今日のこと、気にしちゃダメだよ?
「・・・・・・ちゃん?」
遠くの方から微かな声が聞こえる。
「蒼ちゃん?」
再び瞼を起こすと真木の顔が至近距離にあった。
既に映画は終了し、映画館内は明るさを取り戻し、数人の客が席を立っているところだった。
やってしまった・・・・・・。
完全にやらかしてしまった・・・・・・。
思い切って二時間ぶっ通しで爆睡してしまったらしい。
夜更かしがここにきて禍するとは。
暗闇というのは自然と眠気を誘うとは聞いたことがあったけれど、これほどまでとは思いもしなかった。
「ごめん!」
俺は映画館を出るなり、叫ぶように謝った。
「い、いいよ! 結構ラッキーなこともあったし・・・・・・」
「ラッキーなこと? なんだそれ?」
俺の問いかけに真木は必死に首を振って言う。
「な、なんでもない! 今のナシ! ・・・・・・そんなことより、なんかあったの? かなり熟睡してたみたいだったけど?」
「いや、実は夜中の一時過ぎまで妹の課題見てたんだ・・・・・・。おまけにその前もオールしてたもんだから・・・・・・」
彼女が激怒してしまうことを覚悟の上で理由を説明したけれど、彼女は怒り出してしまうどころか大輪の花のような笑顔とともに言った。
「それなら仕方ないね。それならそうと言ってくれれば、明日にでもずらしたのに・・・・・・」
「いや、一度約束したんだしこっちの身勝手な都合で予定変更させるわけにもいかなかったし・・・・・・」
すると彼女は吹き出し笑いをしてから呟くように言った。
「優しいんだね」
「え?」
「だって、妹の課題の面倒を深夜まで見てくれるお兄ちゃんなんて優しいに決まってるじゃん?」
――決まってるじゃん? って言われてもなあ・・・・・・。
「んなことないと思うけど・・・・・・。それに結果こんなことになっちゃったわけだし・・・・・・」
「私もそんな優しいお兄ちゃんがほしかったなあ・・・・・・」
――あの、すみません。私の話聞いてました?
彼女は完全に自分の世界に入り込んでしまっているようだ。
その証拠(?)に、私もそんな優しいお兄ちゃんがほしいなあ、などという言葉を、胸の前で両手を組んだ状態で目を輝かせながら宣っていたのだ。
そんなとき、不意にだれかに声をかけられた。
「あれぇ~? 蒼ちゃんじゃ~ん!」
ひどく聞き覚えのある声であり、できることならもう二度と耳にしたくはなかった声だ。
その声の主がかつての誠ノ介の恋人、田丸優奈だった。
更に彼女の隣に見知らぬ二人の男と葉月の姿があり、それを目にした瞬間、足が竦んだ。
「あれれぇ? もしかしてデート中だったぁ?」
と、無遠慮に質問してくるクソ女。
葉月にいたっては視線すら合わせようとせずに黙って立っている。
「こいつだれなんだよ?」
と隣の筋肉バカが優奈に訊ねる。
すると笑いを堪えながら優奈が彼に言う。
「中学んときの知り合いの見掛け倒しのクソオタク。まあ、なんて言うのかなぁ? こういうの・・・・・・。私らの黒歴史ってやつ?」
言いざまにゲラゲラと笑い始める三人の中で、ただ無表情で佇んでいる葉月。
「あんたらなんなわけ!? 急に声かけといてその言い方‼」
堪り兼ねたように真木が口を挟む。
情けないことに俺はなにも言えずに立っているだけしかできない。
「君がこいつの彼女? ヘタレなオタクが彼氏だと大変だねぇ~?」
もう一人の見るからにチャラそうな男が訊くと、真木が以前のような威勢のよさで言い放った。
「だったらなんだって言うわけ? バカみたい。人の趣味嗜好だけで価値が決まるみたいな言い方して・・・・・・。残念な人たちに教えておいてあげる。オタクだとかそうじゃないとか、生まれとかそういうので判断してるからそんな腐ったことしか言えないのよ! そんなんじゃ一生経ったって他人のいいとこなんて一生見えないままの残念な人生だよ?」
「なんだこいつ? 偉そうなこと言って説教してるつもり? この男と一緒で脳味噌腐ってんじゃねえか? いるよな? こういう見た目だけの頭がイッちゃってるヤツって?」
脳味噌筋肉バカの言葉に俺の中のタガが外れてしまった。
「ざけんな脳味噌筋肉野郎。今の言葉、撤回しろ。頭イッてんのはテメエだろうが。だれの脳味噌が腐ってるって? あんた、偏差値十以下だろ? だから他人のことそういう風にしか言えねえんだろ?」
「んだとコラァ!? チョーシこいてんじゃねえぞ!? ブッ殺すぞテメエ!」
脳味噌筋肉男が汚い唾を飛ばしながら吐き捨てる。
そのさまを見て思わず吹き出してしまった。
「あーあーうるせえなあ・・・・・・。あれって本当だったんだな? 臆病者ほどよく吠えるって言葉・・・・・・」
「テメエだけはぜってぇ殺す!! 二度殺す!!」
そう言いながら割り込むように胸倉を掴んでくるチャラ男くん。
そしてその逆の腕が勢いよく振り上げられる。
俺はその瞬間を逃さずに頭突きで鼻っ面を捕える。
こんなやつら相手の喧嘩で勝てる気なんて更々ないけれど、最初の一発くらいなら――相手が油断している瞬間なら尚更――カウンターでどうにかなるという自信だけはあった。
チャラ男が不意打ちを喰らって数歩よろけ、鼻を抑えている。
口許から赤い液体が流れている。
どうやら出血しているらしい。
その後のことなんて知ったことじゃない。
とにかくやることはひとつだけだ。
「琴音!! 逃げろ 走れ!!」
俺が今できることはたった一つだけ。
たとえコイツらにボコボコにされてしまおうとも、その間に彼女を無事に逃がすことだけ。
彼女は俺の意図を汲んでくれたらしく身を翻して走り出した。
――そうだ。それでいい!
