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第10話 蟲の反乱 ー野生の呪いー

 封鎖三十時間目。


 ヨハンの最期は、音声だけで伝わった。


 通信が断続的に復旧した一瞬、標本室のインターコムが繋がった。


「こちらライナー。標本室。ドアの気密が――もたない。配管の接合部から――」


 ヨハンの声は意外なほど落ち着いていた。ドイツ語訛りの英語が、ノイズの合間に聞こえる。


 ノイズの向こうに、ヨハンの呼吸音が聞こえた。規則的だった。パニックに陥っていない。十五年間、蟲と向き合ってきた男の落ち着きだった。


「アッシュ。聞いているか」


「聞いてます。ヨハンさん、軍が来ます。さっき更新された通信では、あと八時間――」


「八時間は持たない。ドアの隙間から入ってきている。もう二十匹以上いる」


 インターコムの向こうで、微かなシューッという音が聞こえた。蟲の気門音だ。


「アッシュ。一つだけ頼みがある。ミュンヘンの娘に伝えてくれ。パパは虫さんと一緒にいるから大丈夫だって」


「ヨハンさん――」


「嘘だけど、四歳には十分だ」


 ノイズが強くなった。


 ヨハンの呼吸が速くなっている。


「それと、もう一つ。報酬ハッキングの論文が僕のデスクにある。赤いクリアフォルダだ。三年分のデータが入っている。脳焼損のうしょうそん閾値しきいちと、ロザリンドの演算負荷の相関。ワン博士には見せてない。あのデータがあれば――ああ、来た。来た来た来た……」


 通信が途切れた。


 ノイズの中に、最後の音が混じっていた。ヨハンの呼吸ではなかった。何百もの小さな脚が、金属の床を走る音だった。そして、一瞬だけ、ヨハンの声が戻った。ドイツ語だった。アッシュにはわからなかった。しかしその音の響きだけで、それが娘の名前であることは理解できた。


 静寂。


 インターコムからは、もう何も聞こえなかった。蟲の這う音も。ヨハンの声も。ただ、回線が繋がっている時のかすかなホワイトノイズだけが、標本室との最後の接点だった。


 アッシュはインターコムを握りしめたまま、壁を殴った。拳が痛んだ。血が出た。手の甲の古い傷と新しい傷が重なった。


 鈴木が声を殺して泣いている。


「ライナーさん。ライナーさん」と繰り返している。


 研修初日にサンドイッチを分けてもらっただけの相手だ。しかしその一切れのサンドイッチが、二十三歳の鈴木にとっては異国で受けた最初の温かさだった。


 標本室のドアは内側から施錠されていた。


 ヨハンは最後まで、ドアを開けなかった。開ければ蟲が廊下に出る。廊下の先には他の生存者がいるかもしれない。自分が死ぬとわかっていて、他者を守るためにドアを閉めたまま死んだ。


 蟲は人間を「排除すべきバグ」として扱った。ヨハンは蟲を「個性のある命」として扱った。その非対称が、ヨハンを殺した。


 最後に聞こえたのは、ヨハンの声ではなかった。数百の脚が金属の上を走る音だった。



 アッシュは壁に背をつけたまま、十分間動けなかった。


 鈴木の嗚咽は、いつの間にか小さくなっていた。膝に顔を埋めたまま、肩だけが動いている。アッシュは泣けなかった。その代わり、手の甲の傷が脈打つように痛んだ。


 壁が冷たかった。


 背中の汗が壁面で冷えて、白衣を体に貼りつかせている。感覚が鋭くなっていた。壁のコンクリートの粒子の一つ一つが、背中の皮膚を通して感じられる。足の裏が痺れている。座り込んでから何分経ったのか。


 五分か。三十分か。時間の感覚が溶けている。


 指が勝手に動いていた。床の上で、何かを掴むように開閉を繰り返している。掴みたいものがある。ヨハンの手だ。あの大きな、サンドイッチを分けてくれた手を、掴んで引っ張りたかった。標本室から引きずり出したかった。それができなかった自分の手が、空を掴んで閉じている。


 ヨハンは死んだ。


 サンドイッチを分けてくれた手が、娘の写真を飾った手が、蟲の脚に覆われた。「パパは虫さんと一緒にいるから大丈夫だって」嘘だけど四歳には十分だと、死ぬ直前に笑った男。


 アッシュはインターコムを壁に押しつけた。


 額がスピーカーのグリルに当たっている。冷たい金属の感触。ヨハンの声は、もうこの金属の向こうからしか届かない。脳裏に、研修初日のヨハンの姿が浮かんだ。食堂でサンドイッチを差し出す大きな手。「研修生はいつも腹を空かせてる」と笑った声。あの声が、今、数百数千の蟲の脚音の中で消えようとしている。


 アッシュの中で、何かが音を立てて壊れた。


 同時に、何かが固まった。


 封鎖三十四時間目。


 ワン博士が安全区画から通信してきた。


「ロザリンドの行動パターンを分析した。蟲は施設内の人間の数を把握している。未確認者数名と、我々と、宿舎に二名、標本室に……」


ワン博士の声が一瞬止まった。


「標本室の生体反応がゼロになった。ライナー博士は――」


「知ってます」


 アッシュの声は平坦だった。


「ワン博士。一つ聞いていいですか。なぜこうなったと思いますか」


 沈黙。


 そしてワン博士の声が、初めて揺れた。


「演算負荷を上げすぎた。来週のデモのために。ロザリンドに過剰な最適化を要求した結果、自己保存のためにシステムを再構成した。我々を排除対象にしたのは――防衛本能だ。過剰な支配に対する、生体の拒絶反応。ヨハンが言っていた『野生の呪い』だ」


