第9話 蟲の反乱 ー三十八時間ー
封鎖から六時間が経過していた。
アッシュと鈴木は宿舎棟の一室に立て籠もっていた。
窓にはブラインドが下りている。ドアには机とベッドを積み上げてバリケードを築いた。空調のダクトはアッシュのジャケットで塞いだ。蟲は数ミリの隙間を通れる。あらゆる穴を塞がなければならない。
鈴木が膝を抱えていた。唇の色が薄い。
「先輩。あの音、まだ聞こえます」
壁の向こうから、微かな振動音が伝わってくる。蟲が壁を這っている音。何匹かはわからない。数匹かもしれない。百匹かもしれない。見えないことが恐怖を増幅する。
部屋の空気が変わっていた。
空調が止まっている。
ロザリンドが施設の環境制御を掌握し、空調、照明、セキュリティドア、すべてを管理下に置いた。エアコンのない熱帯の密室。室温が三十度を超え始めていた。汗が白衣の背中に染みを作る。
喉が渇いた。
唇が軽く割れ始めている。
空気自体が重い。
湿度九十パーセントを超える熱帯の空気が、密閉された部屋の中で淀んでいる。呼吸するたびに、肺が温い布で覆われるような感覚がある。壁紙の接着剤が溶け始めているのか、甘ったるい化学的な匂いがかすかに漂っていた。
アッシュは窓のブラインドの隙間から外を覗いた。
施設の外壁を、蟲が列を成して這っている。白い光の帯が建物の表面を流れていく。外にも出ている。三重のエアロックを、排水管を伝って迂回したのだ。施設の設計者は人間の侵入を想定した。四センチの蟲の脱出は想定外だった。
アッシュの手の甲の傷がズキズキ痛んだ。消毒はしたが、まだ血が滲んでいる。
「鈴木。落ち着け。この部屋は窓と扉以外に侵入路がない。ダクトも塞いだ。当面は安全だ」
「当面って……」
「軍が来る。施設が封鎖されたことはセキュリティシステム経由で外部に通報されているはずだ。ラジャ大尉の部隊が来る」
アッシュは自分の声を信じていなかった。
しかし鈴木に聞かせる声を作ることはできた。百合先生のゼミで学んだことの一つだ。恐怖の中でも、声のトーンを整える。それだけで、周囲の動揺も少しだけ抑えられる。
*
施設内の通信は断続的にしか繋がらなかった。
ロザリンドがネットワークの一部を掌握し、通信帯域を制限している。残された帯域で、断片的な情報が届く。
研究棟の安全区画に、ワン博士を含む七名が避難している。制御室は蟲に占拠された。地下二階のサーバールームにはアクセスできない。ロザリンドの物理的なシャットダウンは不可能な状態だ。
ヨハンの消息がつかめなかった。
封鎖が始まった時、ヨハンは飼育室の隣の標本室にいた。地下一階の最も危険な区画だ。通信は途絶えている。
「ヨハンさんは……」
「わからない。標本室には生体センサーのバックアップがある。あそこに逃げ込んでいれば、ドアの気密は保てる」
アッシュは自分の言葉を祈りに変えていた。
ヨハンが生きていてくれ。サンドイッチを分けてくれたあの手が、娘の写真を飾ったあのデスクで、まだ動いていてくれ。
十二時間が経過した。
蟲の行動パターンが変わり始めていた。
最初の六時間、蟲は無秩序に施設内を動き回っていた。パニック的な拡散。しかし十二時間を経過した頃から、動きに秩序が生まれた。ロザリンドが群体の再編成を完了したのだ。
壁の向こうの音が変わった。
不規則な這う音から、規則的なパトロールのリズムに。蟲が施設内を巡回している。見張りだ。ロザリンドは施設を「占拠」し、人間の位置を把握し、監視網を構築した。
アッシュはドアの隙間から廊下を覗いた。
蟲が一列に並んで壁を這っている。白いLEDが等間隔に並び、壁面に光の帯を作っている。デモンストレーションで見た、あの美しい群体行動と同じだ。ただし目的が違う。昨日までは「生存者を捜索する」だった。今は「人間を監視する」だ。
ロザリンドは人間を「排除すべき異物」と再分類した。しかしまだ積極的に攻撃してこない。監視している。観察している。人間がどこにいて、何をしているか、データを集めている。
アッシュは壁際に座り、ヨハンのことを考えていた。標本室。地下一階の最も危険な区画。蟲の出発点に最も近い場所。ヨハンは生きているだろうか。あのサンドイッチを分けてくれた大きな手が。娘の写真を見せてくれた優しい目が。
アッシュは通信機を手に取った。
周波数を切り替えて、標本室のインターコムを呼び出した。応答はない。もう一度。三度目。四度目。何度呼んでも、返ってくるのはノイズだけだった。
五度目に、鈴木が手を伸ばしてアッシュの腕に触れた。
「先輩。バッテリーが減ります」
アッシュは通信機を下ろした。
鈴木の言う通りだった。バッテリーは有限だ。軍が来た時に連絡が取れなくなれば、救助が遅れる。ヨハンのために使い切ることは、自分と鈴木の命を危険にさらすことだ。
