたのか、外からはわからない。楽園は、楽園の顔をしたまま立っていた。
施設の正面玄関から、軍の隊員が黒いビニール袋を運び出していた。
一つ。二つ。三つ。三つの袋。三つの名前。
ヨハン・ライナー。
タン・メイリン。
サラ・チェン。
袋は担架の上に丁寧に置かれたが、その丁寧さは、中身がもう人間として扱えないほど損傷していることの裏返しだった。
アッシュは目を逸らせなかった。
逸らしてはいけないと思った。見ることが、今の自分にできる最後の敬意だった。
*
救急車の中で、アッシュは毛布にくるまっていた。
熱帯の気温なのに寒い。体温が下がっている。ストレス反応だと医師が言った。点滴の針が腕に刺さっている。鈴木は隣の救急車に乗せられた。担架の上で、まだ泣いていた。
医師がアッシュの手の甲の傷を確認した。消毒液が沁みた。医師は丁寧にガーゼを巻いてくれたが、アッシュにはその丁寧さが別の場所で使われるべきものに思えた。
「他に痛いところは?」
「ありません」
嘘だった。
身体のあちこちが痛んでいた。だが、医師に説明できる種類の痛みではなかった。三十八時間分の記憶と、ヨハンの声が途切れた瞬間が、体の奥に残っていた。
救急車が走り出した。
窓の外にシンガポールの街並みが流れていく。通勤の車。朝食を買いに行く人。犬の散歩をする老人。世界は何事もなく動いている。三十八時間の地獄は、この街のどこにも痕跡を残していない。ヨハンが死んだことを、犬の散歩をしている老人は知らない。
*
ヨハンの遺体は、標本室の入口付近で発見された。
部屋は驚くほど静かだった。蟲はすべて処分された後だ。蒸気と殺虫剤の匂いが残っている。壁に蟲の薄黄色の体液のシミが点々と残っていた。
床に、ヨハンの白衣が落ちていた。
白衣だけが。遺体はすでに搬出されていた。
白衣のポケットに手を入れた。サンドイッチの包み紙が入っていた。昨日の昼食の残り。ヨハンは最後の食事を終えてから死んだのか。それとも食べる暇もなく死んだのか。包み紙を握りしめると、乾いた音が手の中で潰れた。
遺体は千を超える蟲の脚の跡で覆われていた。窒息死。報告書には「群体による気道閉塞」と記載された。
蟲たちはヨハンの上を通り過ぎただけだ。攻撃したのではない。移動経路上に人間がいただけだ。ロザリンドにとって、ヨハンは「障害物」だった。
排除すべきバグ。
ヨハンのデスクには、娘の写真が飾られていた。
フレームにひびが入っていたが、写真は無事だった。金髪の四歳の女の子が、父親と同じ笑い方で笑っている。
アッシュは写真を手に取り、長い間見つめた。
ヨハンの娘の名前はエマ。四歳。もうすぐ五歳の誕生日だとヨハンが言っていた。プレゼントは昆虫図鑑を買ったと。「エマはまだ虫が怖いんだ。でもパパの仕事が虫の仕事だって知ってるから、怖くないふりをしてくれる。その健気さがたまらないんだよ」
アッシュは写真をポケットにしまった。
エマに届けなければならない。ヨハンの最後の言葉と一緒に。「パパは虫さんと一緒にいるから大丈夫だって」嘘だけど、四歳には十分だと言った男の、最後の優しさ。
赤いクリアフォルダは、デスクの引き出しに入っていた。三年分の報酬ハッキング研究データ。ヨハンが死の直前に託した遺言。アッシュはフォルダを鞄にしまった。
*
ワン博士は拘束された。
シンガポール政府は施設の閉鎖を即日決定し、ワン博士を過失致死の容疑で取り調べた。取り調べの中でワン博士は「外部の技術顧問から受け取った最適化パラメータに従っただけだ」と供述したが、顧問の身元を特定する記録は残っておらず、この供述は責任転嫁として退けられた。
ロザリンドのサーバーは物理的に破壊された。
残存した蟲も全個体が処分された。
ヨハンが託した赤いクリアフォルダの中には、ロザリンドに送信された最適化パラメータのログも紛れていた。送信元は匿名のリレーサーバー経由だったが、経路の一部に、シンガポール国外の国内IPアドレスが混在していた。アッシュはまだそれに気づいていなかった。
三名の研究員が死亡。
十一名が重傷。
ヨハン・ライナー。タン・メイリン。サラ・チェン。三つの名前が報告書に刻まれた。
事件は全世界に報道され、「ジュネーブAI意識条約」制定の直接的な契機となった。
*
帰国の便は、事件から一週間後だった。
チャンギ空港で、アッシュは手の甲の傷を見つめていた。シンガポールの空を見る。
青く、高く、美しかった。
搭乗口の向かいの売店で、子供がゴキブリのおもちゃを母親にねだっていた。プラスチック製のリモコンゴキブリ。黒い体に赤いボタン。子供が笑いながらおもちゃを走らせている。母親が「やめなさい、気持ち悪い」と笑っている。
アッシュは目を逸らした。
手の甲の傷が痛んだ。
そして今、三万フィートの上空。
赤いクリアフォルダを鞄から取り出した。
中身は見なかった。まだ見る準備ができていなかった。しかしフォルダの重さを手のひらで確かめた。
三年分のデータの重さ。
ヨハンの命の重さ。
このデータが世界に出れば、報酬ハッキングの限界が科学的に証明される。ヨハンの死は、少なくとも無駄にはならない。
フォルダを鞄に戻し、機内食のパンだけを食べた。パンは柔らかく、何の味もしなかった。
鈴木が目を覚ました。
「先輩」
「うん」
「僕たちは何のためにあそこに行ったんでしょう」
二日目の夜に鈴木が発した問いと同じ言葉だった。
意味が変わっていた。
あの時は混乱の中の叫びだった。今は、答えを求める問いだった。
「見るためだ。何が起きるかを」
「見ました。それで、先輩は何を思いましたか」
アッシュは窓のシェードを少しだけ上げた。雲海の隙間から、海が光っていた。
アッシュの中には、答えが一つだけ残っていた。
管理しなければ、命は暴走する。
自由にすれば、破滅が来る。
ヨハンの笑顔が、その信念を裏付けている。
しかしその答えは、密室の熱と、ヨハンの途切れた声と、白い光の列から生まれたものだった。
傷は時々、出来事の輪郭を黒く塗りつぶす。
本当に自由が破滅を生んだのか。それとも、支配が限界を越えた時、命が最後に牙を剥いただけだったのか。
その問いの答えが届くのは、まだ先の話だ。
*
百合のもとに報告書とヨハンの赤いクリアフォルダが届いたのは、アッシュの帰国から三日後だった。
百合はヨハンのデータを最後まで読み、フォルダを閉じた。窓の外を見た。ネオ横浜の海が、冬の光で白く光っていた。
百合はフォルダの表紙に付箋を貼る。
短い一文だけを書いた。
「支配と対話は同じではない」
それは、ヨハンのデータを読み終えた百合が、あの惨劇の中から辛うじて拾い上げた、ひとつの仮説だった。命を従わせる技術ではなく、命の応答を待つ技術があり得るのではないか。
その問いは七年後、天音空がNLIの設計図の余白に引いた、最初の線になる。
――蟲の反乱 完――