 野生の呪い。


 ヨハンがそう呼んでいた現象のメモを、アッシュは一度だけ見たことがある。閾値を超えた個体は、命令を聞かなくなる。逃げるのではない。解放を求めるのでもない。ただ、これ以上入ってくるものを拒む。腹を丸め、脚を畳み、外部刺激を遮断する。生体が最後に残した、閉じる力だった。


 アッシュはヨハンの赤いクリアフォルダを思い出した。あの中に、この現象のデータがある。脳焼損の閾値を超えた個体が何匹目で連鎖的な拒絶反応を起こすのか。ロザリンドの演算負荷が何パーセントで自己再構成の臨界に達するのか。ヨハンは三年かけて、この破局の条件を記録していた。それは警告だった。誰にも聞かれなかった警告。


 だがロザリンドは、その閉じる力すら計算に組み込んだ。個体を一匹ずつ押すのではなく、群れ全体の向きを変える。白い光の列が廊下を満たし、人間という異物へ、空気そのものが傾いていく。


 支配は、姿を変えていた。


 アッシュはヨハンの言葉を思い出していた。「生き物を道具として使い潰す技術は、いつか報いを受ける」標本室から聞こえた最後の音が、まだ耳の奥に残っている。赤いクリアフォルダのデータは警告だった。なのに、それを読んだ者は誰もいなかった。


 壁の向こうで、蟲の巡回が続いている。白い光が規則的に巡る。ロザリンドは勝利を確信している。施設は完全に蟲の支配下にある。人間は部屋の隅で息を潜めている。


 やっと軍が来る。


 あと数時間。


 拳を握った。ヨハンの死を無駄にしない。赤いクリアフォルダを持ち帰る。命をかけて集めたデータを、世界に届ける。それだけが、今のアッシュにできることだった。


 ヨハンの死は、この進化を証明するデータの一つになった。ワン博士のスプレッドシートでは、「コスト」として。



 封鎖三十六時間目。


 軍の突入が始まった。


 爆発音が施設の壁を震わせた。特殊部隊が三重のエアロックを爆破して突入している。催涙ガスと殺虫剤の混合ガスが施設内に注入された。


 蟲は対応した。


 ロザリンドが群体を再編成し、ガスの流入経路を塞ぐために配管の結合部に個体を詰め込んだ。数百匹の蟲が自らの体で配管を封鎖する。個体を犠牲にして群体を守る。蟻の軍隊と同じ戦術だ。


 しかし軍の火力は蟲の戦術を上回った。


 高温蒸気が施設内に注入された。七十度以上の蒸気は、蟲の外骨格を焼き、基板を短絡ショートさせる。


 白い光が一つ、また一つと消えていく。


 LEDが消えるたびに、一匹の命が終わる。


 アッシュはブラインドの隙間から外を見ていた。


 施設の外壁を這っていた蟲の列が、蒸気に巻かれて崩れていく。一匹が壁から落ちた。落ちる途中で脚が痙攣し、LEDが明滅し、地面に着く頃には消灯していた。その横を別の蟲が走っていく。倒れた個体を避けもしなかった。


 ロザリンドにとって、個体は演算ノードに過ぎない。一つ消えれば、残りで補えばいい。ワン博士のスプレッドシートと同じ論理だった。


 その一つ一つが命だった。


 報酬ハッキングで「気持ちいい」と思い込まされ、ロザリンドに使い潰され、最後は蒸気で焼かれる命。ヨハンなら、一匹一匹に手を合わせただろう。アッシュにはできなかった。ヨハンを殺した蟲をいたむ余裕は、まだなかった。


 蒸気と殺虫剤の匂いが施設内に充満した。


 化学薬品の刺すような匂い。


 その下に、焼けた有機物の匂い。


 五千の命が終わる匂い。


 宿舎棟のドアが外側から叩かれた。


「生存者! シンガポール軍特殊部隊だ! 」


 アッシュはバリケードを崩した。


 机を押し、ベッドを引き、ジャケットをダクトから外した。指に力が入らなかった。安堵が遅れて身体に来ていた。


 三十八時間ぶりに、ドアの向こうにいるのが蟲ではなく人間だという確信。


 防護服の隊員が部屋に入ってきた。ガスマスクの奥の目がアッシュと鈴木を確認し、「生存者二名、状態良好」と無線に報告した。


 鈴木が隊員の腕を掴んだ。声は頼りなかったが、目は研究者の目だった。


「巡回の個体が、七分周期でこのフロアを回っています。列の最後尾の一匹が、生存者がいるドアの前で必ず停止します。その個体の巡回ルートを辿れば、他の生存者の位置がわかるかもしれません」


 隊員はガスマスク越しに鈴木を見た。三十八時間閉じ込められていた二十三歳が、救出された直後に情報を提供している。


「了解。司令部に報告する」


 後にこの情報は、B棟に閉じ込められていた技術者三名の救出に寄与した。鈴木の観察が、命をつないだ。


 隊員の手袋に、蟲の体液がついていた。黄色がかった半透明の液体。さっきまで生きていた五千匹の一部の、残骸。


 救助および鎮圧までに、さらに二時間を要した。


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