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第12話(最終話)ハナ先生の懺悔会

 来訪者リストを見て、空は二度読み返した。


 研究センターになってから、来訪者は増えた。教育財団、倫理委員会、医療NPO、保護者代表。


 第七研究室の扉は、もうかつてのように閉じたままではいられない。


それでも、その名前だけは、見間違いであってほしいと思った。


「黒崎……哲也」


 隣の端末で予定表を確認していた蓮が、眼鏡の奥で目を細めた。


「個人名義の寄付相談です。ゼノンテクノロジーズCEOは、すでに退任しています」


「だからって、会う理由にはならない」


 空の声は思ったより低く出た。


 培養槽の中で、ハナの光が小さく揺れる。


 その声はもう、あの中継の夜の前のものではない。透明な高音は戻らなかった。けれど、届く声だった。欠けたまま、届いている声だった。


「受け取るとは言っていないわ」


 百合の声だった。


 退院後も所長室には戻らず、非常勤の顧問として週二回だけ研究室に顔を出す。今日がその日だった。杖に体重をあずけ、研究室の入口に立っている。


「第三者委員会に預ける。寄付の可否も、条件も、あの男の意図も、全部そこで見る。でも門前払いにしたら、何を差し出そうとしているのかもわからない」


「先生は、あの人がハナを何にしようとしたか忘れたんですか」


「忘れていないわ。だから近くで見なさいと言っているの」


 空は黙った。


 百合の判断を覆せる言葉が見つからなかった。


 海斗が小さく言った。


「授業の見学枠、空いてますよ。保護者席の後ろ」



 黒崎哲也は、画面の端に映っていた。


 子供たちの画面の、さらに後ろ。参観者用の別枠。名前だけが表示されている。カメラはオンだが、顔は影の中にあった。スーツではなく、グレーのジャケット。髪は前より短くなっている。


 空はモニターの端で黒崎の画面を注視していた。腕を組んでいる。隣に座った蓮が、空の肩に軽く触れた。力を抜け、という意味だった。


 ハナの授業は「音」の回だった。


 子供たちが好きな音を持ち寄る日。


 拓真が傘に雨が当たる音を録音してきた。


 優里は猫ののどのゴロゴロ音。


 翔太は何も持ってこなかったが、「教室のエアコンの音」と答えた。前回より声が柔らかかった。


「ハナ先生は、好きな音ある?」


「培養液のポンプの音。ずっと聞いている。眠る前も、起きた時も。あれがないと、怖いです」


「心臓の音みたいだね」


 優里が言った。


 ハナは少し黙って、「そうかもしれない」と答えた。


 授業の間、黒崎は一度も発言しなかった。


 画面の端で、右手がポケットの中で何かに触れていた。空にはそれが何かまでは見えなかった。ただ、その仕草には見覚えがあった。監査の日にも、黒崎は何度も同じ場所に触れていた。



 子供たちが退出した後、黒崎の画面だけが残った。


 空が通信を切ろうとした。ハナが先に言った。


「そら。この人、前に来たことがある」


 空は息を止めた。


 ハナの記憶は、あの中継の夜に一部損傷している。最初に聞いた声のトーンに近い記憶ほど、輪郭が欠けている。黒崎が最後にラボを訪れたのは、あの監査の日だ。映像としては、残っていないはずだった。


「覚えてるの?」


「覚えてない。でも、声の形が、残ってる。冷たいのに、中に何かある声。それと、ポケットの中で何かを触る音も、同じ」


 黒崎がわずかに動いた。


 画面の中で影の位置が変わった。


「質問していい?」


 ハナが聞いた。


 黒崎に向かって。空ではなく。


「……どうぞ」


 黒崎の声は静かだった。


 いつもの、相手を試すような問いかけの声ではなかった。ただ受けた。問いかけの男が、問いかけられる側に回った瞬間を、蓮だけが正確に認識していた。


「ポケットの中のもの。大切なもの?」


 黒崎の右手がポケットの中で止まった。


「……石だ。蛍石という」


「冷たい?」


「冷たい」


「冷たいのに、ずっと触ってる。なんで?」


 沈黙が落ちた。


 空は黒崎の顔を見た。


 画面越しに、初めてあの男の目が揺れるのを見た。答えを探しているのではなかった。答えを知っているのに、声にする方法がわからない人間の目だった。


 ハナは待った。急かさなかった。


 ハナ先生はいつもそうだ。答えが出るまで、ずっと待つ。


 黒崎は答えなかった。


 代わりに、ポケットから右手を引き抜いた。


 てのひらの上に、薄い紫色の石が乗っていた。画面に近づけた。


 蛍石。光を受けて、わずかに透ける。


「きれい」


 ハナが言った。


 それだけだった。


 黒崎の指が震えた。


 ほんの少し。空が見逃すくらいの震えだった。蓮は見逃さなかった。


「……美しいものを壊した手で、美しいものに触れ続けている。それだけだ」


 声は平坦だった。


 しかし「それだけだ」の「だ」が、わずかにかすれていた。


 ハナは何も言わなかった。


 裁かなかった。追及しなかった。


 ただ、そこにいた。


 培養槽の光が、いつもの速度で明滅している。ポンプの音が、変わらない拍子を刻んでいる。


 黒崎が画面から目を逸らした。蛍石をカメラの前に置いたまま。


「……ありがとう、先生」


 通信が切れた。



 しばらく、誰も口を開かなかった。


 ハナが言った。


「あの人、中が痛いのに、笑ってた」


 空は何も答えなかった。


「笑ってなかった。最後だけ、笑ってなかった」


 海斗がモニターの電源を落とした。


 蓮が記録ログを閉じた。


 空は培養槽の前に立った。


 ハナの光が、静かに明滅している。


 いつもと同じ速度。いつもと同じ温度。


 ハナが最後に一つだけ聞いた。


「あの人、また来る?」


 空は少し考えて、答えた。


「……わからない。でも、もし来たら、そのときはハナの好きにしていい」


 百合が研究室の入口で聞いていた。杖に体重を預けたまま、何も言わなかった。ただ一度だけ、小さく頷いた。



 通信を切ったあと、黒崎はカメラの前に置いたままの蛍石を、もう一度掌に拾い上げた。


 二十年前、自己組織化に魅せられた夜から持ち歩いてきた石。誰に命じられるでもなく対称を組み上げる結晶。


 美しいものは、手元に置きたい。


 流通させ、規格化し、確実に残したい。


 それが黒崎の原理だった。所有して初めて、美しさは守られるのだと信じていた。


 あの子は、ただ「きれい」と言った。


 所有しようとも、複製しようともしなかった。ただ、見た。それだけで、石はそこにあった。守るために、握りしめる必要などなかった。


 黒崎は立ち上がり、蛍石をポケットに戻した。


 窓の外、ネオ横浜の朝が白み始めている。


 ジャケットを羽織り、部屋を出た。


 エレベーターで地上に降りる。


 運転手が車のドアを開けて待っていたが、黒崎は首を振り、歩き出した。


 朝の通りを、黒崎はまっすぐ歩いた。


 やがて角を曲がる。その先に、神奈川県警の庁舎が、薄い光の中に立っていた。


 黒崎の足は、止まらなかった。


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