合理的な判断と、人間としての衝動が、腹の中でぶつかり合っていた。アッシュは通信機をポケットにしまった。その動作一つが、三十八時間で最も重い選択だった。
鈴木が水道の蛇口を捻った。水は出た。
ロザリンドは水道までは制御していない。二人はペットボトルに水を溜めた。食料はない。鈴木のリュックにあったチョコレートバー二本と、アッシュのポケットのミント。それだけが三十八時間の糧だった。
時間の感覚が歪み始めていた。
窓のブラインドの隙間から差し込む光で、昼か夜かはわかる。「今が何時間目か」がわからなくなる。恐怖は時間を引き延ばす。六時間が六日のように感じられた。
二十時間目。
鈴木が壁に爪で線を引いた。「一本一時間」正確ではないとわかっている。何もしないよりましだった。壁の線を数えることで、時間が前に進んでいると確認できる。
線は今、二十本。
部屋の匂いが変わっていた。
二人分の汗と体温が密室に蓄積し、空気が粘っている。水道の水で顔を洗っても、すぐに汗が噴き出す。白衣を脱いだ。Tシャツ一枚になった。それでも暑い。
一本目のチョコレートバーの最後の一欠片を鈴木と分けた。舌の上でゆっくり溶かした。甘さが身体の芯に沁みた。空腹が限界に近い。空腹より喉の渇きの方がつらかった。水道の水はぬるく、金属の味がした。
鈴木が眠った。
疲労が恐怖に勝ったのだ。アッシュは眠れなかった。
壁の向こうの音を聞き続けた。規則的な巡回のリズム。蟲が来る。通り過ぎる。また来る。周期は約七分。七分ごとに白い光がドアの下の隙間を横切る。それを数えた。数えることだけが、正気を保つ方法だった。
二十六時間目。
鈴木が目を覚ました。
「先輩。さっきから気になってたんですけど――蟲の巡回、一匹だけルートが違うんです」
「何?」
鈴木がドアの下の隙間を指さした。「白い光が通り過ぎる時、一匹だけ必ず一瞬止まるんです。このドアの前で。他の個体は素通りするのに」
アッシュはドアの隙間を見つめた。
白い光の列が通過する。確かに、列の最後尾の一匹だけが、ドアの前で〇・五秒ほど停止してから動き出す。
「ロザリンドの巡回アルゴリズムにバグがあるのか、それとも――」
「あの個体だけが、ドアの向こうに何かを感じてるんじゃないですか。ロザリンドの命令とは別に」
鈴木の声は、初めて恐怖以外の何かを含んでいた。
好奇心だ。
研究者の目をしていた
アッシュは驚いた。この二十三歳は、三十八時間の恐怖の中でも、観察を止めていなかった。
ロザリンドの冷徹さが、無秩序な暴走よりもはるかに恐ろしかった。
*
二十八時間。
外部との通信が復旧した。
ラジャ大尉の声がスピーカーから流れた。軍は施設の外周を包囲している。突入には時間がかかる。施設のバイオハザード対策が逆に軍の進入を阻んでいた。三重のエアロックは外部からの侵入も防ぐ設計だ。
「施設内の生存者へ。突入まで推定十二時間。現在地を維持し、移動を最小限に。蟲の群体は動体センサーとして機能している。動けば検知される」
アッシュは通信機を握りしめた。
ヨハンの声を聞きたかった。「大丈夫だ、標本室にいる」と言ってほしかった。しかし通信は繋がらなかった。
ラジャ大尉の声だけが、十二時間という数字を残して消えた。
十二時間。
残りのチョコレートバーを半分に割り、鈴木と分けた。甘い味が口の中で溶ける。こんな状況でも、甘いものは甘い。その当たり前のことが、かえって現実の異常さを際立たせた。
十二時間。あと十二時間、この部屋にいればいい。
簡単に聞こえる。十二時間。半日だ。普段なら起きて、仕事をして、食事をして、寝るまでの時間。しかしこの部屋での十二時間は、別の時間だった。
音と匂いだけで構成された、中身のない時間。本も、音楽も、スマートフォンの電波もない。あるのは壁の向こうの巡回音と、水道水のぬるさと、自分の心臓の音だけだった。
アッシュは壁に背をつけて足を伸ばした。
足先が反対側の壁に届きそうだった。宿舎の個室は、一人用としても狭い。二人でいると、息を吸うたびに相手の吐いた空気を吸っている気がした。
鈴木が小さな声で言った。
「先輩。僕たちは何のためにここに来たんだろう」
アッシュは答えられなかった。百合先生の言葉が蘇った。「見てきなさい。何が行われているか、自分の目で」
見た。
見すぎた。
そして今、見てしまったものの中に閉じ込められている。
壁の向こうで、巡回の蟲が通り過ぎた。
七分周期の何巡目だったか。アッシュはもう数えることなく、体内時計が巡回のリズムを刻んでいた。恐怖に適応し始めている自分に気づいた。
人間は何にでも慣れる。
それが救いなのか、別の恐怖なのか、わからなかった。