ちゃらんぽらん男と脳味噌きんにくんが血相を変えて凄みながら殴りかかってきた。
こうなればここでアウトだろう。
そう覚悟したけれど目だけは閉じないようにした。
そうしてしまうと完全に負けてしまうような気がしたから。
よくわからないけれどそんな気がしたんだ。
と、そのとき、目の前に黒い影が現れた。
そう思った次の瞬間、二人の男がまとめて吹っ飛んだ。
突然現れた影は物凄いスピードで二人組との距離を詰めて、それぞれの顎に一発ずつ右ストレートを見舞っていた。
〝蝶のように舞い、蜂のように刺す〟という表現がピッタリと当てはまる光景を生で見たのはこれが初めてのことだった。
最初のうちはなにが起きているのかさっぱり理解できなかったけれど、その影の正体に気付いたときには既に二人組は伸されてしまっていた。
「なんで、お前がここにいんだよ・・・・・・?」
正義の救世主が振り返るより早く後方から明るい声が飛んできた。
「いいぞー! 泰知ー! それでこそ私の弟だよー!」
俺の目の前に立っている救世主は、よく知ってるはずの安浦泰知だったのだ。
と、いうことは後ろには言うまでもなくその姉にあたる百合花がいるということになる。
「蒼ちゃん! ナイスガッツ! そして素晴らしい判断だったよ! 俺、感動しちゃった! おまけに綺麗に頭突きまで決めちゃうんだもん! かっこよすぎだよ~!」
とそのとき、チャラ男がふらりと立ち上がって雄叫びを上げながら猛然と泰知に殴りかからんとしたものの、彼の回転裏拳によって再び――今度こそ完全に――伸びてしまった。
「俺のダチに手ェだすヤツは女だろうと容赦しねえぞ!? さっさと失せろやクズ共が!!」
普段の泰知からは到底想像もできないくらいに
俺はさまざまな疑問を先送りにして葉月たちに言った。
「そいつらとお前らがどういう関係かはいちいち詮索したりしない。その代わり、もう二度と話しかけたりしないでほしい・・・・・・。お前らと今後一切、関わりなんか持ちたくない」
それだけ言って彼女たちに背を向けて真木と百合花の許へと歩きながら会話を交わした。
「ところでお前、なんでそんなに強いわけ?」
さきほどの冷徹さはすっかり影を潜めてしまっている。
「あれ? 言ってなかったっけ? 俺、去年まではずっとボクシングやってたんだよ?」
「聞いてねえっての!」
「まあ、蒼ちゃんの勇気には負けるけどねぇ」
「ってか、お前らいつからいたんだ? なんでいんだ?」
俺は今のところ一番気になっていることを訊いてみた。
すると彼はいつものように飄々とした雰囲気のままで宣った。
「えっとねえ・・・・・・。姉貴と映画観に来ててさあ、そんで映画館出たら蒼ちゃんとマッキーがいたから声かけようとしたら、あいつらと揉めてたっぽかったから、ちぃとばっかし正義の味方っぽいことさせてもらったってわけ! そうしなきゃ姉貴に半殺しにされかねないってこともあったけど、やっぱあいつらが赦せなかったってのが一番かな?」
そう言うと彼は持ち前の明るい笑顔でにかっと笑ってみせた。
「ま、おかげで助かったけどな・・・・・・。ありがとう」
すると彼は、礼には及ばんよ、と言いながら奇妙奇天烈複雑怪奇な謎のポーズをとって、また笑った。
それから俺たちは安浦姉弟と別れてから電車に乗り込んで、また三十分ほど揺られながら葉月たちのことと自分の過去についての話をした。
その話を終えるまで真木はただひたすらに黙って聞いてくれていた。
話を聞き終えた彼女は両目いっぱいに涙を溜めて震える声で言った。
「簡単じゃないかもしんないけど、そんなの、もう忘れちゃいなよ・・・・・・。今の蒼ちゃんには、たくさんの味方もいるんだもん・・・・・・。みんな、蒼ちゃんのことが大好きだからさ」
その言葉にはかつての良太たちのものに匹敵する治癒力が秘められていた。
もあのときと同じように人目をはばからずに涙を流しながら頷くことしかできなかった俺のことを、電車の中であるのにも関わらず、真木はただ優しく抱きしめてくれた。
それ以降はただ無言の時間が続いたけれど、その沈黙に気まずさは感じなかった。
駅を抜けると、休日の昼間にしては珍しく人の数がまばらだった。
「私、これで帰るから。今夜はちゃんと寝なさいよ?」
真木はそう言いながら柔らかく微笑んだ。
「今日はホント悪かったな? 今度、ちゃんと埋め合わせすっから」
俺の言葉に彼女はただ頷くだけだった。
「じゃ、また・・・・・・」
真木は頷いてから言う。
「今日のこと、気にしちゃダメだよ?」
「わーってるって。ありがと・・・・・・」
彼女が言ったのは間違いなく葉月たちと再会したときの会話のことだ。
あの瞬間は動揺してしまったけれど、もう気にするつもりはない。
彼女に余計な心配をさせるわけにもいかないし、今は四宮のことが好きなんだから、気にする理由がもうなくなったんだ。
「じゃあね? 蒼ちゃん!」
「ああ、またな・・・・・・」
真木はそのままくるりと身を翻して去っていった。
俺はその背中を見えなくなるまでずっと眺めていた。
感謝の念を込めながら。




